伏見憲明 ?コイトゥス再考? 越えがたきジェンダーという背理 5

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?社会運動的、社会批判的なものというのは、ある事象の悪いところしか見ない。その上で世界像を構築するから、それがもっていた良い面は全て捨象されてしまう。



―では、ここからは現在のジェンダー状況について伏見さんのお考えを聞いてゆきたいと思いますが、『欲望問題』においても、近年のセクシュアリティのあり様について、伏見さんの印象が幾つか語られていますよね。とりわけ気になったのは「現在の性の場面ではジェンダーはかなりパロディー的な機能を果たしている」という指摘です。

これはつまり『プラゲイ』で伏見さんが提案していたイメージゲームが実際に性の現場で行われてきているという風にも言えるとも思うんですが、それについては一男性としてもはっきりと共感できますし、また普段エロ本を作っている編集者の立場としては、少なくともポルノ表現においてはほぼ完全にジェンダーがパロディー化されていると言ってよいと思っているんです。日常的なジェンダー感覚からは乖離したジェンダーがエロ本には描かれているわけですが、100%ではないにせよ、読者の方々もそれを理解した上で楽しんでくれている、というのを感じるんですね。伏見さん自身、ジェンダーのパロディー化を日常生活の中で感じていらっしゃるんですか?

伏見 ゲイの場合は特に感じやすいんですよ。例えば、おネエっぽいゲイ同士でセックスをするとなった時(笑)、とりわけ互いの欲望がフェミニンなものよりも男っぽいものを求めている場合、相手も自分もある程度はジェンダーをパロディー的に演出していかないと盛り上がらないんですね。昔、上野の傑作劇場というところでホモ映画が上映されていたことがあったんですが、そのホモ映画はストレートの人達が作っていたんです。おそらく、現実のおネエなホモを描けばホモにもうけるんだろうと思ったんでしょうね。喘ぎ方が「いやぁっ、感じちゃうぅ」みたいなおネエっぽいセックスになっていて、当事者が見ると、「わかってない、それ違うし」みたいな(笑)。実際のゲイのあり様はともかくとして、セックスにおいては「すげぇ、兄貴、感じるぜ」みたいな男っぽい演出、そういうパロディー的なものを取り入れることで発情が高まるわけです。

―そうですね。他にも、例えば最近は全くのノンケ男性でもBLマンガを楽しんで読んでいたりする。それもジェンダーのパロディー化として考えられると思うんです。またジェンダーのパロディー化とは別に、伏見さんは「見る/見られる形式も相互的になってきている」と述べられていますよね。

伏見 これも特にゲイにおいて顕著ですよね。ストレートの男性はあまり「見られる」ことに慣れていない、性的な欲望としてもあまりない、 特に上の世代になればなるほど、自分の身体自意識が低い。以前、ぼくは渡辺淳一の『愛の流刑地』の分析を試みたことがあるんですが、あの小説では主人公とヒロインのセックスが何回戦も行われるわけだけど、とにかく男は風呂に入らないし、シャワーも浴びないんです。描写をはしょっているからはなくて、時系列的に記述しているのに、そういうシーンがない。それなのに平気で女性にチンコを咥えさせたりする。ぼくなんか、「そのチンポ、臭いだろ」みたいに思うわけ(笑)。女の人は風呂に入るんですよ、ちゃんと。そこに男性の身体感覚というのが顕著に分かりやすく表れていて、自分が見られたり、匂いを嗅がれたりするっていう、性的身体である自意識がないんだよね。

今の若い世代の男の子は、眉毛をいじったり、他人に「見られる」ってことが身についてきているけど、やっぱり未だもって男子は女子と比べた時に「見る」側の性である側面は強いと思います。一方、ゲイの場合は「見る/見られる」両方の快楽を楽しんでいる傾向がありますね。女の人よりも見ることで欲望するし、見られるということについては、女性と近くなってきている。ジムに通って筋肉をつけたりするのは、化粧をしたりドレスを着るのと似たような行為なんですね(笑)。

―たしかに男性は自らを客体化する快楽において女性より遥かに意識が低いとは思いますが、徐々に高まってきているようにも思います。そもそも、ミソジニーということについても、かつてとは随分と形が異なってきているようにも感じるんですね。

伏見 若い20代くらいのストレートの男の子と話したりしていると「ミソジニーってあるの?」って感じがしますよね。草食系というか、性的に薄い印象を受ける子が少なくない。マチズモなんて感じられない男子って多くないですか? フェミニズムで使われている紋切り型の概念や、世界像がちょっと古くなっているんだと思う。少なくとも若い人達を見る限り、男の子より女の子の方がセックスに積極的に見える。今までだったら「男だったらこうする」「女だったらこうする」みたいな家父長制的な?ルールに乗っておけば、なんとかなったものが、今日日そうもいかない。すると、突然、男という下駄なしで自分個人の力量が問われることになる。すると男の子の方は自信もないから、女の子をセックスに誘うことにもハードルが高くなる。あるいは、リアルより二次元のほうが心地よい人も増える。ま、平等になってきたということだよね。

―ジェンダーという下駄がなくなってしまったというのが、晩婚化、草食化、あるいは非モテ問題などの本質にあるのは確かだと思います。ただ、下駄がない状況に上手く適応している人達も当然たくさんいるわけです。その中で、古いタイプのマチズモみたいなものを引きずっている人間からいわゆる非モテに陥っているように個人的には思ってるんですね。彼らは女性に対するコントロール欲求や支配欲求をいまなお強固に持っているわけですが、実際の女性にそれを望んでも、現在はなかなか難しいわけです。ゆえに何もできず二次元のみの世界に撤退したり、あるいは諦観して「セックスなんてどうでもいい」と嘯いたりしてみせる。もちろん、一概にそうであるとは言いませんが、そういう傾向はあるんじゃないかな、と。

伏見 それはこのお店でもよく話題になるテーマなんですが、ここでは、例えば、「童貞をこじらせてる問題」と呼ばれるものです(笑)。童貞をこじらせている子は、自分が自分の世界の王様であり続けたいがために、現実へのコミットメントがなかなかできない。

―そうですね。だから現在、性や恋愛を楽しみたいのであれば、ステレオタイプな男らしさみたいなものを降りていく、ホモソーシャル的なものから距離をおいていった方が、楽しめるという気がするんです。

伏見 降りるっていうより、より現実的にいうと「もはや降りざるをえない」わけですよね。右肩上がりの時代は終って、自慢できることなんて男にはあまり残ってないわけですよ。今は女の人も社会進出してますから、若年層ではそこにもだんだんと特権はなくなってきている。むしろマッチョであることが困難な時代ですね。

―はい。ただここにも両価性はあって、マチズモが弱まっていくこと自体はポジティブに捉えられるものの、それまでおそらくマチズモとワンセットになっていたであろう向上心やモチベーションのようなものを、今後はどう担保してゆけばいいのか、という問題も一方で生じると思うんですね。「男として胸を張りたい、だから頑張る」っていう心性は安直とはいえ、生きる上でのモチベーションとしては大きかったですから。

伏見 本当にそうかもしれませんねえ。男らしさも、ホモソーシャルも悪い面ばかりではないと思います。

―80年代に浅田彰さんが当時の家族問題を揶揄して「家族という病の末期症状」といったような表現をされていたと思うんですが、2010年を過ぎて、いよいよその病が膏肓に入ってきたな、と。

伏見 なんか最近、男と女、マジョリティとマイノリティ、強者と弱者みたいな、単純な構図で語れていた頃は話が簡単でよかったな、とも思ってしまいますよね(笑)





?日本では政治的な集団が形成されにくく、欧米的な視点から見ると「遅れている」とも言えるが、一方でクィア的な視点から見れば日本は最先端なのかもしれない。



―伏見さん個人としては、今後どのように社会へとコミットしていかれるおつもりですか?

伏見 この頃、全然コミットしていないから分からないですね(笑)。個人的には『欲望問題』を書くぐらいまでは、ゲイでもクィアでも性的少数者でもいいんだが、そういう大文字の共同性をベースに考えたり、発言をしたりしていたんですが、さっきも言ったように欲望の多様化が進んでいて、今はそうしたカテゴリーで語ったり、主張したりという気分にはあまりなれない。共通項を見つけることさえ難しい。

―例えば2000年代の後半からは女装子や男の娘など、新しい呼称で自らを定義するトランスジェンダーの人達も台頭してきました。

伏見 そうした多様化は益々進んでいくんじゃないですか。ストレートのほうも多様化しているので、性的マイノリティという括りも無効になってくるのかもしれない。ぼくの店にくる「ふつう」の男子たちも、実はその異性愛の欲望の内側は複雑だったりする。そんな状況だと、ゲイだからこうしようとか、パレードをやろうとか、そういった大きなモチベーションやエネルギーが生まれてこないんですよ。もちろん、それをやろうという人達を否定するつもりもないし、応援くらいはするんですが。

―伏見さん自身がもはやゲイを代表することができない、と。

伏見 もともと、自分はゲイを代表して物は言えませんよ、とデビュー作で宣言してるんですよ。あくまでも伏見個人の偏向したフレームの中での「ゲイ語り」をしているつもりでした。といっても、メディアで発言すれば、ある程度、代表している印象も生まれるし、そういう責任だって生じるわけですが。

まあ、今後も納得のゆかないことがあれば、それをきっかけに社会へ働きかけることもあるかもしれない。でも先頭を切って、というのはもう引退でいいや、と思ってはいます。

―ゲイという共同性が拡散している、また特定の主張に基づいた団結が生まれづらくなっているというのは、ゲイの方々が抱える自己不安が、かつてよりも薄らいでいるという風にも考えられるんではないでしょうか? 

伏見 今は個々人がそれぞれの不安を抱えている感じじゃないかな。例えば古式ゆかしく、ゲイであることに強い不安や悩みを抱えている人というのは、若い世代のゲイの中にはまだ多くいると思うし、一方でそういう苦悩とは別に、漠然とした老後への不安や、実存的な不全感を抱えている中年ゲイも少なくない。鬱病などを患っているゲイは身近に相当多い。ことほどさように現在には現在の不安というのがあるとは思うんだが、それが一つの政治的な勢力になるような、政治的争点というのは見えづらい。もちろん、反動的な勢力が現れたらそれに抗する政治的な集団を作る可能性だってあるけれど。

―ではレズビアンの存在についてはいかがでしょう? 現在はゲイの存在がかなりメジャーになっていて、分かりやすい差別の対象からは大分脱却したように見えますが、一方でレズビアンの存在はまだまだ不透明というか、偏見も強くあるように思うんです。その分、マイノリティとして、社会の中で新しい動きを起こしていく力を持ちうるのではないか、と。

伏見 ほーんと?(笑) あまりその議論にのれない理由の一つは、レズビアンというアイデンティティが、ゲイと比較しても不明瞭なものだから。男って性的欲望の輪郭が女性より明確なんですね。 何を見たら勃つとか、何に興奮するみたいな嗜好、指向がはっきりしている。一方、女の人の欲望は輪郭が不明瞭で、男性に比べればだけど性衝動も薄い。単純に、何を見て濡れるというのでもなく、関係性への嗜好が強い。だからレズビアンっていう限定された性的アイデンティティになかなか回収されないんですよね。「男も好きだけど、でも最近は女が好きで…」とか、「普段は男と付き合ってるけど、女ともセックスできるよ」とか、そこらへんのあり方がゲイよりも遥かに柔軟で複雑なんですよ。それゆえ、かえってレズビアン・アイデンティティみたいなものが成立しづらい。当然、政治的な主体としても集団になりづらい。むしろ、フェミニズムのほうが政治的には層を成すことが可能では?

男性は視覚的なエロを好む傾向があるので、ゲイ雑誌もネット以前は成り立ちましたが、レズビアン雑誌というのは当時から難しかった。それは経済格差があってビアンが貧乏で雑誌が買えないからとかそんな話ではない。そもそも女の人が視覚的なエロをそれほど求めていない、加えて「可愛さ」とか「美」とかを求めるのであれば、ふつうの女性誌で満足できてしまう。そうなるとカルチャーにもなりづらいんですね。そもそも日本においては同性愛者っていうアイデンティティすら危うい。元々の性的な土壌がぐじゃぐじゃなんです。その中では当然、レズビアンが大きな集団として政治化する可能性は想像しづらい。ぼくはゲイ雑誌だけではなく、レズビアン雑誌も作っていたことがあるので、身にしみて分かるんだけど。

―たしかに日本という土壌はただでさえ戦いには向かない土壌だとは思いますし、ぼく個人が知っている範囲でもバイ的なレズビアンが多い印象はあります。

伏見 あるいはヘテロの女子でも「3Pだったら女の子と絡んでもいいわ」みたいな子がざらにいる。日本においてはゲイでさえ危ういし、性をアイデンティティにした政治的な集団が形成されにくいんですよね。欧米の活動からすると、それは遅れているっていう話になるんだが、あるいはクィア的な視点から見れば日本は最先端なのかもしれない。クィア理論からのアイデンティティ・ポリティクスへの批判って、論文とかでは盛んだったけど、ほんとのところ、この国では相当空しい(笑)。だって、もともとがぐずぐすな土壌で、アイデンティティ・ポリティクス自体が成立し難い。それに、明確な敵がいないでしょう。公に同性愛者を差別してくれるのは石原慎太郎ぐらいのものです(笑)。全てにめりはりがなく、なんとなく流れていく。でも、その「なんとなく」の中で、自分たちが生活していく上で必要なものを見つけ、解消していこうとすることが大事で、そういう地味な活動をしていくしかない。敵を見つけて祭りにするみたいなのは、のれんに腕押しというか、一部活動家の間では盛り上がっても、当事者の間でも、あるいは社会的にも、今後益々インパクトを持ちづらい。

―そうですね。『欲望問題』にもあるように、肝要なのは皆が「個々の現場でより快のある関係を作っていく」ことなのだと思います。…………さて、本日は大変勉強になりました。最後になりますが、ジェンダー状況は刻々と変化しているとはいえ、性的欲望やジェンダーを巡って日常生活の中で不快を感じている人達はまだまだいると思います。かつてはその一人であった伏見さんから、彼ら彼女らに何か伝えるべきことはありますか?

伏見 社会はあなたのために椅子を用意してくれているとは限りません。社会というものは、すでに出来上がっているものではない。もしその中に椅子がなかったのであれば、自分で椅子を作るしかありません。その椅子を作る時にはきっと周りに協力してくれる人もいるでしょう。それに、100年前と比べれば、遥かに自分の椅子が作りやすいような環境になっています。性の問題だったら、あなたを手助けしてくれる言葉はもはやたくさん存在している。それでも、あなたの生き難さが救われなかったら、自分で自分の言葉を探し、紡ぐしかありません。



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伏見憲明(ふしみのりあき)

作家。1963年東京生まれ。武蔵野音楽大学付属高校・声楽科卒。慶応義塾大学法学部卒。1991年、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)でデビュー。2003年には、初の本格小説『魔女の息子』(河出書房新社)で第40回文藝賞を受賞。著書に『さびしさの授業』『男子のための恋愛検定』(理論社)、『ゲイという[経験]増補版』『性という[饗宴]』『欲望問題』(ポット出版)ほか多数。編集長として『クィア・ジャパン vol.1~5』(勁草書房)、『クィア・ジャパン・リターンズ vol.0~2』(ポット出版)を刊行。2010年に小説集『団地の女学生』(集英社)を上梓。

現在、週1、水曜日だけ新宿二丁目のゲイバーでママを務める。ゲイ以外のお客様も大歓迎。詳細はホームページへ。http://www.pot.co.jp/fushimi/