須長史生 ?コイトゥス再考#25? ハゲ学のススメ・前編 「なぜハゲを隠したらいけないのか」2

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■ 「ハゲ」と「からかい」と「存在証明」



―『ハゲを生きる』においては、実際のハゲ男性を対象に行われたインタビューなども掲載されていますが、これらのリサーチを経ることによって、「ハゲ」に対する印象の変化などはありましたか? 

須長 まず僕の方に思い込みがあったことを言わねばなりません。それは「差別されている人というのは、差別されることに敏感であって、マイノリティに寛容である」というものでした。つまり、「ハゲ」でつらい思いをしてきた人は他の「ハゲ」に対して寛容である、あるいはもっと広げて色んな差別に対して思いやりがある、と思っていたんですね。しかし、実際に「ハゲ」の方へのインタビューを進める中で、他の「ハゲ」の男性についての考えを聞くと、けっこう敷居が高いと言いますか、要するに寛容ではないんです。例えばカツラであったり、バーコード頭にすることについても「そんなものはだめだ」という風に答える人が結構いました。それは非常に意外でしたね。

―ハゲ当事者の中にもポジハゲ的な「隠すことはよくない」といった感覚が非常に強く根付いていた、と。

須長 そうですね。「ハゲ」に対する意識というのは強く社会に規定されているんだなと感じました。

―非常に興味深いポイントです。また『ハゲを生きる』ではハゲを巡る「からかい」の構造についての分析が行われていますが、ここで行われている重要な指摘はまず、「ハゲはモテない」という信念とは裏腹に、「ハゲ」を巡る「からかい」は主に男性間でおこなわれているという点です。

須長 例えば、ミスコンというのは一般に、外見によって女性に序列をつけるものだ、と考えられていますが、その基準にされているのが男性の目なんです。胸が大きい、腰がくびれている、など評価基準は様々ですが、いずれにしても評価の主体は男性であるとされています。では「ハゲ」の場合はどうだろうか。男性同士で「ハゲ」を語る時には必ずと言っていいほど「ハゲたら女にモテないぞ」といったことが語られる。つまり、女性の目を使って「ハゲはだめだ、ハゲはカッコ悪い」といった語りがなされているんですが、そこに使われている女性の目というのは果たして実在のものなのだろうかと考えると疑問があるんです。ミスコンの場合は実態として男性の目があると言えます。審査員も男性ですし、私たちは女性に対する目を日々更新しているという実感がある。ただ男の人が「これこれだと女にモテない」と言う時に、その証拠がどこにもないというか、女の人が「ハゲ」ゆえに男の人を嫌う話って実はほとんど裏付けがないようにも思えます。僕自身、「ハゲ=女にモテない」と信じ込んでいましたし、今でもそういう側面はあるだろうなとは思っています。ただ、「ハゲると女にモテないぞ」と語られる時、そこで想定されている「女」というのは、極めてフィクショナルなものになっている。経験による裏打ちが伴っていないんです。実際、ハゲ男性に対するインタビューにおいても直接的に「ハゲ」を理由に女性に何か言われたであったり、女性にフラれたといった話は聞きません。つまり、「ハゲ」を批判するための理由付けとして女性の目というフィクションが利用されている、と言えます。

―では、あえてフィクションとしての女性の目を利用してまで男が「ハゲ」をからかうのはなぜなんでしょう。しかも「ハゲ」というのは男性ならば誰しもがそうなる可能性のあるものです。いつ誰が「ハゲ」るか分からない状況の中で、いわば諸刃の刃にもなりかねない「ハゲ」への「からかい」を行うというのは不合理にも思えます。

須長 重要な点はそれが「からかい」であるということです。つまり見ず知らずの人を「ハゲ」だと攻撃するということは余りなく、基本的には友達同士のコミュニケーションの中で「ハゲ」に対するからかいというのは行われている。「ハゲ」は「からかい」の場における攻撃の材料であっても、相手を打ちのめすために用いられる材料ではない、と考えると分かりやすいのかもしれません。

基本は戯れであると言えるでしょう。相手を攻撃し、そしたら相手も反撃してきて、そうした応酬を楽しむ作業。「ハゲ」に対する「からかい」の本質を、そういった戯れであると考えるならば、たとえ諸刃であろうと、「ハゲ」を題材に相手へ攻撃をしかけるというのは、理解できないことではないんです。小さい頃から、「ハゲ」に限らず、例えば太っているだとか、貧乏だとか、親がアホだとか、題材を変えながらも「からかい」というのは行われてきていて、感覚としてはその延長線上にあるんです。

―つまり「からかい」や「戯れ」の場に於いて「ハゲ」は格好のネタであるいうことですね。ただ一方、それがたとえ「戯れ」であっても、「ハゲ」と言われている側は嫌な思いをしているというのは収録されているインタビューからも明らかです。「ならばそういうことは控えましょう」となりそうなものですが、『ハゲを生きる』においては、そのような単純な帰結が避けられている。これは「からかい」の本質に関わる問題だということが論じられています。

須長 そもそも私たちは「道徳的に生きなければいけないからこれまでの悪弊を治す」ということを余りしないんです。本書では「からかい」の構造の中にある「人格のテスト」の部分に触れて、そこを説明しています。確かに「からかい」は良くない。他人の外見を悪く罵るというのは、どう考えても正しくない。しかし、私たちは「からかい」を小さい頃から行っている。その仕組みの大前提というのは「楽しもう」という部分なんです。表面的なコミュニケーションばかりだとよそよそしくなってしまうので、できるだけ相手の懐に踏み込んで、一歩間違えたら傷付けてしまうような、だけど傷付けないギリギリのラインを探しながら、相手を攻撃する。攻撃された側は、「傷ついた」といって本気で怒ってしまったら場が白けてしまいますので、逆に「からかい」によって反撃したり、あるいは別の角度から反応するなりして、そのやりとり自体を楽しいものにしていく。このような形で、男同士においては年がら年中「からかい」が行われているんです。また「からかい」の一連のプロセスの中で、相手の反撃の仕方、攻撃を受けたときのリアクションというのが実は丁寧に観察されていて、いい反撃、いいリアクションを行える人というのは、その後の友人関係において「いいやつ、できるやつ」という形で評価が高まっていくという構造があるんです。

つまり、「からかい」自体が、仲間同士の能力を試す目印になっている。それを僕は「人格のテスト」と名付けました。互いに「人格のテスト」を行いながら、仲間内でポジショニングがはかられていく、そういう構造が「からかい」の中にはあるんです。それは男同士の関係性において、単なる道徳的な正しさよりも重要な意味があるから、諸刃の刃であるにも関わらず「ハゲ」に対する「からかい」が行われるのだと言えるでしょう。

―はい。ただ、この点においてはまだ「そんなことをしないと保てない関係性ならそんな関係性からは抜け出してしまえばいい」と言うことができます。しかし、須長さんは『ハゲを生きる』において、この「からかい」の応酬というゲームは男性集団のホメオスタシスを維持するという機能に留まるものではなく、もっと重要な機能があるということを指摘されていますね。

須長 社会学者の奥村隆先生の理論に「思いやりとかげぐちの体系」というものがあり、これは「私たちの社会は他人を肯定することによって自己を肯定するという体系によって成り立っているんだ」という考えです。つまり、相互に「存在証明」を行うためには「思いやり」によって互いが互いを全肯定する必要があります。他人から面と向かって否定されることはその人の「存在証明」を脅かすことになりかねません。しかし、だからといって「思いやり」による全肯定だけを行っていると人間関係が非常に嘘くさいものになってしまう。そこで「かげぐち」を行うことでリアリティを確保することによりバランスを図るのだという、大変興味深い議論です。

ただ、この「思いやりとかげぐちの体系」を男同士の関係性に当て嵌めようとすると、ちょっと腑に落ちないところがある。なぜか。そもそも私ぐらいの世代の男同士の関係性を見ると、基本的には誉め合うということをしないんです。仮に「誉める」としても、それは「落とす」ための前振りのようなものである場合が多く、素直に誉めるということを滅多にしない。むしろ男同士の場合は「けなし」から入り、お互いにそれを乗り越えながら、またその乗り越える作法において機知やウィットを評価し、互いの「存在証明」を行っていくところがある。ジェンダー的に考えるなら、奥村先生の「思いやりとかげぐちの体系」は、極端にいうと女性的な「存在証明」のありかただと言えます。男性においては「からかいによる攻撃とその克服」というのが「存在証明」として機能しているんです。

先程、仰っていたように、「からかい」を通じた関係性というものには「そんな仲間関係なら飛び出ればいいじゃないか」という疑問も生じます。たとえ根底に「楽しむ」ということがあるにせよ、年がら年中、攻撃を受けているのはやっぱりしんどいし、面倒くさい。例えば「ハゲ」のようなマイナスのスティグマがあれば、状況はよりつらいものになってしまう。そんな関係性は捨ててしまい、もっと生きやすい場所を探せばいい。これは当然の発想なんですが、案外、私たちはそういった「攻撃と克服」の関係性から出ようとしないんです。少なくとも『ハゲを生きる』を書いた99年時点ではそうでした。それはどういうことなのかと考えると奥村先生の「存在証明」というのが重要な概念となってきます。男であれ女であれ、生きやすさとは別に「存在証明」を必要としているんです。とりわけ男性は、全肯定の存在証明、つまり「思いやりとかげぐちの体系」ではなく、攻撃され、またそれを克服したことを示して他人に認めさせるという過程の中で「存在証明」を獲得していく傾向がある。つまり、自分自身の安心とアイデンティティーの確保のために「からかい」のゲームに参入していくんです。

―「思いやりとかげぐちの体系」を採用した場合、確かに角は立たなくなりますが、ルーティン化する中で、やはり全体的な嘘くささが鼻についてしまう。それが満足のいく関係の構築に繋がるかと言えば、そうとも言えない、ということですね。

須長 そうです。表面上を取り繕ったところで長期的に見ると居場所がなくなってしまうんです。ならば表に出してもらったほうが良いとなります。同じネタで「からかい」を行い続けることに人は飽きますから、結果としてそうしてくれた方が自分も早く楽になれる部分がある。これは「ハゲ」に限らず、男同士の場における「裏で言うくらいなら表で言えよ」という価値観の背景にあるものだと思います。いわゆる「男らしさ」の問題なんです。

―「ハゲ」をネタにからかわれることはきついけれど、それを回避しようと男同士の関係性を拒絶してしまうと、自己の「存在証明」を得る機会を失ってしまう。つまり「ハゲ」という「からかい」に応答する場合、無視することも、本気で怒ることも、難しいとなる。すると、ひとまずは「ハゲ」の人は「からかい」のゲームに参加せざるをえない、ということになるのでしょうか。

須長 授業においても最後に必ず少し時間をとってそういう話をするんです。まず教科書的な答えから述べるなら、「ハゲはこうしたらいい」っていう言葉がそもそも筋違いである、と言えます。つまり、「ハゲ」問題というのは「ハゲ」の側にではなく、「ハゲ」を差別する側にあるのだ、と。だから、自然現象で「ハゲ」になり、一方的に攻撃されている「ハゲ」の人達に、やれ「堂々としろ」だ、やれ「スキンヘッドにしろ」だ、と言うのは不条理も甚だしい。よって、まず「ハゲ」には何かをする義務がないということが言えます。では、どこに問題があるのか。当然、「ハゲ」を笑う側に問題がある。ならば、どうすればいいのか。教科書的には「ハゲを笑う人を笑え」と言うことができる。つまり、みんな「キャッキャッ」と笑うけど、「ハゲ」を差別する、つまり自分ではどうにもならないことを笑うというのは、障害者を笑うことと同様、極めて下劣なことであるのだから、そんな奴をこそ笑う価値観を身につけなければいけない、と。まぁ、ここまでが教科書的な正解ですね。

しかし実際はと言うと、目の前で「ハゲはつらい」と言っている人に対して今言ったようなこと、「ハゲを笑う人を笑えばいいんだよ」と言ってみたところで、何の解決にもなりません。じゃあどうすればいいのか。私なりに考えたこととしては「お金をためてプロと組みましょう」と。もちろん、今のままでいい、スダレ頭でもカツラでもいい、と言う人はそれでまったく問題ありません。しかし、現状ではそれが一番攻撃される。ならば、ファッションのプロと組みましょう、と。素朴ですが、割に効果的であると思います。

仕事の関係て大手化粧品メーカーのシンクタンクに在籍されている方やメイクアップアーティストの方と仲良くさせて頂いていたんですが、彼らに「ハゲの人をハゲを隠さずにカッコよくすることはできないのか」と質問したことがあるんです。すると食い気味に「できます」と答えるんですね。その人の職業や雰囲気、あるいはハゲ方に合わせて、ハゲを自然に見せる方法はいくらでもある、と。また、そういう依頼も実際に受けている、というんですね。ただなぜそれをもっと大々的にやらないのかと聞けば「えげつない」と。つまり仕事としてあざとい、と言うんです。頼まれればやるが、ハゲにフォーカスして、仕事を行うのは気が引けるようなんです。

プロに相談し、髪型、服装などもトータルにプロデュースをしてもらう。お金がかかりますし、もちろん、これが全てではないんですが、飽くまでも今の社会において、そしてハゲ当事者の人の困難を和らげるという意味においては、最も妥当な策ではないかと思います。

<須長史生・ハゲ学のススメ・後編を読む>

須長史生

1966年生まれ、東京出身。社会学者。昭和大学准教授。著書に『ハゲを生きる‐外見と男らしさの社会学』(勁草書房)がある。



『ハゲを生きる-外見と男らしさの社会学』
(著)須長史生