中野香織 —コイトゥス再考#27— 「愛なきモードは何処へ向かうか」

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コイトゥス再考 #27

中野香織

愛なきモードは何処へ向かうか

取材/辻陽介


社会学者のヴェルナー・ゾンバルトに依ると、違法恋愛と、それに随伴する贅沢こそが、資本主義社会を生み、また発展させた歯車であるという。ここでいう贅沢とは、主に男性から女性に向けて贈られる奢侈品、即ち、高価な食事、絢爛な日常雑貨、そして女性の容貌を華やかに彩る、豪奢な装飾品のことである。

今の我々がなんとなしに受容している「モード」もまた、この奢侈の運動の中で誕生したものである。シーズンごとに変化する流行に合わせて、絶え間なく更新されるワードローブ、いやむしろ、ワードローブを更新するために変化する流行…、当然、そこには活発な消費活動があり、男と女の数知れぬドラマがある。恋愛と贅沢と資本主義は、互いに分ちがたく結びつき、それぞれがそれぞれを駆動し合っているのだ…、それが20世紀初頭にゾンバルトが立てた理説であり、またそれは、その後のブランド全盛時代を知る我々にとって大いに信憑がある。

19世紀以来のこの「恋愛と贅沢と資本主義」という三位一体は、しかし、90年代中頃より、にわかに崩壊の兆しを見せているという。この状況について、服飾史家の中野香織氏は「愛は資本主義を生み、資本主義の行きすぎは愛を蹴散らした」と述べる。一体どういうことだろうか。

コイトゥス再考#27、贅沢=モードと、恋愛=エロスと、資本主義の行方を巡って、『モードとエロスと資本』の著者・中野香織氏に話を聞いた。




■ モードはいかに脱恋愛物語化したか



—中野さんが2010年に上梓された『モードとエロスと資本』は、ファッションにおけるモードの変遷を通じて、現代の恋愛・性愛状況を分析するという内容となっており、僕自身は非ファッショニスタではありますが、そこで語られていることは大変興味深いものでした。

本書では様々なことが語られていますが、大雑把に要約してしまうと、「モードがいかに脱恋愛物語化してゆくか」が最大のテーマとなっていたように思います。本日は『モードとエロスと資本』で中野さんが展開されていた議論をあらためて振り返りながら、その上で、「モードの脱恋愛物語化」について、より深くお話を聞いてゆけたらと思っております。

では早速お聞きしていきたいのですが、まず、そもそも「モード」とは一体どのように発生し、どのように発展してきたものなのか、お教え頂けますか。


中野 社会学者のヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』などでも書かれているように、モードとはそもそも恋愛のために誕生し、また恋愛によって発展したものです。それも厳密には婚外恋愛や違法恋愛と呼ばれるもの、要するに「反倫理的な恋愛」。ゾンバルトは資本主義の起源には愛妾経済があるといったことまで言っています。

ゾンバルトが引き合いに出しているのはヨーロッパの宮廷恋愛です。成り上がりの貴族男性が宮廷に仕える女性たちを愛人としたいがために、その出会いや口説きの場として毎夜のごとくパーティーを開くようになったんですが、すると当然、女性も男性をより惹き付けようと、ドレスや宝飾品といった贅沢品を身につけるようになる。同時に男性達も、贈り物という形で高価な装飾品を女性達にプレゼントする。直接的な金銭のやり取りを避けることで、いわゆる売春ではなく、恋愛の体がとられていたわけです。

そのような流れの中で、宝飾品や装飾品への需要が高まり、小間物を作る小間物商が発達します。つまり、違法恋愛が贅沢を生み、贅沢の競い合いがシーズンごとに変わるモードを生み、大局的には違法恋愛は資本主義の発展に寄与することとなった…これがゾンバルトの主張です。ゾンバルトに倣って言うなら、恋愛とセットになった奢侈、それがモードです。


―モードが発生したのはいつ頃と考えられるのでしょう。


中野 モードの定義にもよりますが、たとえばマリー・アントワネットの時代においてもモード大臣と呼ばれたローズ・ベルタンという人物がいたくらいですから、モードそのものは存在していたと言えるでしょう。ただし、この頃のモードというのは恋愛のためというよりも権力の誇示という側面が大きかったと思います。現在に連なる形でのモードというのであれば、19世紀、椿姫の時代ですね。高級娼婦、クルティザンヌなどが現れ、その人達が、恋愛の対価として、装飾品を紳士から受け取るようになった。同時に、この頃から男性はスーツを着るようになっているんです。男性が自分の身を派手やかに飾れなくなったこの時代、男性の財力の象徴となったのが、美しく着飾った女性。そういった構造の中で、現代へと続くモードが誕生したのではないかと考えています。


―モードの誕生は資本主義社会の誕生とセットになっていて、相互に複雑に絡み合いながら発展してきた、そのモードの根底にあり、またそれを駆動してきたのが違法恋愛であったと、そういうことですね。さて、本書の主張は、当初において恋愛物語こそを駆動力としていたモードが、現在になって脱恋愛物語化しているという点です。


中野 まず恋愛があって、それに伴う形で贅沢や奢侈、またそのための舞台装置などが登場していったわけですが、いつの頃からかその順序が逆になってしまったんです。恋愛そのものよりも、それに付随する贅沢、つまりモードへの憧れが強くなり、同時にメディアも高級レストランなどの舞台装置なり、美しい装飾品なりといった贅沢への憧れを煽り、モードを追求すると恋愛もついてきますといった具合に、利用していったんですね。

これは必ずしも最近に始まったことではなく、例えば50年代、60年代にもセレブリティカルチャーというものがあって、当時はセレブリティの恋愛物語の舞台背景として、きらびやかな装飾品、ゴージャスなレストランといったものが存在していて、その頃からすでに逆転の兆候はあったんです。ただ、それでも当時は恋愛とモードの運動が機能していました。

それが、90年代に入ると立ちいかなくなる。新しいモードというものが90年代になると出て来なくなるんです。80年代にはまだありました。肩パッドやボディ・コンシャスなど、一世を風靡するモードというものが確かに存在していた。昨年とは違うデザインがきちんと生み出されていたんです。しかし、90年代に入ったあたりから過去のミックスしかすることがなくなってしまって、それが今現在まで続いている感じです。過ぎ去ったモードのリバイバル、ミックスという形が主流になり、同時に恋愛物語もまたモードとはまったく切り離された形で展開されていくようになったんです。




■ 同性間の承認と「女ドーダ」合戦のためのモテ服




―いきすぎた資本主義の中で、ただ変わるために変わっているとしか見えなくなったモードに、要は、恋愛が付いてゆけなくなった、ということですね。高度資本主義社会において人は物ではなく差異を消費するといった語りは、いまや資本主義社会を語る上での一つの常套句ではありますが、ファッション、モードにおいてはそれが特に顕著に現れているように思えます。

さて、現在ではモードが脱恋愛物語化し、華やかな装飾品が華やかな恋愛物語を意味しえなくなったわけですが、一方で女性ファッション誌などの見出しには「モテ服」などの見出しがこれみよがしに踊っています。中野さんは『モードとエロスと資本』において、ここで言う「モテ」には内実がないということを言われていますが、それはどういうことでしょう?


中野 「モテ服」とは要するに実際にモテるコーデじゃなく、モテているように見えるコーデなんです。それらが実際に「モテる」という裏付けは当然ながらありません。では、なぜそんな効果があるかも分からないような「モテコーデ」をするのか。そこには同性間の承認という機能と「女ドーダ合戦」がある、と本には書きました。その背景にあるのは、取り残されたくないという気持ちがあるんだと思います。時代の波であったり周りの友人達に置いてけぼりにされたくない。ただでさえ孤独なのに、取り残されると男までもが遠ざかっていくように思える、そんな錯覚がモテているように見えるだけの「モテコーデ」を作っているんだと思います。


―実際の女性の感覚としても「この服装でモテるんだ」という意識より、周囲の友人から外れたくない、KYを回避したいという意識が強く働いているんでしょうか。


中野 もちろんそこに「モテたい」という意識がないわけではありません。ただ、例えば合コンの場などを見てみると参加者は同じような服装をしている場合が多いんです。つまり、そもそも自分だけ違う格好をしていると、合コンにすら誘われない。すると出会うチャンスもなくなってしまう。そうなると、たとえそれが自分の好みの服装でなくとも合わせよう、といったある種の悪循環が生まれるんです。ここで重要なのは当然、同性間における評価です。そういった横並びの装い、モテそうに見える装いによる同質性の高い場が形成され、そこから逸脱しないように、衣装の選択がおこなわれていくんですね。

その本質にあるのは空虚さだと思います。モテそうに見える服を着ることで、その空虚さが少し誤摩化され、補強される。それはかりそめなんだけど、時代から取り残されていないという希望は抱けるんです。

また、「女ドーダ」合戦になっているというのは、要するに実際に恋愛が実っているかどうかよりも、男性からどれくらいオーダーがあるのか、あるいはオーダーがありそうに見えるかを競い合っているという状況ですね。いずれにせよ、モテ服と呼ばれる装いに現実の恋愛が付いてきていないんです。


―では少し具体的に。モテ服とは一体いかなる服装を指すんでしょう?


中野 『モードとエロスと資本』を書いた2010年の時点では、割とベタな感じ、分かりやすく「女性らしい」服装が「モテる」とされていました。ただ、その後、「Domani」なんかを見ていると「寅さんコーデ」なんていうのを特集していたりするんです。要は「モテる」ためには女性にもモテなければいけない、と。「寅さんコーデ」が男受けするかどうかは微妙なところですが、ただ男の人も馬鹿じゃないので、いかにも表面的なモテ服で武装している女性というのをすぐ見抜いてしまいます。そこで、逆に少し外れた格好をして、女の人の支持を得ている女を装う方が効果的だろう、と考えるわけです。なんだか、ものすごい捩じれていますよね(笑)。ありえないだろう、とも思いましたが、でもそれは「モテるため」の寅さんコーデなんです。

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『モードとエロスと資本』
(著)中野香織






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