伏見憲明 ?コイトゥス再考? 越えがたきジェンダーという背理 4

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?差別問題を欲望問題として読み替えることによって、誰もが特権的な位置にいられなくなってしまうんです。


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『欲望問題』
(ポット出版)



―ここからは伏見さんが2007年に出された『欲望問題』という本について、お聞きしていきたいと思います。ぼく自身、非常に興味深く読ませて頂いたんですが、ぼくは『欲望問題』を『プラゲイ』の続編、あるいは延長線上にあるものとして読んだんですね。『プラゲイ』が提示したアポリアについて、あらためて伏見さんの立場というものが明確に打ち出された一冊だったと思うんです。まずお聞きしたいのは、なぜあのタイミングで『欲望問題』を書こうと思われたんです? 

伏見 前提から話しますと、自分で言うのもなんですが、ぼくはゲイリブの文脈においてはフロントランナーの一人なわけですよね。フロントランナーなんだけれども、実はよく読んでゆくと『プラゲイ』の頃から、反差別運動にありがちな倫理主義、弱者至上主義とは意識的に距離を持っている。だけど、初めてのカミングアウト本を出した人間であるという事情もあって、そうした違和感が隠蔽されてしまってきたというか、見ないようにされてきたというか、「この人は最初のカミングアウト本を出した人だから、なんか変だけどしょうがない」みたいな感じが運動に関わるような人たちにはあったと思うんです(笑)。

実際にぼくの中には、既存の社会運動に対する批判意識がずっとあって、だからこそ一時期は「キャムプ」とかを持ち出してなんとか良い方向へ持ってゆこうとはしていたんですが、どうもやっぱり、性的少数者の運動も、どの社会運動にもありがちな方向に行く。閉塞化していくというか、分かりやすい左翼になっていくというか(笑)、似たような流れを踏んでしまうんです。

―運動そのものが自己目的化してゆく、ということでしょうか?

伏見 自己目的化してゆくというのも一つですし、自分達の正義の檻の中に閉じ篭ってしまう。狭いコップの中で、どっちが権力的でないかとか、どっちがより間違っていないかとかを競うゲームに終始しはじめる。そういう状況に抗う仕事をぼくはけっこう意識的にしてきたつもりなんですね。『プラゲイ』もそうだったし、色んなことを試してみたけれど、どうもやっぱうまくいかない。そこで、それは本質的な考え方自体が間違っているんではないだろうか、と再考したんですね。

おそらくぼくは『欲望問題』を出したことによって決定的にゲイリブ的な文脈、ジェンダー論の文脈の中での影響力を失ったんです(笑)。そもそも、ぼくの立場をはっきり打ち出したら、左翼的なメンタリティの人達が離れていくだろうというのは覚悟の上だったんですが、でも最後にぼくがまだ言えることをちゃんと残しておこうと思った。絶対に今の言説状況の中で『欲望問題』はメジャーな形では受け入れられないし、運動やクィアやジェンダーのアカデミズムからは嫌悪されたり無視されたりするはず、だけれども、これを残していくことによって、後から来る人の小さな道標になればいいな、と考えた。やっぱり、クィア理論やジェンダー論が問題提起として共感されても、その方向性に疑問を持つ人もいると思うんです。それが『欲望問題』を出そうとした理由です。

―たしかに『欲望問題』は「運動をしたい」という人にしてみれば、肝の力が奪われるというか、戦いづらくさせられてしまう本でしょうね。

伏見 そうでしょうね。運動というものが盛り上がるのは、自分達が正義だっていう無根拠な確信があるからなんだけれども、「いやいや自分達は正義じゃないかもしれない」、「相手とのコミュニケーションの中でしか正義というのは獲得できないんだ」と、ぼくは『欲望問題』の中でそう言っちゃったわけです。そりゃ嫌われるよね(笑)

―そうですね(笑)。これまで運動の根拠とされてきた差別問題というものを、あらゆる欲望が混在する社会における多様な欲望問題の一つとして読み替えたわけですから。

伏見 そう読み替えることによって、誰もが特権的な位置にいられなくなってしまうんです。だから、当然それは運動をやっている人達には嫌われる。あるいは、無視される。出版社のサイト*でも『欲望問題』の書評を色んな人に書いてもらったんですが、とはいえジェンダー系の人達の中で書いてくれたのは加藤秀一さんとイダヒロユキさんくらいのもので、また彼らでさえぼくの問いに正面から答えてくれていない。上野千鶴子さんにしても『女ぎらい』の中で触れて下さったけど、『欲望問題』に対してきちんと応えてはいなくないですか?

http://www.pot.co.jp/tokushu/yokuboumondai

―少なくとも『女ぎらい』では問題がズラされていた感がありました。

伏見 見事に話を逸らされていて、読んだ時にびっくりしました。ぼくは個人的には上野千鶴子さんのキャラが好きだし、お世話にもなってるし、今でも会ったらファン心が刺激されて「わ! 上野さぁ~ん!」とか思っちゃうんだけれども、ただあの反応の仕方を見た時に、言論人としてのぼくの彼女への関心は終っちゃったんです。まあ、同時にぼくもジェンダーや運動の文脈では終った人になってしまったわけですけど(笑)。

―受け入れ難い本であるのは確かでしょうね。逆に明確に批判を寄せてきた方はいらっしゃらなかったんですか?

伏見 イダヒロユキさんからは、批判的な文章を頂いたんですけど、文字数が異様に多くて、ご自身の主張が延々と綴られてはいたんですが、本の肝に対する分かりやすい批判にはなっていないような……申し訳ないのだけど、内容がよく分からなかった。加藤秀一さんからも批判を頂きましたが、彼も上野さんと同様、位相を変えた反論?で、『欲望問題』で加藤さんを直接批判した部分は見事にスルーされていた。

―では少し『欲望問題』の内容を振り返ってゆきたいと思います。性別二元制、ヘテロシステム、ホモソーシャル、ファロクラシー、いずれにせよ運動の文脈においてはある種の「悪」として考えられている構造ですが、『欲望問題』で伏見さんは、それをドラスティックに変化させる、あるいは解体するというのではなく、生活感情に基づいた個々の快楽の追求の中で、よりよき方向を模索すべきだ、ということを言われているわけですよね。これはある種の市場主義で、つまり資本主義を打倒せよというマルクス主義ではなく、市場の秩序が個々人の欲望追求によってこそ維持されるという前提は認めつつ、そこで生じた軋轢等に対しては、個別具体的に改善を図る、より快が大きくなるよう努めてゆく、と。

※ホモソーシャル…イブ・K・セジウィックが提唱した概念。セジウィックによれば、ホモソーシャルとは、ホモフォビアとミソジニーによって維持される「男同士の絆」を意味する。

※ファロクラシー…ファルス(男根)中心主義に基づく男性支配社会。

伏見 そういう言い方をしてもいいと思います。ネオリベとかレッテルばりをしていた人もいたけど(笑)、市場に全て任せられるわけではないのは当然だけどね。今は誰しも正義や正しさを根拠づけられなくて困っているわけでしょう。例えば、「性別二元制があるがために性的な抑圧や差別が生じる、だったら無くせばいい」っていう議論は分かりやすいんだけれども、先程も言いましたが、我々が得ている快楽というのは、ほとんどが性別二元制の中で派生しているものなんですね。女の子が化粧したり、お洋服を着たりするのも、男の子がロックを聞いたり「ヘイ、ベイベー!」なんて言って盛り上がったりするのも、欲望の根源に性別二元制がある。その根源を除去すれば、確かに差別はなくなるが、私たちが生きていく上での楽しみや生き甲斐を、少なくともこれまでのような形では、一切享受できなくなってしまう。むかしの共産国家になるようなものだよね。差別や抑圧がなくなれば万事よしってわけじゃないからね。

―ジェンダーは必要悪である、と。

伏見 悪という表現も違いますよ。快楽でもあるし、抑圧でもある、幸福でもあるし、不幸でもある。今のアカデミズムにいるような人達は不誠実な人が多い気がしますよ。議論を抽象化し、条件や保留をつけたり、専門用語で装飾することによって、うまく逃げているようにしか思えない。昔のウーマンリブ時代の運動家たちの方がよっぽど誠実です。「女であることがいけないんだ」という結論に達したら、徹底的に女であることはやめて、髪の毛は伸ばしちゃいけない、化粧はしちゃいけない、服はジャージみたいなものしか着ちゃいけないみたいな、なんか凄いことになっちゃってたわけです(笑)。愚かしいけれども、態度としては誠実。そこまでもいけなくて、一方で「性別二元制はいけないんだ」、あるいは、分割線そのものが権力作用だということを主張するわけですが、分割が権力=悪であれば、男女のジェンダー役割をいくら縮小したところで、悪が存在することには変わらないわけですよ。

―なるほど(笑)。一応、誤解が生じるといけないのでお聞きしておきたいんですが、だからといって伏見さんは性別二元制やジェンダー制度というものを手放しで肯定するという立場とも少し違うわけですよね?

伏見 こういう問題をインタビューで扱うのは難しいですね。単純な物の見方しかできない人たちから誤解ばかり呼びそうで(笑)。例えば、ぼくは結果として二元制が解体されたとしてもいいわけです。人々が自分達の欲望を生き、また体現していく中で、欲望そのものが変質して「二元制なんてうっとうしくない?」といった状況になれば、全然、二元制じゃなくなったっていい。ぼくだって、既存の二元制の内実を変えるための活動をしてきたわけだし、これからもするはずだしね。だけど、二元制自体がいけない、悪であると最初から規定してしまうと、結局、多くの賛同も得られないし、自己矛盾にさえ陥って、机上の空論で終わってしまう。この辺りを過不足なく伝えたかったので一冊の本を著したわけなので、まあ、拙著を読んでください(笑)

―そうですね。ジェンダー論や社会運動に興味のある人には是非とも読んで頂きたい本です。この記事に対しては、その欲望の出自をめぐって批判がきそうな気もするので先回りしておけば、欲望が社会的に形成されるというのは、たとえ社会を一から作り直したとしても同様です。であれば今ある欲望から出来る限り快を引き出していく方向で考えるのが妥当であって、本来、快を得るためのツールであるはずの理論が、快の否定となってしまうことは転倒である、となります。

伏見 欲望は既存の社会の中から立ち上がってくるものだから、いまある社会自体を全否定すると、自分自身をも否定することになる。人々を生きやすくするための理論が、かえって生き難くさせてしまうというパラドックス。それに今ある社会を悪としてしまうと、現実的にそこにコミットすることもできなくなる。だから提案や代案もなく批判しかできない人ばかりになる。批判だけなら自分を汚さないからね。

もし『欲望問題』に批判をもらって、またぼくがその批判に納得したのなら「間違ってました」ときちんと言いますよ。自分の頭で考えたものなんて所詮…じゃないですか? 間違っていたらさっさと自己批判すればいいだけ。つまらないプライドとかないからね、ぼくには(笑)。

―ところで『欲望問題』においても、伏見さんは処方箋を提示されていますよね。楽しさや気持ち良さのプレゼンテーションによって人を動かしていくという「こっちの水は甘いよ」戦略(笑)。つまり、倫理ではなく、快楽によって煽動した方が人は動く、と。

伏見 倫理や理念といったもので全てを変えようとすると、かつての社会主義国のようになってゆくのが関の山なんです。それよりは自分達の欲望を調整しながら、より心地よさの実現に近付けてゆく方法の方が良い。もちろん互いの欲望がぶつかり合うから落としどころは見つけづらいし、だからこそ政治権力というものも必要となるのであって、すんなりいく話ではないですよね。ぼくに言えることは、人の欲望はそれぞれ違って、なかなか一致する点を見いだすのは難しいのだから、「我慢できる程度のことは我慢しよう」そして「本当に我慢できないことに対してはしっかり異議申し立てしていこう」。「もちろん、他者の欲望に耳を傾け、配慮することも大事」と。

―それこそ「特権的な位置はないんだ」ということを理解することが肝要になってくるわけですね。

伏見 何年か前に東北で、ふんどし姿の髭の男の写真があしらわれたお祭りのポスターが駅に貼られていて、「気持ち悪いから外せ」というクレームが来て、排除されたという騒ぎがありましたよね。ふんどしの胸毛男ぐらい我慢しろ!と(笑)。その人にとっては気持ち悪かったのかもしれないけど、心地いい人もいるんだし、自分が目を逸らせばいいだけ。その程度のことでクレームをつける、あるいはクレームをつけられたからと言って、それを外してしまうというのはどうかと思います。ああいった形で自由が損なわれていくのは、違う気がしますね。

―多様性の中では配慮も必要でしょうけど、その配慮によって社会が窮屈になってゆく危険もありますよね。

伏見 自由の品格が問われてくる。それは他者との関係性に関わる問題です。

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