須長史生 —コイトゥス再考#25— ハゲ学のススメ・前編 「なぜハゲを隠したらいけないのか」

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コイトゥス再考 #25

須長史生

ハゲ学のススメ・前編 「なぜハゲを隠したらいけないのか」

取材/辻陽介


2012年4月18日。その日、世界中の悩める男たちが歓喜に沸いた。

〈東京理大チーム、毛の生える幹細胞移植で無毛マウスが発毛〉

報道が伝えるところによれば「東京理科大学などの研究チームが、マウスを使った実験において幹細胞の培養による毛包の移植が成功したことを、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに発表した」とのこと。幹細胞、毛包と、見慣れぬタームが並んでいるが、要するに、往古の昔より男たちが抱き続けてきた積年の悲願「ハゲの完全克服」を可能とする技術が、満を持して誕生したということだ。

研究チームは10年程度を目標に人への応用も実現したいと話しており、また大々的に報じられた背中に毛を生やした無毛マウスの写真を見るに及んでも、期待値はかなり高い。神が人に与えし「ハゲ」というスティグマは、とうとう科学の叡智によって超克可能なものとなりつつあるのだ。

……と、やや前のめりに語ってきたが、本欄は上記したニュースとは一切関係がない。いや、まったく無関係というわけではないが、本欄の主眼は、このニュースに男性が歓喜せざるをえないという状況の背景にあたる部分、つまり「なぜ男はハゲることを忌避するのか」という部分にこそある。

先述の通り、男にとって「ハゲ」とはスティグマである。男ならば誰しもが一度は、鏡にうつった己の頭皮を目に、あるいは父や祖父の心許ない頭部を眺め、己が頭髪の行く末に一抹の憂慮を抱いたことがあるだろう。すでに「ハゲ」ている人にとってはむろんのこと、今のところはフサフサだという人にとっても、「ハゲ」の二文字には、なにか言い知れぬ威圧感、その一言で身動きを封殺されてしまうような呪力のようなものがある。

たかだか「ハゲ」ぐらいで大袈裟だと思う方もいるかもしれないが、ことは想像以上に複雑だ。99年に出版された『ハゲを生きる』の著者である社会学者・須長史生氏は、「ハゲ」とは単に頭髪量の多寡の問題ではなく、男性性をめぐる一つの「ジェンダー・トラブル」であると語る。一体どういうことか。

その物理的克服の展望が見えた今だからこそ、「ハゲ」というスティグマの、スティグマである所以をラディカルに問い直す。




■ なぜハゲを隠したらいけないのか



—今日は日本の男性にとって、いまだスティグマである「ハゲ」をテーマに、お話を聞いてゆきたいと思っております。まず基本的な質問ですが、そもそも須長さんはなぜ「ハゲ」を社会学の対象とし扱おうと思われたんですか?

須長 そこには二つの流れがあります。まず一つ目から話します。僕はジェンダー論をずっと学んでいたんですが、ジェンダー論においては一般に、女性は「眼差される性」、男性は「眼差す性」として論じられていて、例えばミスコンであったりお化粧の文化についても、そういった文脈の中で語られていました。「眼差し」をめぐるジェンダー抑圧があるという考えには、僕自身も「なるほど確かに」と納得してはいたんですが、一方で自分の身を顧みた時に、自分は「眼差す性」である男であるにも関わらず、小さい頃から外見を気にして生きてきたなという実感があった。ただ一方で、「男なら外見なんて気にしてはいけない」とも教わってきた。そこにまず奇妙さを感じていたんです。男性がお洒落をしようとする、あるいは外見について悩んでいたりすると「ダメな奴」「女々しい奴」という風に言われてしまう雰囲気があるが、しかし一方では間違いなく我々は日々、外見で他人を攻撃し、また攻撃されているんです。この二重の縛り、捻れを、社会学的に分析してみたい、と考えたのが学問的な動機です。

ではなぜ「ハゲ」がテーマとなったのか。これが二つ目の流れになりますが、大学に入った頃ぐらいから、男友達との関係の中でお互いに「ハゲ」を話題にすることが多くなっていたんです。「あいつはハゲだ」とか「ハゲじゃない」とかいう他愛もない話をしていたに過ぎませんが、なぜ男達はここまで「ハゲ」にこだわるのだろう、という素朴な疑問がまず生じました。また、その語られ方を見ていると非常にジェンダー的なバイアスのかかった内容になっている。そのような中で「ハゲ」そのものに興味を持つようになりました。これだけ多くの人が「ハゲ」るのに、なんで「ハゲ」はこんなにカッコ悪いとされているんだろう、その構造を明らかにしてみたい、というのが関心として生じたんです。

―なるほど。ちなみに須長さんが「ハゲ」研究を始められる前、つまり99年以前の「ハゲ」を巡る言説状況というのは、どのようなものだったのでしょう? 

須長 基本的にはポジハゲ論ばかりです。これには二つの方向性があって、一つはメーカー系の本です。つまり育毛剤やかつらメーカーの人達が「こうすればハゲを克服できますよ」と語るといったもの。こちらについては、論点が異なるのでここでは外します。もう一つは「私も昔はハゲだった、しかしスキンヘッドにしたらこんなに世界が変わりました」といったようなタイプの語り。つまり「ハゲはハゲを気にすることが嫌われている原因であり、気にしないこと、つまりポジティブになることがハゲを克服する第一歩である」と主張するものです。これは非常に受け入れられやすい。そもそも「ハゲ」について、我々自身がすでに持っていた価値観だとも言えます。

―おそらく、いまだにハゲを巡る言説においては「ポジハゲ論」が大勢を占めてるように思います。ところで『ハゲを生きる』において須長さんはこの「ポジハゲ論」を批判的に論じていましたね。あらためて伺いますが「ポジハゲ論」の問題点とはなんなのでしょう?

須長 実は今日もこの取材前に、日本女子大で男性学の一貫として「ハゲ」をテーマに授業を行ってきたんですが、授業の最初に学生達に「ハゲ」に対する意識アンケートを行うと「気にしなければいい」という回答がやはり非常に多いんです。一見すると、この「気にしなければいい」というポジハゲ論的な意見は「ハゲに対して優しい」ものであるようにも思えますが、ここには見逃すことのできない仕掛けがあります。

最近は、一般に差別するのはよくないという感覚が広く定着しており、それゆえ「ハゲ」そのものを差別することは「よくない」といった空気がある。つまり、大体の人間は、自分の力では克服のできないものについて笑うという行為が良くないという意識をはっきりと持っているんです。実際、ハゲに対する意識調査でも、明確に「ハゲが嫌い」と答える人は非常に少数です。例えば複数の女性による「ハゲ」をテーマとした座談会などでも、「ハゲはダメだ」とはっきり口にするようなことはほぼない。しかし一方で「ハゲを気にしている態度が嫌い」ということは非常に歯切れ良く口にするんです。

これはどういうことか。要するに、「ハゲを気にする」ことが良くないと展開してしまえば、これは本人の努力により克服可能な問題となるんです。「ハゲ」そのものは本人の努力だけではどうにもならない問題であり、それを罵ることは「良くない」ことであるがゆえ、「ハゲがだめだ」とは大っぴらには口にしづらい。しかし、「ハゲ」を自意識の問題に還元してしまうことで、「いつまでもウジウジしているのがカッコ悪い」という風に置き換えることができ、高らかに「ハゲ」差別を唱えることができてしまうんです。

ポジハゲ論の問題とはそこで、そのような論点の摺り替えによって開き直れるというのが一番厄介だなと思うんです。もちろん大前提として、自分の生き方としてポジハゲを選択するしないというのは等価です。他人があれこれ言うことじゃない。しかしポジハゲ論的な態度が定着してしまうと、「ハゲでも堂々と出来る人」と「ハゲゆえにウジウジしてしまう人」で、男が分断されてしまう。男を二種類に分けることにしかならないんです。

—確かに「ハゲは気にするからだめだ」あるいは「ハゲは隠すからいけないんだ」というのは非常によく耳にする論法です。また、『ハゲを生きる』内の指摘で興味深かったのは、スダレ頭についての話です。いわゆるスダレ頭やバーコード頭について「あんな風に隠すのがカッコ悪いんだ」といった評価をよく耳にしますが、実は髪を横分けにして整髪料で纏めるというのは、社会人としてはごく普通の髪型である、と。つまり、スダレ頭というのは薄毛になった状態で社会人としての適応コードに則った髪型をしているに過ぎないのであり、それを「ハゲ隠蔽」と見なすことがすでにバイアスがかった視点である、という指摘がなされているわけですが、これはまったくもって目から鱗でした。

須長 そうですね。とはいえ「隠すのがいけない」と言っている側にも基本的に悪意があるわけではないんです。ただ強いバイアスがかかった状態にあると言えます。これは、ハゲ研究の動機にもなった部分ですが、「男らしさ」の問題、要するに「男は外見なんて気にしちゃいけない」というジェンダー観を背景にした問題だと言えるでしょう。

また、ポジハゲ論にはもう一つ問題があり、というのは、現状でポジハゲであれている人というのは、「ハゲ」が気にならないくらいのエリートである場合が多いように思います。つまり、仕事が人一倍できるとか、スポーツが人一倍できるとか、趣味の領域で凄いとか、なんでもいいんですが、「ハゲ」を補うに充分なリソースがある。「ハゲ」を理由にウジウジしなくてもいいようなポジションに自分を置くことができているんです。これはエリート男と一般的な平凡な男とを分けることであり、結果として後者を追い込むような形に、意図せざるものとはいえ、なってしまっている。また、ポジハゲの人も、つまり「ハゲ」であることを大っぴらにしたコミュニケーションをとっている人も、基本的にはピエロになってしまっているということも指摘できます。

―過剰にポジティブであろうとすると、結果として道化を演じることになってしまうんですね。

須長 そうです。そういった過剰な演技を強要する空気がある。このように考えていくとポジハゲ論は何の解決にもならないし、それどころか、多くの普通の「ハゲ」の人にとっては厄介な価値観を持ちこんでしまっているとさえ言えます。これらの点が、自分が「ハゲ」について語る上で、距離を置かなければならない、と強く意識しているところです。

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『ハゲを生きる-外見と男らしさの社会学』
(著)須長史生






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