2013年12月21日公開の映画『パリ、ただよう花』で ロウ・イエ監督が描きたかったもの。「人間を描きたいならセックスを避けることは困難ですし、時代を描くのに人間を避けることもできません」。

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2013年12月21日公開の映画『パリ、ただよう花』でロウ・イエ監督が描きたかったもの。「人間を描きたいならセックスを避けることは困難ですし、時代を描くのに人間を避けることもできません」。

文/辻陽介


2006年公開の映画『天安門、恋人たち』以来、中国電影局より5年間に及ぶ映画製作・上映禁止の処分を受けていたロウ・イエ監督の、待望の新作『パリ、ただよう花』が、12月21日、渋谷アップリンクを皮切りに全国順次公開となる。


—愛、セックス、孤独、暴力、人種、文化…
“はざま”で揺れ動く女を描く、ロウ・イエ版『ラストタンゴ・イン・パリ』— 

北京からパリにやってきたばかりの若い教師、花(ホア)。なじみのない街で彼女は様々な男と体を重ね、自分の狭いアパートと大学の間、かつての恋人たちとフランスで新たに出会った人々の間を漂う。ある日、建設工のマチューという男と出会う。一目で恋に落ちた二人は、激しく肉体を求め合う。お互い、秘密を抱えたまま…。



そうパンフレットの言葉にもあるように、本作が描こうと試みているのは“愛の問題”—つまり、女と男、男と女、人と人、そしてセックスについて、である。美しくもあり、また恐ろしくもある、と言葉にしてしまえば陳腐に過ぎるが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』がそうであったように、『パリ、ただよう花』もまた「愛」の触れがたき真実に深く肉薄していく。愛について私たちが何も知っていないように、愛する者についても私たちは何も知っていない—、我と汝を繋ぎ、また断絶する「愛」を描く本作は、あたかも“無知の知”を語るソクラテスのように気高く、そして謙虚だ。


その過激な性描写、また当局による弾圧といった刺激的なエピソードゆえ、ロウ・イエ監督については、そのラジカリズムばかりに気を取られがちであるが、本作を鑑賞すれば、それが早計であったことに気付くだろう。実際に劇場に足をお運び頂ければ分かる。スクリーンには、ロウ・イエの曇りない透徹した眼によって見据えられた、「男と女」がいるだけなのだ。ロウ・イエがラジカルなのではなく、ロウ・イエがラジカルと見なされてしまう状況、社会があり、それを支えている原理こそが、あるいは人間にとってラジカルに過ぎるのではないか、そんな風にも思えるのである。


本作の主人公ホア(花)を演じるコリーヌ・ヤンはLOUISVUITTONやDiorの広告にも出演した経歴を持つモデルで、近年ではレオス・カラックス監督の『ホーリー・モーターズ』にも出演している。ホアの奇妙な恋人マチューを演じるのはタハール・ラヒム。主演したジャック・オディアール監督『預言者』におけるケレン味のない、どこか飄々とした演技は、本作においてますます磨きがかかり、滋味深い仕上がりを見せている。


愛とはなにか。女とはなにか。
セックスとは男女を繋ぐものなのか、あるいは引き裂くものなのか。
多くの問い掛けに充ちた作品『パリ、ただよう花』について、監督のロウ・イエ氏に話を聞いた。




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—本作は監督のフィルモグラフィーにおいて初となる原作のある作品だと伺いましたが、まず監督が本作の映画化を決めた理由と、また原作となったリウ・ジエ氏の自伝小説のどのような点に魅かれたのかについて、お聞かせください。


ロウ・イエ 「スプリング・フィーバー」を撮っている時、彼女がパリから電話をくれました。彼女が書いた小説を読んで、興味があるか聞かせて欲しいとね。そこで小説を読み、とても気に入りました。とても個人的な愛の日記に思えたんです。この小説の中の、奥深くに内在する妖艶さを感じました。それにここには日常のパリが、生活がありました。


—.本作においてはホアとマシューのセックスシーンが、あるいは過剰ではないかと思われる程に、執拗に、かつ濃厚に描写されていました。また、それらのセックスシーンは、二人が愛情関係にあることを表現している、と言うよりも、むしろ二人の関係性の稀薄さ、ディスコミュニケーションのようなものを表現しているという印象を受けました。監督が今作においてセックスシーンをこのような過剰ともとれる形で表現された意図、またセックスという行為についての監督自身の考えをお聞かせください。


ロウ・イエ リウジエの小説は、私が常に興味を持っているテーマを、女性の視線で提示していました。彼女の自伝は率直で正直で、愛に関する我々の考察を、より人間的な視線で示していました。愛情はまず身体が感じるもので、それはロジックや思想、概念、道徳などに先んじて存在する感覚です。だから愛情は人自体に最も近いものでもあり、人間的で美しく、また危険でもあるんです。セックスは、自然で自由な人間にとって欠くことの出来ない要素です。人間を描きたいならセックスを避けることは困難ですし、時代を描くのに人間を避けることもできません。


—本作において、マシューとホアはそれぞれに秘密がありました。あるいはそれは「いかに親密な関係にあろうとも我々は常に他者である」という事実を表現しているようにも感じられました。監督は男女、あるいは愛し合う者たちを断絶する根源的な溝について、どのようなお考えをお持ちでしょうか。


ロウ・イエ 登場人物たちが、私がカップルにしようと思ったからカップルになったとは思わないし、私が引き離そうと思ったから別れたとも思いません。“希望”についても同じです。多くの場合、私たちの多くは、相手が遠いのか近いのか、希望があるのか無いのか分かりません。自分自身に「自分はこういう風に生きるべきだ」と言ったら、その人は既に、その人の人生の真実を失っていることになるでしょう。なぜなら、その人がそう発言する前の、すぐそこに、人生や人間性は横たわっているからです。たぶんね。


—日本版のイントロダクションにおいて、本作にはロウ・イエ版『ラストタンゴ・イン・パリ』というキャッチコピーが付されていました。これは作品内容のみならず製作背景をも含めた上での言葉だとは思うのですが、ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』においてもまた男女関係における「他者性」が描かれていたように思います。妻の亡骸を前に「たとえ夫が200年生きても妻の真の姿は決して分からない。たとえ宇宙を理解できたとしても、それでも、君の正体は分からないだろう。君は一体誰だ?」と独白するマーロン・ブランドの姿と、ホアの結婚を知りながらホアと交わろうとするマチューの姿には、どこか重なり合うものがあったように思います。『ラストタンゴ・イン・パリ』を含め、本作を撮るにあたって念頭にあった映画作品などはあれば教えて下さい。


ロウ・イエ 『ラストタンゴ・イン・パリ』(72年/ベルナルド・ベルトルッチ監督)は大好きな作品です。でも、この映画は『ラストタンゴ・イン・パリ』より日常的でリアルですよね。この映画を作るに際して、いろんな監督が撮ったパリを観ました。大島渚『マックス、モン・アムール』(86年/大島渚監督)もそのひとつ。今観ると、大島監督の気持ちがよくわかったような気がしました。それと、密室でのカメラワークは、神代辰巳の作品を参考にしたりもしました。


—本作においては「“はざま”にあること」というのが一つのテーマとなっています。事実、ヒロインであるホアは、様々な“はざま”を彷徨します。国境の“はざま”、階級の“はざま”、そして男女の“はざま”、これら様々な“はざま”がホアを引き裂いていきます。これらの“はざま”を描こうと監督が思われた動機、また「“はざま”にある」ということに対する監督の考えをお聞かせください。


ロウ・イエ この映画を制作していた時、私は映画製作を禁止されていて、ヨーロッパと中国を行き来していた。文字どおり、漂っていました(笑)。でも、禁止令が解けた今でも、漂う、という感覚はずっとある。どんな人でも絶えず持ってるんじゃないでしょうか。国や地域によって、もちろん違うんだろうけど。花は北京に帰っても、心は漂い続けるんだと思います。


—ありがとうございます。では最後に、これから『パリ、ただよう花』を観る日本の観客へメッセージをお願いします。


ロウ・イエ 花と一緒に、パリの街を、日常を、愛を、感じてください。



『パリ、ただよう花』

(仏・中国/2011年/105分)
監督/ロウ・イエ 脚本/ロウ・イエ リウ・ジエ 配給・宣伝/アップリンク
2013年12月21日より、渋谷アップリンク、新宿K,s cinemaほか、全国順次公開。
公式サイト: http://www.uplink.co.jp/hana/


ロウ・イエ

1965年生まれ、上海出身の映画監督。本作『パリ、ただよう花』の他に、監督作として『天安門、恋人たち』(06年)、『スプリング・フィーバー』(08年)などがある。『天安門、恋人たち』が06年のカンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分を受ける。本作『パリ、ただよう花』が第68回ヴェネツィア国際映画祭のヴェニス・デイズ、および第36回とろんと国際映画祭ヴァンガード部門に正式出品された。







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