【VOBO】じゃぽにか論考Ⅱ/ポストメディア時代の広告化するアート(足立区立第3中学校2年・武内華紫翠(たけうち かしす)・2014年7月26日)

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足立区立第3中学校2年
武内華紫翠(たけうち かしす)
2014年7月26日





どーもです、とりあえずスペック→ JC(中2)、彼氏持ち(年上、30歳)

ちょっと前から、じゃぽにかってアート?わら のグループのひとたちと交流してます

彼ら、炎上~ とか言ってしつこくてウザいので、私なりに論破?しようと思って書きました

はじめは掲示板とかにスレ立てようと思ったんだけど、じゃぽにかのおっさんたちにここ紹介されて、ここでで書けばいいじゃんって言われたんでここで書きますね。







じゃぽにか論考Ⅱ
ポストメディア時代の広告化するアート




 この論考は、現代の社会とメディア状況におけるアートの在り様を捉えながら「じゃぽにか」の活動を位置づけるために書かれる。ネットとアートとがつながり、どのような新しい表現が生み出されうるのか、その道筋を示したいと思う。それが「ポストメディア時代の広告化するアート」という表題に課された問いである。


 まずこの連載の前回の導入において、じゃぽにかの活動をケロッピー前田氏に紹介して頂いた。その活動のなかで本論にとってとくに重要なのは、2014年の第17回岡本太郎現代芸術賞展をベースに、美術館とSNSの間を渡ってメディアを往還しながら作品現象が現前したことである。このようなアートの様態とネットにおける炎上現象について素描することからはじまる。そのうえで「芸術は炎上だ!」という言明の意味とは何か?また椹木野衣氏から問いかけがあった「炎上」の批評性についても考察する。


 また、美術/社会/メディアの現代的な背景としてフェリックス・ガタリが予言的に述べた「ポストメディア」という時代状況をとくに3.11以後と重ね合わせながら参照し、同時代のアートへと水平方向に議論を敷衍してゆくことにしたい。chim↑pom「real times」、竹内公太「指差し作業員」そしてカオス*ラウンジの活動をとりあげ、多様なメディアに寄生しながら横断して物語や意味を生成してゆくアートの新しいタイプの形式を捉えてゆく。このカテゴリのことを北田暁大にならって「広告化するアート」と呼んでみたい。こうしたメディア状況においては「なぜ美術館で展示をするのか?」というスタティックな意味-解釈学的な問いではなく、「アーティストはなぜメディアを横断するのか?横断することによって何が創出されるのか?」というダイナミックな意味-ポストメディア的問いへと観点を移すことになる。アートのメディア横断的運動とその鑑賞の流れを追いながら、その現象レベルにクリエイティビティを見いだしてゆこう。


 ネットが浸透することによって、資本主義経済やマスメディアだけでなく、アーティストも広告を手にする状況になった。それによって表現はどのような創造力を持ちうるのか?また、ネットを介して肥大化する炎上や噂やおしゃべりによって醸成される社会空間は何をもたらすのか?ポストメディア時代のアート、そのアクチュアリティを見定めてゆきたい。


震災とSNSの普及




 現代社会にWWWや携帯電話などのネットワークメディアが普及するにつれて表現やコミュニケーションのかたちも変容しつつある。日本では95年前後(携帯電話の買取制度、「Windows 95」、「テレホーダイ」など)に普及がはじまり、00年台前半には「Yahoo!BB」の登場をきっかけに低価格の高速・常時接続が一般化した。ブログ、LINE、あるいはfacebook・Twitter等のSNSのように個人が自由に開設できる表現主体(アカウント)が順次出現し、メッセージを伝播拡散するコミュニティが発達した。特に2011年の東日本大震災においては、地震直後の混迷した状況で電話のような同期型の通信手段が輻輳をおこすなか、非同期型で回線を占有しないパケット通信でメッセージを交換するSNSがアクセスの一極集中を回避することに一定の効果を発揮したと言われている。その後の福島第一原発事故への国民の注視を背景に、SNSは更なる広がりをみせた。情報収集のツールとしてもソーシャルメディアをインターネット新聞と同等に重視しているという調査報告があり、震災を境にtwitterのユーザー数は500万以上も一挙に急増している。若者やオタクそしてヘビーネットユーザーだけでなく、大衆にSNSのような情報メディアが広く一般化する契機となったのは、地震の物理的な揺れであったのだ。このような社会不安に乗じたネットメディアの普及は、阪神大震災(1995年、携帯電話の普及)やアメリカ同時多発テロ(2011年、ブログの興隆と「ラザーゲート事件」)の際にも見られた。2011年前後におきた「アラブの春」、そのきっかけとなったジャスミン革命では、独裁政権下の国内情勢を全世界にむけて発信するためにFacebookやtwitterが用いられた。このように3.11と合わせてSNSの社会的なアクチュアリティが関心を高めている。


 また、WEBから情報を摂取する際には、ユーザはいくつかのプラットフォームを横断して情報収集を行うことが知られており、たとえばtwitterで話題をキャッチしてからその後にgoogleで検索をかけるというような傾向性が認められている。twitterの情報の速さとgoogleの検索力が組み合わさるというような、それぞれのプラットフォームの特性を上手く連結したネット的知がつくられている。



悪ノリSNS



 かくして一般大衆にまで広くSNSが定着したわけだが、2013年の春先からは、若者の「悪ノリ」画像投稿とそれに伴う「炎上」が話題となっていた。手軽に情報を発信し相互に交換する内輪ノリのドメスティックな空間が、オープンなネット上に張り出しているのだ。閉じているのにもかかわらず、世界に晒されているコミュニケーション空間。データをひとたびネットにアップしてしまえば、誰がそれを異なるコンテクストで誤配するか分からず、スモールワールドではわずか6ステップで世界中の人々に届きうる、そんな空間である。


 昨年6月には高知県のローソンで、アイスケースに入り寝そべるアルバイト従業員の画像がネット上に広まり、不衛生だとして見事に炎上。従業員は解雇、店舗はローソンとのFC契約解除にまで至った。そして堰を切ったように同様の模倣犯的な「悪ノリ」画像投稿が相次ぎ、炎上ラッシュが巻き起こった。警察車両に乗っかって逮捕される者や、迷惑行為によって店舗を閉店に追い込む事態まで発生し物議を醸した。TVのワイドショー番組がこうした「悪ノリSNS」を積極的に取りあげ、ネット上の「炎上」その現象自体も大衆化したといえる。これらにたいして、若者のマナー低下やメディアリテラシーの向上を唱える者が多いが、捉えようによっては、むしろアートにとって新奇な表現スタイルや作品現象となるかもしれない。


 一つには近代的な権威の浸潤をうけずに自由な表現の場を獲得できる機会であること。ネットで発信することは、費用もかからず、技術も要さず、身分を明かすこともなく実行可能な環境を提供している。たんなる迷惑行為を超えて、一人の労働者が組合などを設けずとも、劣悪な労働環境にたいしてサボタージュの意思を表すこともできるはずだ。もちろん、そのためには正しくユニークなバイトテロの作法を構築することが求められるが。その他にも内部告発や権力批判、責任から遊離した言動、あるいはちょっと恥ずかしい趣味の共有など、匿名であることによってコミュニケーションはより開放される。しかし一方で、もし投稿者がネットにおける規範を犯したのならば容赦なく集団的な制裁がはたらくだろう。つまりこれは新たに出現した「ネットを介した現実的な権力」なのである。


 二つめに、アートにおけるコミュニケーションの派生(メッセージの発信と反応のパターン)として新たな状況が生じていること。一つのアクションが一極集中の反応を集める「炎上」というかたちで現象レベルの作品を成立させるということは十分に考えられることだ。たとえば広島の空でくり広げられたchim↑pomの「ピカッ」(2008)は、コミュニケーションの生態としては「悪ノリSNS」と同型ではないだろうか。そうした状況において、どのようなメッセージの質がどのような反応の伝播パターンを生みだすか、あるいは、ネットワークメディアが欲望するメッセージの質(刺激や悪意)とは何か?これを知ることが現代人にとって極めて重要であり、それをさらに超えてゆこうという意思が求められるのである。


「炎上」という現象



 炎上とは何か?ある言動にたいして賛否両論が巻き起こり、負の情態性がネットを覆い、ブログのコメント欄には不特定多数の批判や誹謗中傷が殺到する(コメントスクラム)。ネットにアップされた不法・不道徳な振る舞いを見つけ出し、個人を特定して告発、バッシングの集中砲火を浴びせる。「2ちゃんねる」のスレッドにおいて「荒らし」が収まらない状態が続き、おまとめサイトに情報が保存され、立て続けに新しいスレッドが乱立、個人や新聞社のニュースサイトへ拡散してさらにウォッチャーが増殖する。ネット内にネガティブなメッセージが充満、連鎖し、動物的な道徳・全体主義的な粛正・感情的なポピュリズムが空間を支配する。近年ではそんな炎上の情景がネット内で頻繁に見られる。アメリカの憲法学者キャス・サンティーンは、こうした炎上の現象を含んだネット内のコミュニケーション特性について「サイバーカスケード」と呼んだ。意見や疑念を同じくするものはネットを介してすぐさま結びつき、互いに強化しながら集団極性化する。仮想敵にたいして攻撃的な思考に陥り、誹謗中傷を繰り返すというのだ。


 炎上だけでなく、デマ、流言、噂のような社会の集団心理のモチーフは共通した傾向性をもっている。その基礎型を心理学者のオールポートとポストマンは「噂の公式」(1947)として以下のように示している。


『噂の流布量=重要さ(importance)×曖昧さ(ambiguity)』


 重要さ(importance)とは、コンビニの炎上の件を例にあげれば「食の衛生」を指す。曖昧さ(ambiguity)は、「どこの店舗か?この人物は何者か?(責任の所在)」が不特定であるということ。このように話題の重要さと曖昧さがかけ合わさったとき、炎上(噂)が肥大化する。もう一つ例をあげよう。2013年のエイプリルフール4月1日に、美術ジャーナリスト名古屋覚が美術雑誌「月刊ギャラリー」に東京都現代美術館が閉館する旨のウソ話を寄稿し、炎上した。本人はこれをユーモアであるとしたが、「重要さ」(都現美の存続とそれに関わる文化政策の諸問題)と「曖昧さ」(エイプリルフールであるが、雑誌における美術ジャーナリストの記事であるし…。)が相まった結果の炎上だと考えることができる。また、この記事の曖昧さには、事実が未確認であることとは別に、当該のメッセージのコンテクストが不確定であるということが大きく関与している。


 コンテクストの政治学、これも炎上の要因の一つだと北田暁大は述べている。顔を合わせないネットにおいては、生活世界における慣習や規約がコンテクストの相互調整にあまり寄与せず、コンテクストの共有、内在している状況の同一性への信憑性が希薄になり「コンテクスト闘争の前面化」がおきてしまう。コンテクストとは、コミュニケーションにおいてそれぞれの者が、次に行うべき選択肢群がどれであるかを告げる「出来事・心理的枠組み」のことだ。たとえば「エイプリルフールには嘘をついてよい/騙されてもしかたない」という慣習。このとき、嘘をつく行為のコンテクストにあたるのが「エイプリルフール=4月1日」という日付である。「評論家」という肩書きが「信じる」という行為のコンテクストにもなっている。北田はこう述べる、ネットにおいて問題なのは「何がいまわれわれの行為における文脈(コンテクスト)であるのか、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまうこと」だと。実際の炎上においても、内容より、語り口や作法への批判が多く見られるという印象は確かにあるだろう。


 炎上の動向をさらに細かくみてゆくと、その展開するプロセスにおいて、役割や機能の異なる多様なエージェント/メディアが複合的に関わっており、要素として浮上してくる。ブログのようにコメント欄があり炎上が個別化するタイプ。フロー型のサイト(2ちゃんねる・SNS)とストック型のサイト(まとめサイト・togetter)の組み合わせ、そしてニュースサイトなどが連結し、それぞれの情報の信憑性や集積の仕方に異なる特性を持ちながら炎上が複合化するタイプ。このタイプには多様な媒介者の意思が介在しており、ネタを散布して炎上を焚き付ける者、まとめを自主的につくる者、個人サイトに拡散する者などがおり、パーマリンクとリツイートがこれらをネットする。こうした複合タイプの炎上では、スケールフリーネットワークのなかでハブ(結節点)の座を占めるエージェントやプラットフォームが何にあたるか、これを突き止めるのが炎上の要点になりうるかもしれない。


 たとえば、1973年の取り付け騒ぎ「豊川信用金庫事件」がある。これはネット時代の炎上ではないが、豊川信金の倒産デマが一部地域に広まり、結果として26億円あまりが預金者達から一気に引き出されることになった。日本でも唯一、炎上のプロセスが詳細に解明されている事案である。警察の捜査によると、この取り付け騒ぎでは、地域に顔がひろいクリーニング店の店主が炎上のハブにあたる存在となっていた。炎上が加速度を増す決定的な要因となったのはある偶然によるのだという。その店主は、あらかじめ親戚筋から豊川信金の経営不安デマを耳にしていた。そのクリーニング店へ、たまたま来店した客が店内で電話を借りたさい、他意はなく仕事上の都合で豊川信金から預金をおろすよう指示をした。これを目の前で見ていた店主は噂を事実と確信(誤認)し、その後、積極的に周囲の得意先などにデマを拡散するようになる。まるでニューロンが信号を発する「シナプス加重」のように、同様の情報を異なる2つの系列(親戚と来店者)から得たおかげで自身が情報発信者となったのだった。この誤認においても、ある種のコンテクストのはき違え(勘違い)がおきている。


 とはいえ、炎上の要所を突き止めればそれを当事者として操作可能である、などということがあるだろうか。私はそうは思えない。豊川信金では局所化された地域でひろまったデマを事後的にたどることは出来たが、ネット環境におけるこの社会現象を総体として知ることは困難である。ミクロなコミュニケーションのつながりは膨大で、複雑系の様相をもつし、絶えず周囲を巻き込みつづけるこの現象にたいして客観的位置を占めることが本質的であるとも思えない。観察者として、いくつかのパターンを抜き出すことはできる。しかし、炎上の最中にあって、自身がどのような位置を占めることになるかは知り得ないことである。


 誰でも経験があるとは思うが、筆者も炎上に介在したことがある。文化庁長官の芸大での講演が炎上したときや杉田陽平のパクリ問題にも関わったことがあるし、好むと好まざるとにかかわらず不意に炎上の周縁に巻き込まれていってしまう。どこから、どのような経路で炎上が拡散するか、自分はどの位置いるか、これらを特定することはネット社会においては不可能だろう。ちなみに「豊川信用金庫事件」で、炎上の最初の火種となったのは、信金に就職の内定が決まっていた女子学生とその友人達がからかい合って交わす電車内のおしゃべりであったという。


「芸術は炎上だ!」じゃぽにか@TARO賞



 じゃぽにかは、上述したような悪ノリSNSに着目して岡本太郎現代芸術賞へのプランを応募して入選を果たし、展示&パフォーマンスによって特別賞を獲た。タイトルは岡本太郎の名言をもじって「芸術は炎上だ!」と命名し、ネットを介して巻き起こる「炎上」をモチーフにする。美術館にコンビニを模した空間をインスタレーションし、その場で軽薄な悪ノリパフォーマンスを行い、会期中に画像を撮影してtwitterに順次アップロードしてゆく。むろん鑑賞者によってアップされた画像もそのうちに含みながら。


 第17回岡本太郎現代芸術賞展では、当年からはじめて鑑賞者による作品の写真撮影が自由に許されることになっていた。近代的な施設としての美術館、図書館、博物館、コンサートホール、劇場、教室といった場(メディア)は、それぞれの歴史とコンテクストによって自らを自立させ、経験を経験たらしめようとする。作品と直接対峙するという静かな鑑賞経験を重んじるため、日本では撮影禁止である美術館がいまだに多い。これに逆らって出された撮影許可の方針は、そうした近代主義を捉えなおし、展覧会自体のネットへの流布といったポストメディア的な状況における作品鑑賞が念頭におかれているのであろう(残念ながら館内は圏外だったが…)。筆者の考えでは、こうした近代的な施設は、一度は徹底的にネットの浸透を引き受けるべきであると思っている。それを近代主義の破壊としてではなく、新たな経験可能領域をひらくこととして。


 会場で撮影したパフォーマンス画像は、トリミングや画像の再配置の加工をくわえて、じゃぽにかのtwitterアカウント(@japonica_art)からアップされた。そこに140字以内のツイートを添えることで現実は捏造される。いや、断片化された画像と歪曲したコメントによってTIMELINE(ツイッターの時系列)の現実が醸成されるといった方が正しいかもしれない。いくら現場の雰囲気がしらじらしいものであっても、会田誠など名のあるアーティストに寄生するように記念撮影をして、TL上ではじゃぽにかのパフォーマンスは賑やかで乾いた笑いと悪ノリで彩られている。鑑賞者は、撮影や悪ノリそしてアップロードなどによってじゃぽにかの作品現象にその身を投じることもできる。また、美術館にて実際の展示を目の当たりにし、TL上に生起しているTIMELINEの現実と混交してその虚構性に目眩を覚えるかもしれない。それがネットと現実の間に生じる生であり、「芸術は炎上だ!」の鑑賞様式なのである。


アートにおける「炎上」とその批評



 じゃぽにか「芸術は炎上だ!」のアクティビティは、美術館−SNSのメディアの往還のなかに鑑賞者を巻き込みながら現象した。アートであるから、さらにそこに評論家による批評も加わっている。批評家は、現象自体にたいするメタ的な眼差しを喚起しようと試みる。飯盛希(いさかりまれ・東京大学教養学部生)はtwitterにおいて、じゃぽにかに対する長大な批評ツイートを連投してくれていた。しかしそれによって、むしろ彼が批判を浴びてプチ炎上するハメに陥ってしまったのだった。飯盛は、ネット社会における不寛容さ、全ての人が匿名の監視によって暴力的な断罪につねに晒されている現代的状況を指摘しながら、じゃぽにかの活動の<茶化し>を集団的断罪への<赦し>と捉える観点を導入した。ところが「アートと称すれば、何でも許されるのか?」という現代アートによくある問いについての有象無象のツッコミをおびきよせたようであった。このように批評活動自体も、その現象のなかに絡めとられてゆくことになる。


 美術評論家である椹木野衣は、じゃぽにかをめぐってアートにおける「炎上」の批評を美術手帖で展開しており、炎上現象の一翼を担っていたと言ってもよいだろう。以下でその要点を引用する。


もしかれらが、ネットを通じて文字通りの「炎上」を招いたとしたら、それは単に社会的な非難を受けるだけで、その時点でアートとなりえなくなる。他方、仮にかれらの営みが、実際にはなんら社会的な波及に至る炎上を起こせないのだとしたら、そのときにはアートの威を借りただけで、看板に偽りありということになりかねない。だが、アートにおける「炎上」の余地は、おそらくいずれにもない。(椹木野衣『美術手帖 BT 2014.5月評69回「じゃぽにか☆学習アート」』 p.182)


 これにつづいて、椹木は「ネットに固有で独自の伝播をする「炎上の批評」を獲得」しなければならないと論を締めくくっている。飯盛の例で確認したが、炎上という現象を括弧入れして批評的に捉えようとする眼差しは、その炎上内部へと引きずり込まれてしまう。では、椹木が述べるアートにおける「炎上」の批評とはいったい何であろうか?先に参照した「噂の公式」のように社会心理学的考察に基づいて炎上の構造を分析し、それを実践へと活用することだろうか?これは実際にネット用語では「釣り」と呼ばれ、わざと批判を呼ぶ挑発的な言動によって注目を引き寄せるなど、炎上マーケティングとよばれる手法として試行されている。しかし、これが炎上を操作できるということにはならないし、これでは特にアートにおける「炎上」とは呼べないのではないだろうか?「芸術は炎上だ」という言明はいったいどのような意味を持ちうるのだろうか?ここでアートにおける炎上の原型を考えるために、マルセル・デュシャン『泉(Fountain)』を召喚してみたい。



元祖炎上アート・デュシャン『泉(Fountain)』




 1917年、デュシャンは便器に架空の名前「R. MUTT」とサインした『泉(Fountain)』を制作し、自らも展示委員をつとめるニューヨーク・アンデパンダン展(6ドル払えば自由に出展できる)におくった。そして、この作品が展示拒否となることで物議をかもしたのである。今風にいえば匿名の自作自演であり、最初からシナリオを予見していたかのようで、問題化にともなって自らが編集に携わっていた雑誌「THE BLIND MAN」に『泉(Fountain)』の作品写真と事態の経緯および反論記事を掲載した。以下、簡単な訳文を掲載する。


「ニューヨーク・アンデパンダン展は6ドルを払えばいかなるアーティストでも出展することができるとしている。Richard Mutt氏は作品「fountain 泉」をおくったが、議論もなされずこの作品は消失し、展示されることはついになかった。Mutt氏の「fountain 泉」を出展拒否するための根拠は以下となっている。
1:作品が下品、猥褻である。
2:それは単に便器を剽窃したものである。
Mutt氏の「fountain 泉」が猥褻であるなど馬鹿げており、それはバスタブが猥褻でないとの同じである。私たちは日頃から工務店のショーウィンドウにディスプレイされている便器などしょっちゅう目にしているではないか。
 また、重要なのはMutt氏が自らの手で「fountain 泉」を制作したかどうかではない。彼がそれを選んだことが重要なのである。彼は日用品を選び、それに新たなタイトルを与え、そのオブジェクトに新たな思考を創造するという観点にもとづいて、その便器がもっている意味/有用性を消失せしめたのである。」


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 ここで注目したいのは、デュシャンが作品の現れ方自体に企図を持っていたことだ。彼は、自由に参加できるはずのアンデパンダンという展覧会が実をなしていない欺瞞を暴こうとしていた。出品作品はレディメイドという芸術概念の提案が主眼であるとはいえ、このとき自転車の車輪でなく便器が選ばれたことは、当初からリジェクトされることを期待したためだったのもかもしれない。そして、あらかじめAlfred Stleglitzによって撮影された作品写真と消失した現物。Richard Muttという架空の名前(サブアカウント)。これらにも意図的につくり出された事実の曖昧さが含まれている。(ただし、実際にこの記事自体が注目されることになるのは1960年代にフルクサスが興隆を見せた頃である。)


 問題となる事実/状況をつくり出し、まとめサイトのような機能を託されたメディア(記事)が断片的な記録によって現実を曖昧にし、歪んだ虚構を構成している。そして「これは芸術ではなく、ただの便器ではないか?」というアートにおける「コンテクスト闘争」も介在している。これが炎上アートの原型と呼べるスタイルではないだろうか。


 北田暁大はネットにおけるコミュニケーションは「コンテクスト闘争の前面化」をもたらすと述べている、と炎上についての節で先ほど指摘しておいた。ネットにおいてはあるメッセージがどのようなコンテクストで発せられているのか常に混交した状況がある。そのメッセージの字義どおり相手が本当に怒っているのかすら確信できないものだ。アートにおいてこれを当て嵌めると「これは芸術か否か?」というコンテクストが判然としない作品や状況ということになる。だとすると、じゃぽにかの「芸術は炎上だ!」っていう言明も一つの解釈を与えることができる。合わせて、アートにおける炎上の批評を考えてみる。


 芸術には『これは芸術である』というコンテクストが貼り付いており、それによって鑑賞者に芸術にたいする行為の選択肢群を告げ、鑑賞や批評そして参加を要請することになる。典型的にコンテクストを示す例が「美術館」「ギャラリー」「額縁」「台座」などである。いっぽう、ネットにおけるコミュニケーションはどうか。「コンテクスト闘争の前面化」において問題なのは「何がいまわれわれの行為における文脈(コンテクスト)であるのか、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまうこと」だと北田は述べている。そして、これが炎上の大きな要因の一つとして考えられる。ここでは端的に「炎上とは、コンテクスト闘争の前面化である」という命題を立てよう。これをじゃぽにかの「芸術は炎上だ!」という言明に導入して考察すると、『「これは芸術である」というコンテクスト、その闘争の前面化』といったメタ的な意味を読み出すことができる。これによってその言明は、自ら「芸術である」というコンテクストを絶えず不明瞭にする。何がいまわれわれの芸術におけるコンテクストであるのか、それを揺るがし、また、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまう炎上領域において作品を出現させること。これが「芸術は炎上だ!」という言明の意味であり、アートにおける炎上の批評である。


 ではこうした作品現象のあり方は、より複雑な現代社会のポストメディア的状況においていかに実現されるのであろうか。まずはガタリが語ったポストメディアの概要をみておこう。



ポストメディア




「ポストメディア」という言葉は、フェリックス・ガタリが1989年に発表した短かなエッセイ『三つのエコロジー』に初めて登場した。20年ほど前、情報通信、つまりのネットの前史の出現によってメディア状況は大きくかわると予見された。TVや新聞といったマスメディアの権力は再編され、個別にバラバラだった諸実践やメディアを連結する情報の流れ(異種混交性)が生み出され、現代を生きる主体性は能動的な情報探求/アクティヴィティのモードを生み出すだろう、と。これがポストメディア時代の批評的な意味である。以下にガタリの言葉を引用する。



テクノロジーの変化がこのような領域におけるさまざまな社会的実験と結びつくことを通して(たとえば”コンピュータの補助的利用”がイメージの生産とか数学の問題の解明にいたりつくなど)、私たちはいまのような抑圧的時代から脱出し、メディアの利用の仕方の再獲得と再特異化によって特徴づけられたポスト・メディア時代に入ることがいずれ可能になるでしょう(データ・バンクへのアクセス、ビデオテープコレクション、メディア主体の相互利用活動など)。フェリックス・ガタリ「ポストメディア社会にむけて」(杉村昌昭=訳・大村書店)


 ポストメディア時代においては、個人が集合的に再適合化され、情報機械やコミュニケーション機械、知性、芸術、文化の機械がインタラクティヴに使用されるだろう。こうした変容を通じて、古典的な三角法-表現の連鎖・参照対象・意味作用-は再編されることになる。例えば電子写真は、もはや一義的な参照項の表現ではなく、様々な可能性のうちでひとつの現実性の生産にほかならない。フェリックス・ガタリ「ポストメディア社会にむけて」(門林岳史=訳・表象文化論学会)


 ネットの出現によるメディアの活用法の再獲得と再特異化がポストメディアの要点であり、個人でありかつ集合であるような社会のなかで、表現が見る-見られるというようなリニアな形式を離れて、複数化するメディアの間で私たちは現実そのものを生産することになる。ガタリのネットにたいする期待感を読み取るには十分だが、いっぽうで門林岳史はガタリのポストメディア論について楽観主義/ユートピア主義的であると指摘している。ポストメディアを理解するさい求められるのは、ドゥルーズがフーコーの「監獄の誕生」を敷衍してその到来を予告した情報技術による管理社会の権力作用と表裏一体で読解することだと述べている。炎上においても、相互に監視・粛正し合うネットワークが新たな権力をかたちづくっていることを思いおこしてほしい。


 今日、とくに震災以降の日本においては、ネットワークメディアの一般化は急進的であり、誰もが自由にネットを利用しかつ誰もがそれを見ている状況にある。それによってポストメディア時代の条件はおよそ整ったと言える。さらに震災直後の社会不安とそれに基づく情報収集の切実さは特殊な社会心理的傾向を生み出し、そうした環境において芸術的実践のなかにポストメディア的作法が発生してきた。ガタリが20年も前に述べた「メディアの活用法の再獲得と再特異化」とはアートにおいてどのように実践されたか?具体的なケース、chim↑pom「real times」、そして竹内公太の「指差し作業員」を取り上げてこれを検討する。




アートのポストメディア的手法- chim↑pom、指差し作業員




 ロザンリンド・クラウスの「ポストメディウム」(芸術表現を、絵画や彫刻といた固有のメディウムに特異化するのではなく、メディウムの複合的/領域横断的な制作行為によって実現する、その条件と状況)という概念を想定すれば、さらに一段抽象レベルをあげた「ポストメディア」におけるアートの手法を構想したくなる。とくに、ネットの普及によって個人が簡単にかつ自由に情報を発信する環境がととのった現在的状況において。より深化した問いは、メディアを複合的/領域横断的に活用することだけでなく、そこにどのようなクリエイティビティが生まれ、新しい意味や物語とその鑑賞体験が引き起こされるのかである。

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 Chim↑Pomは3.11直後から活発に動きだし、2ヶ月後の5月20~25日には6日間の個展「REAL TIMES」(無人島production)を企画している。この開催までのプロセスは、岡本太郎の巨大な壁画「明日の神話」に彼らが絵を付け足した作品「LEVEL7feat.『明日の神話』」をめぐって、メディアを横断しながら結実していった。まず2011年5月1日、渋谷駅の現場にその身を秘匿して付け足し絵画を設置、twitterなどで情報が拡散しはじめ同日深夜には警視庁への通報によって絵が撤去される。数日後にはネットニュースで報じられ、犯人不明のいたずら事件(?)として広く認知される。何者の仕業か憶測が飛び交うなか、18日夜には、Chim↑Pomがyoutubeにて「REAL TIMES」展予告動画を公開。そこでその絵が自分たちの作品であることを明かした。そうして、鑑賞者にその事実を確認させるように20日に展覧会がオープンしたのである。このプロセスは、絵画(出来事)→SNS(噂)→ネットニュース(事件化)→youtube(報告)→展覧会(証拠)というメディア横断の流れのなかで情報の質の変化をもたらしている。この場合、情報の質とは、事実とその情報の信憑性に特異化したものだ。それぞれのメディアには、コンテクストや権威によって、表示されている情報が信頼に足るかどうかに差異が生じる。そのため、事実をめぐって、いま見ているメディアの情報よりもさらに信憑性の高いメディアへと眼差しが推移してゆく運動があらわれるのだ。そのフローのなかで、情報の確度の質的変化がおきてくる。この犯人探しの誘惑をかきたてる物語、プロセス自体を”作品”と見做すことがポストメディア的手法にたいするパースペクティヴである。


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「指差し作業員」と名指され匿名で行われた竹内公太のプロジェクトもこうしたポストメディア的手法としてみることができる。彼のアクションの起点は、事故後の福島第一原発に作業員として入り込み、「フクイチLIVEカメラ」という24時間全世界にONLINE配信されているモニタリングカメラを一時的にJACKすることであった。ヴィト・アコンチを引用した「指差し」の身振りは、全世界のモニターから向けらている「私たちが原発を見ている」という眼差しを反転させ、「原発が私たちを見ている」という逆流をおこした。その後も、東京電力の記者会見にフリージャーナリストと称して出没し「指差し作業員」について問いただしたり、ブログを開設して自らの行いを独白するなどしながら現象を煽動していった。この間、「指差し作業員」が何者かという確たる情報は何もなし、最終的にひらかれた竹内公太個展「公然の秘密」(snow cotemporary)によってようやく事態の輪郭が閉じられたのだった。


 二つの事案をながめるとポストメディア的作法の特性をいくつかあげることができる。一つはフクシマ/原子力という人類にとって重大なモチーフであること。二つ目に、匿名性がある。これは先に噂の公式で確認しておいた重要さと曖昧さという主要素だ。そして3つ目に、メディアの横断性/寄生性があげられる。ここに登場する各メディアを大別すると、個人で自由に発信できるネットワークメディア(SNS, youtube, blogなど)、マスメディア(ネットニュース、フクイチLIVEカメラ)、物理的身体をもつメディア(絵画、展覧会)の三つのタイプに分けられる。これを横断してゆく運動の要因の一つは噂の真相をめぐってドライヴする情報の信憑性(情報の速さと確度)の差異であると先ほど述べた。寄生性とは、岡本太郎の壁画への付け足しやフクイチLIVEカメラへの指差しなど、自らよりも強大なメディアに依存しながらも創意工夫によってその意味や機能を改変させている振る舞いのことだ。このポストメディアの横断性/寄生性は、広告の本質とかなり近いものといえる。ポストメディア時代のアートは、広告化するのである。



広告化するアート




 アートが広告化する。これはともすれば、アートが資本主義社会においてひたすら消費行動の誘発へと帰着するという意味にとられるかもしれない。だが、そうではない。メディアミックス戦略のような、資本力にもとづいたメッセージの全方位的散布とは全く異なる。ネットを環境としたコミュニケーションの空間において、広告が一般化し、誰にでも活用できる方法となり、それがアートにおいても起こるということなのだ。


 まず広告について確認しよう。社会学者の北田暁大は近代広告の本質について「脱文脈性=メディア寄生性」であるとして、以下のように述べている。


広告は、自らが現れる場所・舞台(文脈)をけっして固定することなく、つねに新しい居場所を模索し、さまざまなメディアと表象ジャンル(新聞・雑誌・演芸・文学・音楽・ゲーム…)を横断する。広告は制度化された特定の表現形態を持たず多様なメディアに寄生しながら、日常世界の秩序だった文脈を乱し続ける。(北田暁大『広告都市・東京』)


 アートのメディア寄生性については前節で述べてきたが、広告とポストメディア的作法とでは横断の様態は近いものがあり、とくに商業広告には多くの先例がある。たとえば、1999年に郷ひろみが新曲プロモーションのために渋谷でゲリラライヴを無許可で敢行し、警察沙汰になった事件などがあった。アダルトビデオのプロモーション戦略にも「芸能人」というジャンルがある。


 脱文脈性についても少し解釈を付言しなければならないだろう。Chim↑Pomにしても竹内公太にしても、たしかに最終的にはギャラリーで個展を開催しており、なるほどたしかにそこにはアーティストとしての名前があり、舞台があり、それらには文脈(コンテクスト)がべったりと貼り付いている。結局のところ個展はアートへの回収作業なのではないか、という疑問符もつく。しかし「これはアートなのか、否か?」というコンテクストは、その現象過程において最終局面まで匿名性によって判然としない状態でありつづけており(いたずら?アート?)、それにともなう曖昧さが現象を肥大化させている。結末にたどりついて、あるいは美術館に収蔵されるという事実においてアートの文脈が定着する。換言すれば、広告でなくなることで作品が完成するのだ。謎が解かれることで、コンテクストが画定することで、作品の輪郭が収束するのである。


 広告と資本主義は密接に結びついてはいるが、イコールではない。北田暁大は、広告の起源である語「advertisement」について、商業にかぎらない注意喚起記号として機能していたと説明し、こうつづける。


「商業が広告というカテゴリーを作り出したのではない。むしろ、広告という詭計的(トリッキー)な情報伝達の方法論を、商業資本が他に先駆けて自家薬籠中のものとしていった。したがって、広告とは、根源的な意味において、たんなる商用メッセージではなく、メディア(新聞や出版物)の限定された誌(紙)面空間のなかで「私を見よ!」と強引に主張し、受け手のまなざしを誘発する語りのスタイル、「メッセージ」がまとう物質的身体(情報様式)のあり方をいうのである。」(北田暁大『広告都市・東京』)


 かつては情報空間自体が小さく限定的であった。紙面がその主要な領域であり、それを独占したのが資本の権力である。そこへラジオ、TV、都市空間など多様なメディアが整備され、資本主義の力はますます強大に広告を囲い込んだのである。しかしネットの出現によって、ついに広告という手法が、資本主義やマスメディアでもない、個人の手に渡りつつあると考えることができるのではないだろうか。もちろん、それはまだまだ容易なことではなく、Chim↑Pomと竹内公太の寄生性はイリーガルな行為によって実現していることを忘れてはならないが。とはいえ、広告化するアートが原子力の問題に批評的に触れながらも、資本主義の広告が自らに課すような呪縛的抑圧、すなわち自主規制とは無縁な存在に成り得たことは特筆すべきことである。



ポストメディアのコミュニティ -カオス*ラウンジの「オフ会」




「オフ会」はオフラインミーティングの俗称だが、要するにネット上のコミュニティが物理的身体をともなって顔と顔をつきあわせる会合をもつことだ。カオス*ラウンジの活動のなかにもオフ会の性質が含み込まれており、そこにポストメディア的作法を見いだすことができる。「嘘くんラウンジ」とよばれ、藤城嘘が構想し、そこに黒瀬陽平が美術的文脈と批評的言説を付与したとする展覧会は、基本型として「オフ会」である。ネットにおけるpixivなどのアーキテクチャ内で、自作の絵を見せ合うコミュニティがあり、その中から藤城が声かけをして集まったメンバーがこの展覧会の出展者になる。展覧会を開催することによって初めて寄り集まり、それぞれの作者がどんな顔をしていてどんな声で話すのか生身の感触を相互に確かめ合うことになる。この「ネット絵→展覧会」というポストメディアの運動、これにはネットコミュニティの未来にとって重大な意味がある。


 PCのモニターが青白く光る。その向こう側にいる他者はいったい何者なのか?ネットにおける本人とは何か?彼といつわった第三者である可能性は?あるいは彼は本当に人間なのか?もしかしたらプログラムなのではないか?これらは疑い出せばキリがないものである。このアイデンティファイを単一の情報マトリクスで判断することは非常に困難だし、通常、コミュニケーションそのようにはなっていない。なりすまし、アカウントの乗っ取り、bot、そしてハッキング。これらによって情報社会の主体性はつねに揺らいでいる。今年5月に片山祐輔被告が容疑者として逮捕された「パソコン遠隔操作事件」では4人の誤認逮捕者を出す事態に陥った。チューリングテストのコンテスト「ローブナー賞」では、2008年に優勝したbotプログラムが被験者のうち5人中3人にプログラム自身を人間と騙すことに成功している。また、現在アカウントを守る公開鍵暗号の標準として広く普及しているRSA方式(素因数分解を用いる)は、量子コンピュータによって破られうることがピーター・ショアの理論(1994)によって示され、IBMの研究者たちによって量子計算機に実装された(2001)。量子コンピュータはまだまだ実用化に至る段階にはないが、理論的には現今のスーパーコンピュータの30億倍以上の計算処理速度があると言われ、近い将来、暗号に守られるアカウントの安全(頑強性と秘匿性)は大きく揺らぐかもしれない。


 こうした現在-未来の状況において、私たちがネット上で絵を描いたり、言葉を記したり、動画や画像をアップしたりするとき、それらの表現がとくに重要な意味をもつのは、アカウントという自己画定領域に依存せずに、自らの個体性を表すパターン(その人らしさ)を生成をすること、そしてそれらを見分ける認知能力の形成にある。かくしてネット上のアクティビティは「匿名でありかつ個体であれ」という困難さと向き合うことになるのだ。


 しかしながらネットコミュニティのなかで認知される個体性のパターンには、ある種の曖昧さが残りつづける。「その人が本当にその人であるか?」これを確信するための情報をもとめて人は動き続ける。これも「情報空間→物理的身体」というメディア横断あるいは往還の運動をたえず招くだろう。顔を合わせ、表情を交わし、またネットへと戻ってゆく。カオス*ラウンジの展覧会の「オフ会」としての側面は、こうした状況と重ね合わせてみて、美術とネットの関わりにおける鋳型になるだろうと筆者は思う。


結語「ポストメディア時代のアート」




 ネットの出現とその社会的浸透によってアートのかたちも変わるだろう。複数のメディアを横断して駆動する物語は新たな「ポストメディア」のカテゴリをつくりだしている。それぞれのメディアの性質(情報の蓄積様式、コンテクスト、信憑性など)とその間に生じる運動への「間メディア的」洞察が求められるようになる。広告的手法を、市民が手にするためのクリエイティビティはまだまだこれからの課題が多いが、いくつかの作例がみえてきた。


 Chim↑Pomや竹内公太は震災直後の状況下において、その活動の匿名性とメディア寄生の技芸によってポストメディア時代の広告化するアートを体現してみせた。カオス*ラウンジが、ネットと物理現実を横断しながら注目を集めた「オフ会的展覧会」は、全てのネット内表現者にとって雛形になるような切実な問題を含んでいる。


 ポストメディアの観点からすれば、「なぜその場所でするのか?」という場の特異性(サイトスペシフィック)のような近代主義の場の自律性に依拠した問いはあまりに旧態依然としており、私たちの日常においても現実の様相からかけはなれているだろう。たとえば、スマートフォンを片手に情報を検索しながら美術鑑賞をする鑑賞者の姿を思い浮かべてほしい。そうした環境においては必然的に「なぜメディアを横断するのか?」が問われることになるだろう。ネットなどにおける活動が、ギャラリーや美術館のようなアートの展示空間へと帰着することをある種の権威化(美術への回収作業)として捉えるのではなく、その流れにどのような批評的な意味があるか考える必要がある。


 じゃぽにかはこうした動向を横目にみながら、SNSと展示空間を横断する活動をつくりだしている。ミクロな粒子が互いに作用しながら渦をつくりだすように、コミュニケーションが次なるコミュニケーションを生み出す絶え間ない連鎖-その極限化としての「炎上」現象。そのようなコミュニケーションの消費空間に鑑賞者を誘い込み、怪しく誇張しながら雰囲気を醸成する。そうした虚実が交じった世界が私たちのリアリティである。じゃぽにかがポストメディア的な活動領域として志向するのは、情報技術によって表面化する管理型社会への抵抗や、マスメディアへの対抗でもなく、ネットによってつながる「噂」や「おしゃべり」のような意味化も対象化もされえない社会の常態層である。だからといって、それを何ら本質的なものがない不毛地帯とみることはできない。ポストメディア時代においては噂すらもアートのメディアになる。それは、自ずと社会を形成する主要領域であるにもかかわらず、総体は観察されえず、参加することでしか関与できないような空間なのだ。この空間を実りあるものに仕立てるのは、まさに参加者自身である。


 ポストメディア時代のアートは社会現象そのものであり、作品の輪郭も絶えず動き、眼差しも流動し、作者と鑑賞者の立ち位置も定まらない複雑な状況のさなかで、運動をひきおこす震源を見定め反応を引き出す創意を繰り出し、多様なメディアを介して実現するソーシャル・ポイエーシス(社会制作)なのである。(足立区立第3中学校2年・たけうち かしす)




参考文献:
田代光輝・服部哲「情報倫理 -ネットの炎上予防と対策」共立出版、2013
東浩紀+濱野智史 編著「ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇」河出書房新社、2010「美術手帖NO.1004」美術出版社、2014 5月号
フェリックス・ガタリ、杉村昌昭訳「三つのエコロジー」大村書店、1991
「表象 08」表象文化論学会、2014
北田暁大「増補 広告都市・東京 その誕生と死」ちくま学芸文庫、2011






ソーシャル・ポイエーシス ← いまつくったったwwww

どーでした?うちのじゃぽにか論考 力作でいいかんじだよね?

さっきちょっとスペックのところに書いたけど、うちの彼氏って30歳なんだよ

ともだちにはじじいの愛人って言われるけど男って年いっててもガキだよね ゎら

まあ、その彼氏がじゃぽにかの中にいるかゎ まだひみつだよ
読んでくれてぁりがとぉ~ 次回を期待せよ ゎら




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足立区立第3中学校2年
武内華紫翠(たけうち かしす)
2014年7月26日








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