伏見憲明 —コイトゥス再考— 越えがたきジェンダーという背理 2

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—性に関わる限り、それがどんな関わり方であれ、論理的には差別になってしまうんです。


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『プライベート・ゲイ・ライフ』
(学陽書房)



―そのような風潮のなか、伏見さんは91年に『プライベート・ゲイ・ライフ(以下、プラゲイ)』を出版し、ゲイがカミングアウトをした上で一般社会の中で生きていくという一つのスタイルを示されたわけです。ただ、この本で何より驚きなのは、当時はまだバトラーもセジウィックも日本へは輸入されていなかったにも関わらず、ゲイ問題のみならず、ジェンダー問題一般について卓抜した知見を示されてますよね。当然、書いた当時はバトラーも知らなかったわけですか?

※ジュディス・バトラー…(1956~)アメリカ合衆国の思想家。フェミニズム、クィア理論、政治哲学などの分野で活躍。著書として『ジェンダー・トラブル ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』など。

※イヴ・K・セジウィック…(1950~2009)ジェンダー論、クィア理論を専門とするアメリカ合衆国の社会学者。著書として『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』など。

伏見 バトラーが日本に輸入されてきたのはその三年後ですから、まったく知らなかった。フーコーですら読んでいませんでした。

※ミシェル・フーコー…(1926~1984)ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者。未完の著書『性の歴史』によって、その後のジェンダー論に大きな影響を与えた。

―それが驚きですね。

伏見 まあ、いまだってそんなに勉強してるわけじゃない(笑)

―(笑)。それこそ『プラゲイ』で提示されている性別二元制=ヘテロシステムという構図は、未だにジェンダーを考える上で欠かせない知見です。

伏見 そもそも勉強をして云々という話ではなかったんです。90年くらいでも、セクシュアリティを考えるテキスト自体がほぼなかった。ジェンダーという概念も80年代の時点ではフェミニズムの議論にやっと出てきていた程度でしたし、さらにセクシュアリティや性の問題に関してはフェミニストの中でも唯一言及していたのが上野さんくらいだった。しかも、その上野さんでさえさっきお話したような感じでしたからね。フーコーの『性の歴史』はすでに出ていたんですけれど、当時の日本では誰も意味が分かっていなかったと思いますよ。上野さんは80年代に『性の歴史』を留学先のアメリカで読んで衝撃を受けたとか書いてますけど、「嘘こけ」と(笑)。もし理解していたのなら、86年に「ゲイを差別する」なんて書くわけないだろ、と。

―はい(笑)

伏見 デビュー作を書く上でテキストにしたのはある意味で自分の経験なんですね。ぼくはゲイリブ学生ではあったんだが、同時に20歳やそこらのふつうの若者でもあったわけで、そりゃモテたいわけです。かなりフェミニンなタイプ、つまりおネエなゲイだったんで(笑)、ゲイだからというより「女っぽい」という理由で子供の頃からすごく虐められたりしていて、自分の女性的な部分にすごくトラウマがあったんです。そういう背景も手伝い、80年代当時の「男らしさ/女らしさよりも自分らしさ!」っていうフェミニズムのスローガンを割と素直に信じてしまったんですよ。「ずっと男らしくしなきゃいけないという強迫観念で苦しかったが、これからは自分らしく自由に生きよう!」と思ったわけですよね。それで自分の心のあり様に忠実に、大学へも男子が着ないような色の服を着ていったり、おネエ態度で堂々と過ごしていたりしたんですけど……、いかんせんモテないんだよね(笑)

―切実な悩みですね(笑)

伏見 あまりにもモテず性的に餓えると、なんでだろう、おかしいな、とさすがに思うわけです。自分は政治的には正しいことをしているはずなのにおかしい! なぜモテぬ!? と。で、よく周りを見渡してみると、ゲイの中でもモテている子というのは、大抵、態度物腰が男っぽい子で、ファッションも流行のものを身につけていたりするんですね。一方でおネエを全開に出している人はゲイの中でもモテていない。なんでかな、と考えた末に、ヘテロシステム=性別二元制というアイディアに至ったんです。今の人達にしてみれば当たり前すぎる話だと思うんですが、要するに、性というのは男制と女制という二つのジェンダーを巡る欲望なのだ、と。そういうコペルニクス的転回がぼくの中で生じたわけです。対象の人格や個性といった要素に対してではなく、二つのジェンダーに対する欲望のことを我々は性と呼んでいるのだ、と。性別二元制というのはぼくの命名ではないんですが、男制と女制をベースにした欲望がセクシュアリティである、ということに気付いたわけですね。

―しかも、それはゲイにおいてであれレズビアンにおいてであれ同様である、と。ヘテロと同じく性別二元制の組み合わせの一つに過ぎない、となるわけですね。

伏見 そうです。それで、ぼくは流行の服装を着て、おネエ言葉は使わず、小指も立てないようにして二丁目とかでプレゼンテーションを試みたんです。すると声の掛かりがよくなった。「なんだ、こんな簡単なことだったのか」と(笑)。これは男女関係についても同じですよね。例えば女の子は自らを女制というジェンダーイメージに同一化させるために化粧を一生懸命して、無駄毛も整える。お洋服にもこだわる。

男の場合、ゲイにしてもストレートにしても欲望の対象はビジュアルが中心になっているから、ある意味、単純なんです。見た目の発情が中心です。一方、女性の目線は少し複雑でちょっとまたシステムが違う。ビジュアルだけではなく、関係性や社会的地位のような記号が性幻想に深く入り込んでいる。そこはシンメトリーな構造になっていない。だからヘテロの男は単純に見た目だけ磨けばいいって話ではなくなりますよね。女性は、男性の裸を見れば濡れる、って話しにもならない。

―そうですね。ところで今のお話は、「正しさの追求が快楽の追求と両立しない、あるいは相反してしまう」という問題を端的に表していると思うのですが、この問題というのは、例えばフェミニズムにおいても、今なお充分に解決しきれていない問題だと思います。

伏見 そう。この問題についてはただ誤摩化しているだけなんです。今のジェンダー論は言葉は洗練されていて、議論も一見難解なものになってはいるんですが、本質的な議論の骨格はあまり変わっていない、というのがぼくの印象です。哲学用語などが散りばめられていて、一見すると高尚になっているんですけど、問題の本質は80年代とそんなに変わらない。

―上野千鶴子さんが2010年に出された『女ぎらい』という本で、上野さんはセジウィックなどを参照しながらミソジニーについて書かれていましたが、要するにこの本において上野さんは、男女、あるいはLGBTを問わず、ミソジニーはこの社会に生きる人々の欲望の核にまで入り込んでしまっているから、社会において欲望を実行することが即ちミソジニーに加担することになってしまう、といったことを書かれています。これは伏見さんが『プラゲイ』で提示した、「関係性が男女であれゲイであれレズであれ、性的欲望を実現した途端にヘテロシステムに加担することになる」という問題の一つの変奏のようにも思えますね。

※ミソジニー…女性、あるいは女性イメージに対する蔑視、偏見、嫌悪の感情。ジェンダー論においては、ホモソーシャル(男性社会)はこのミソジニーによってこそ維持されると言われており、また近代社会はこのホモソーシャルを中心に成立しているため、ゆえにミソジニーは社会の深層にまで浸透しているとされる。伏見氏もまた『プラゲイ』において「女を侮蔑することによって男は男としてのアイデンティティーを確立している」と述べている。

※LGBT…レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシュアル(B)、トランスジェンダー(T)をまとめて総称する頭字語。

伏見 性別二元制というシステムの中で特権的な場所にいる人は誰もいないんですね。凄く極端に言い換えてしまうと、性はある意味で「差別」なんです。差別構造から超越した性というものはほぼ存在しない。自分は電信柱に欲情するからジェンダーと無縁である、だから差別に加担してない、って言ったとしても、電信柱の向こうに男制を幻視しているかもしれないからね(笑)。

―女性であることが女性差別に、ゲイであることがゲイ差別になってしまうという背理が、フェミニズムにおいても、あるいはクィア理論においてもアポリアとしてあるわけです。このアポリアに対して伏見さんが『プラゲイ』の時点で提案したアイディアというのが「イメージゲーム」ですね。

伏見 そうですね。まず、そのアポリアは容易に乗り越えることが難しい。性に関わる限り、それがどんな関わり方であれ、男女のジェンダーを「力関係」「差別関係」としてだけとらえるのならば、論理的には差別になってしまうんです。例えば、レズビアンの関係であったとしても、女同士で互いに欲望を抱き合うことは、女ジェンダーというものを肯定することになってしまう。女ジェンダーというのは男女の相補的な有り様の一方の側面。性別二元制においては、男がいなければ女もまたいないという対構造になっているわけですよね。つまり女をそのまま肯定するということは、今のジェンダーシステムを肯定するということになってしまう。だから結局、差別に加担することになってしまうんです。ゲイだろうが、レズビアンだろうが、バイだろうがね。性的な欲望というものを肯定した瞬間に、差別を含む社会の差別的なシステムを肯定してしまうことになる、そういうアポリアがある、と。

ではどうすればいいのか。91年当時のぼくが言い得たのは、性というものをマジなものじゃなくて、ある種のゲームにしてしまおうと。つまりジェンダーを戯画化する、パロディーとして性を享受してゆくということです。男ごっこ、女ごっこ、異性愛ごっこ、同性愛ごっこ、組み合わせはなんでもよいですが、いずれにせよ、それはゲームであって本気なものではないのだから、差別もまた本気ではないものにしよう、と。それを意識的に行っていくうちに、あるいは隘路が見出されるのではないか、というのが、20年前にぼくが出すことのできた唯一の処方箋だったわけです。当時はそういう言い方しかできなかった。

―それぞれのジェンダーイメージを自覚的にロールプレイしてゆく、ということですよね。

伏見 そう。「性とはゲームである」という前提に立ちましょう、とね。

―ヘテロシステムにせよ、イメージゲームにせよ、アイディアとして、現在においても充分に興味深いものだと思うんですが、出版当時の反応というのはいかがでしたか?

伏見 今お話したようなアポリアの問題まで関心をもてた人は当時は少なかったように思いますね。あるいは、矛盾を突かれて怒っちゃった活動家とかいたけど(笑)。美輪さんとかテレビ芸能人を別として、初めてゲイの人間が名前と顔を出して「ぼくはゲイです」とカミングアウトを行い「私たちは差別されています」と言った本でしたので、どちらかといえば、その側面にばかり焦点がいってしまった感じですね。また充分に理解していた人も当時の反応を見る限りではほとんどいなかったと思いますよ。

―『プラゲイ』に反応できていたのは、それこそ上野千鶴子さんであったりフェミニズム方面の人達ぐらいのものだったんですね。

伏見 そうですね。またヘテロシステムの議論とは別に、あの本において意味があったと思っている部分があって、それは「性というのはグラデーションである」という考え方です。性と一言に言っても、そこには性役割があり、性的指向があり、また性自認がありといった具合に、幾つかの軸のグラデーションの交差のなかに人間の性は存在するんですね。ぼくは『プラゲイ』において、その見取り図のプレゼンテーションを試みたんですが、それが後々、トランスジェンダーやクィア的な議論、つまり人間の性とは非常に多様であり、ひとつのアイデンティティに回収できるものではない、という議論にもリンクしていった。ああいう多様性の議論の考え方は、ずいぶんいろんな方に援用されました。

―『プラゲイ』の冒頭を飾った<ヘンタイ>宣言にも、その思想が表されていますよね。「あなたもあなたであろうとすれば<ヘンタイ>なんだ」と。

伏見 実際に社会はそうなっていったじゃないですか。今では誰もが自分の「性の偏向」について語ってる。今さらゲイだと言ったところで、少なくとも情報空間では誰も驚きなんてしないし、むしろ最近では性についての自分の偏向を語ることが、個性について語ることにもなっている気すらします。『輪るピンクドラム』じゃないですけど、「何者にもなれない私の唯一の個性は、ちょっと変わった性」みたいなね(笑)

―性的嗜好がアイデンティティになりつつある、と。

伏見 アイデンティティといえば聞こえはいいが、どちらかといえば「売り」みたいな感じですよね(笑)。そして、こうあまりにも多様になっていくと、大きな枠で記号化さえできないから、同じ問題を共有している感覚というのは逆になくなってきますね。現在、同性愛者の運動がかつてほども盛り上がらないのは、そういう感覚が広がったから、というのもあるでしょう。「指向」というのは解放運動的な表記だけど、もう「志向」でも「指向」でも「嗜好」でもどうでもいい、みたいな気分だよね。


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