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—写真が凄くきれいでも、自分が汚かったから、その写真は台無しだと思ってます
ーではちょっと写真家としての照沼さんのお話を聞いてみたいのですが、写真表現をする上において「エロ」っていうものをどう意識しています?
照沼 最初の連作のテーマが「食欲と性欲」っていうものだったんですけど、それは私の二面性っていうか、性的なものに魅かれていく部分と、一方でそれを怖がるアイデンティティー的な部分のせめぎ合いを写真にしてみようと。メッシー系の表現が多いですけど、エロス、、というよりは、子供の時の好奇心みたいなあやうい感じを表現したかった。
ーほんとにウェット&メッシー好きなんですね。
照沼 プレイが好き、というより、そのイメージが好きなんですよね。実際に自分がしてみると思ったほど良くはなかったってこと、あるじゃないですか。それをやってる自分を客観的に見る方が快感だし、実際にやるよりそれを作品にした方が、リアルすぎず…。その作品を自分が欲しいっていうのもあるし、可愛くまとめて自分を表したかったんですよね。
―だから写真を撮りはじめた?
照沼 その理由としては…、自分が今ここにいて、誰かと会ったりすると、その人は私を見て何かを思うわけじゃないですか。私にとってそれは、私が作った作品を見て、誰かが何かを思ったりするっていうのとあまり変わらないことだから。自分の存在を自分がここにいるよりも表せるものだと思うんです。だから自分が死んでも、自分が居なくならない事にもなるし。自分がただいるだけでは、こうやってインタビューして頂いたりってこともない。なにかを創って世に出しているからこそ、こういうことも起こるわけで、それは楽しい。昔から何かを創るのはすごい好きだったし、創ったらそれを人に見せたくなりますよね。
ーピュアな衝動ですね。2つの異なる世界に身を置いて気付いた点とかあります?
照沼 やっぱ自分のことをよく考えるようになった…、、あと2つの違いを感じるとしたら世界というより社会を感じます.AVに関しては大体依頼されて行くから、大人の言う事を聞かなくては行けませんし。「人それぞれの世界があって、社会が有る。」それが私の考えなので、「アート界」とか「アダルト界」、、みたいなことに興味が無いんですね。それに自分がAVの方がアートだと思えばアートなんだろうし。あと「分ける」ということに関して言えば、展示の時とかにおいても自分が創った写真だから、その写真はいわば自分の一部だと思うんです。作者と作品は分かれてない。だから、たとえ写真が凄くきれいでも、自分が汚かったから、その写真は台無しだと思ってます。
ーなるほど。作品と作者は不可分である、と。
照沼 自分のイメージの分身っていう感じです。展示の時なんかに作品を誉められたとして、「まだまだですよ」とか「自分なんて可愛くないから」とか謙遜しちゃいけないと思う。謙遜してるくせに自分の作品を見せびらかしてるような人はちょっと信用できない。まだまだなら、わざわざ来てくれた人に失礼だから展示とかしちゃいけないと思う.
―表現者のモラルとして?
照沼 創った人は作品を創ったのは自分だということに責任を持たなきゃいけないとは思ってます。例えばAVとかでも、それを観てる人は夢を見たりもするわけじゃないですか。「こんなエロい子がいるんだぁ」って思うわけじゃないですか。そしたら私はエロい娘として生きていきたいし、自分がイヤになったとしても、自分がそこにいたのは事実なわけだから。そういう意味でも、自分を見せるのであれば、色々な自分が自動的に生まれていくっていうことを覚悟しなきゃいけない気がするんです。
―虚構性に甘えるんじゃないよ、と。いや、シビアなプロ意識ですね。
照沼 私が観る側であったらそうであって欲しいと思うから。夢みたいな綺麗な絵を描く人には、やっぱり夢みたいな人であって欲しい。イメージを背負って生きていって欲しい。
ーそういう表現者が育ちにくい空気はあるように思います。土壌的にも庶民派が好まれるというか。平凡さが共感を得やすいところはあるのかなと。
照沼 私はそういう人に限ってアートとか表現者であることに固執している気がしますね。私はアートとかを特別視している人がすごい嫌いで…、そもそも商業的なものとアート作品とを分けて考えること自体が意味分からない。これはアート、これはアートじゃないとか分けてる時点で、その人はアホなんだなと思いますね(笑)
ーエロ屋としては非常に共感できる部分です。ただ世の中的にはやはり区別されてる。例えばAVの世界とアートの世界ではプロトコルから異なるわけで。照沼さんはその両方の世界に身を置いていて、やはり違和感を感じているんですね。
照沼 いまのところAVのスタッフの人の方が面白い人が多いですよ。「おれたちクリエイティブだぜ」って人達はきどってて話つまらない人が多いイメージ。普通に考えて、ちまちま家で絵を描いてるより、それこそカメラの前で何十人もの女の子が股を開いているという事実のほうが、爆発的にアートっぽいじゃないですか。感動するし、意味分かんないし、考えさせられる。
ーある種のリテラシーというか…、カテゴリーに囚われない鑑賞姿勢みたいなものは育っていかなきゃいけないところじゃないかなって思います。今はパッケージ次第じゃないですか。照沼ファリーザとしてパッケージするか、晶エリー(※)としてパッケージするかで見る目がガラリと変わってしまうわけですから。
※晶エリー…照沼ファリーザは晶エリー名義でAV女優活動を行っている。
照沼 でも実際、今のところ照沼ファリーザとしての表現より、完全に晶エリーとしてのAV女優の表現の方が自由ですから。なんでアートの方が自由じゃないのって話になりますよね。
ーこれはアート界隈の人にしたら耳が痛い話でしょうね。
照沼 画廊とかで個展をやろうにも、ヌードだからダメとか、性的だからダメとか色々ありますから。これはエロいからアートじゃないみたいな。
ー傾向としてそういう規制が強化しているみたいですしね。
照沼 AVより不自由なアートなんてよく分からない。そもそも私の作品についていえば見れば分かると思うんですけどね。自分で判断することができないからカテゴライズに逃げる。そういう人が多い気がしますね。アートなんて言葉は無くした方が良いかもしれない。
ー確かに。ではちょっと質問を変えます。本欄はジェンダーの再考も一つのテーマとしているんですが、現在、男性らしさ、女性らしさといった、ある種自明であったジェンダー観が変化していると言われています。照沼さんの印象をお聞きしていいですか?
照沼 私個人としては男性の草食化とかはあまり感じないです。感じるとしたら女の子ですね。やっぱり恥じらいがない人が多いと思う。実は私、最近AVプロフダクションをやってるんですけど、女の子の面接とかもするんですよ。で、やっぱり女の子は仕事になれるまでは脱ぐ事に抵抗があるんですね。ただ、そこには二通りの理由があって。一つはただカラダに自信がないとか、胸が無いとかの劣等感があるからで、そういう人はダイエットしたり、整形したりで綺麗になれれば脱げるんですよね。体を褒められたりあるいは他の人がやってたりすると、「じゃあ平気」みたいになるんです。
―まぁ、今時な感じですね。
照沼 で、もう一つの理由が、そういう淫らな姿は恥なんだって意識。私何やっちゃってるんだろう、、みたいな。これって当たり前の様でやっぱりセンスで、何を可愛いかって思うのかがそれぞれなように、恥に対するセンスもあると思う。最初は思っても、周りや社会に持ち上げられちゃうと、恥ずかしい姿で、恥ずかしい事を表現してるっていうセンスを忘れてしまう。
AV女優さんでも、そういうセンスがいつまでも有る人はやっぱり内容が上手いし、魅力的って思う。
ーいまやAV女優は憧れの職業の一つになりつつありますからね。
照沼 AV女優じゃない普通の女の子でも生理的な事を平然と口に出されるとエって思う。人間だから生理になるし、エッチもしたくなるしそれは当然なんだけど、でも生理的な部分って恥ずかしいものじゃないですか。それを恥ずかしいって感じ無くなったら人間ぽくない気がする。なんていうか、純粋に可愛くない。
ーそれこそさっきの表現者としての美意識の話にも繋がりますよね。最近は女性が欲望や欲求を「あるがまま」に表に出すのがカッコいいみたいな空気がある気はします。
照沼 私は「あるがまま」って恥ずかしいと思うんです。例えば生まれたままの裸は美しいけれど、それは物質的な美であって、私たちは物じゃなくて人間なんだから思考して演出したりしていかないと。それはエッチなものについても同じじゃないかな。演出のない表現なんて嘘だと思うし。
―「あるがまま」って言葉がある意味で温室ですよね。そもそも「あるがまま」なんてフィクションを未だに信じているのか、という。
照沼 アートにしても日常にしても演出していく部分が大事ですよね。それは見た目とかだけじゃなく、生きている感じ、存在として。わたしも自分のやだって思ってるエロやシリアスな部分を含めても、がんばって可愛いくあるようにあがきたい。もっとエロでもアートでも何にしてもみんなが集団の意識に縛られないで、それぞれに考えて演出できれば楽しいのにって思います。これはこういうものだからとか、人が言ってるからどうこうっていうのじゃなくて、まずはなんでも一回自分で考えなよ、みたいな。とりあえず考えれば、誰しもにそれぞれのセンスが生まれてくると思いますから。
―いや、素晴らしい! 感服しました(笑)
照沼ファリーザ 写真作品
照沼ファリーザ(てるぬまふぁりーざ)
05年大沢佑香としてデビュー。始めは清純派だったがじょじょに実力派女優となり、人気を得る。09年7月に晶エリーに改名。事務所をやめフリーとなり、自らが社長の『株式会社fanfan』を設立。本名の照沼ファリーザ名義で写真家としても活動中。
【照沼ファリーザのワンダーランド】

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