中野香織 —コイトゥス再考#27— 「愛なきモードは何処へ向かうか」2

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■ 反恋愛的に「カワイく」、自己本位的に「エロく」



―実際にモテるというよりモテているように見える「モテ服」が主流をなす一方で、『モードとエロスと資本』においては「カワイイ」現象と「エロい」現象についても、興味深い指摘がなされています。これは先程の「モテ服」とは少し別の語り方が必要なようにも思いますが、まずは「カワイイ」についてお聞きします。「カワイイ」とは一体どのような現象なのでしょう?


中野 「カワイイ」は「道」なんです。最近は少し下火になりつつあるのかもしれませんが、それを担っている層は、原宿あたりを主な舞台に、ゴシックロリータを典型とするフリルたっぷりの衣装を纏い、あたかもロココのお姫様のように武装した子達です。この「カワイイ」においては、脱恋愛物語というより、反恋愛物語になっていて、それは雨宮処凛さんが、ゴスロリファッションを「セクハラ防止服」と言っていることにも表れています。「カワイイ」格好をしていれば男はこの女は変な奴だと思うから変なちょっかいだしてこない、と。だから「カワイイ」格好は安心なんだ、と雨宮さんは言っているんですね。

大学生で「カワイイ」を追求しているようなタイプ、ネイルやまつ毛をごてごてに装飾しているような子達を見ていても、「モテ」なんてまったく意識されてないことが窺えます。その「カワイイ」はひたすら自分のためであって、大事なのは昨日の私と今日の私を比較してどっちが「カワイイ」か、要するに自分基準です。仮に彼女達に「男の人はドン引きしているよ」と伝えてみたところで「そんなの関係ない」となる。「カワイイ」を一つの「道」として、自分探し、自分追求に邁進していて、そこには「媚び」が一切ない。ある意味では非常に「男らしい」。善くも悪しくも強い意志を感じます。「カワイイ」による自己実現、あるいは自立。そこにおいては男性の存在は重要ではないんです。


―「カワイイ」が自己準拠的な振る舞いである、というのは、程度の差こそあれ今に始まったことではないように思いますが、現在はそれが極端になってしまっているなぁという印象はあります。他者がどう見るかはニの次、三の次、あるいはランキング外の問題となっていて、それが「道」であるというのも非常によく分かります。ところで彼女たちの意識の上でも、雨宮処凛さんが言うように「カワイイ」の追求が異性を排除するものになりうるということが明確に意識されているんでしょうか。


中野 そうだと思っています。当然ながら「カワイイ」を追求している子達の中にも彼氏がいる子はいるわけですが、ただ話を聞くと、多くの場合において彼氏には嫌がられているらしいんです。いかに彼氏が嫌だと言っても自分が好きなんだから関係ない、あるいは、もし「彼氏」か「カワイイ」か二つに一つならば「カワイイ」を選択する、そういったスタンス。櫻井孝昌さんの『世界カワイイ革命』という本に紹介されていたエピソードにもあるように、「彼氏と別れることによって初めて”カワイイ”を心ゆくまで追求できるようになって今はすごく幸せ」なんて女の子もいるんです。


―なるほど。ではもう一方、「エロい」についてお伺いしたいんですが、この「エロい」もまた「カワイイ」と似たような状況にあるというのが『モードとエロスと資本』の指摘です。「エロい」というのは、従来的な感覚では、あくまでも異性、あるいは自分にとっての性対象となる人達を、意識した上での振る舞いだと理解されがちです。しかし、それがそうではなくなっている、と。


中野 「エロい」について語る上で、まず「セクシー」と「エロい」がどう異なるのか、区別しなければなりません。もちろん定義は様々だと思いますが、さしあたり、ここでの定義としては、「セクシー」とは「隠す」ことであると言えます。マリリン・モンローなんかが典型ですよね。単純に露出度の高い服装をしているというのとは違う。「セクシー」とは全人格的な魅力で、振る舞いや挙動を含むものなんです。よって「隠す」ことから生じるもの、と言えます。露骨にバンと見せれば想像力が刺激されるかというと違うのは自明ですよね。隠された中にエロティックな要素を孕ませることで、相手の想像力を刺激していく。これが「セクシー」ということです。

逆にここで言う「エロい」とは、もっと直接的で露骨なものです。近年で最も分かりやすかったのはエンハンスト・ニプル(付け乳首)。わざわざ自分のものを消して、人工的なものをつけて透けて見せる。その上で「エロいでしょ?」と。臍ピアスなんかもそうですね。ピアスをつけたお臍をわざと露出する。かといって、これが男性陣に喜ばれたかどうかと言えば、むしろ抗議がいっぱいきてしまった。満員電車でこういうの見せられても嫌だし困るからなんとかしてくれ、と。とはいえ、女性としては、これは私が好きでやってるのになんであんたに言われなきゃならないの、こっちは好きでこの服装をしているだけだし見られたいわけじゃないから、と当然こう思うわけです。

悪く言えば「エロい」とは自分本位な露出です。「セクシー」とは似て非なる、それどころか対極にあるとさえ言えます。「セクシー」とは、相手の存在、視線を意識して「隠す」。そうすることによって相手の想像力を刺激し、それが自分の魅力となっていくんです。「エロい」においては初めから相手の想像力を断絶している、というより、そもそも相手が不在なんです。


―「エロい」装いにおいては相手(男性)が想定されていないのだとして、ではなぜ、あえて直接的なエロさ、分かりやすく「エロく」自分を演出する必要があるのでしょう?


中野 ひとつに「エロい」は女性から支持されるという点を指摘できます。その源流を辿ればマドンナですね。今ならアンジェリーナ・ジョリーなんかもその系譜にあるかもしれません。「エロさ」を前面に出すと、女性から「カッコいい」と評価される。服装ではないところでも、例えば最近では、女性のための大人のオモチャというのが物凄くファッショナブルになっていますよね。「ケイト・モスがあそこの店でこんなオモチャを買った」なんていう話が普通のゴシップ・ニュースになっていたりする。バッグの中からバイブが出ているのがカッコいいみたいな(笑)。逆に「エロさ」を隠すことはブリっ娘みたいでカッコ悪い、そういった目線があるんです。


―「エロい」においても「モテ服」と同様に同性間での承認機能としての側面があるんですね。


中野 正確な実態は分かりませんし、あるいは、男性との関係についても、恋愛なんかすっとばして、もっと直接的に関係を結んでいるのかもしれません。逆に言えば今においてウェットな関係を求めているのは男性の方でしょう。むしろ女性の方が、そんなもの面倒くさいから、感情云々は抜きにしてセックスを楽しもうという方向にいきやすくなってる。「エロい」はそういった感覚の表れとも考えられます。「アンタ達、これがいいんでしょ?」みたいな感じで、女の子が男の子の欲望を先回りしちゃっていて、ただそれが少し見当違いだから、男の子はドン引いてしまっているみたいな構図があるのかもしれない。これは20世紀にはあまり見られなかった状況で、きわめて21世紀的と言えるんじゃないでしょうか。



■ オブジェ化する男たち



―ここまでは主に女性のモードについてお聞きしてきましたが、ここで一度、話題を男性のモードに転じたいと思います。『モードとエロスと資本』においては、2000年以降の男性ファッションの大きな潮流として「エディ・スリマン化」という言葉が使われています。まず、「エディ・スリマン化」とは何か、あらためてお教え頂けますか。


中野 エディ・スリマンというのは人名で、この人は2000年にディオール・オムのデザイナーとして一躍脚光を浴びました。それまでのメンズスーツというものは、基本的に男を大きく見せるもの、例えば肩パッドを入れたりというのがその典型ですが、男の人を頼もしく、力強く見せる、スーツのデザインにおいては、それが重要な点でした。一方、このエディ・スリマンという人はそれを一切否定し、男の人をより小さく見せるようなスーツを作ったんです。とはいえ、最初は「こんなもの男が着るものじゃない」という批判的な声が大きかった。しかし、5、6年経って気がついてみたら、もう青木やコナカといった量販店においてさえ、男を小さく見せるエディ・スリマン的スーツが主流になっていたんです。より小さく、より繊細に、より子供っぽく、というのが男性のモードの一つの方向性として定着していったんです。


―この「エディ・スリマン化」の背景には、男性のメンタリティの変化もあるのではないか、と中野さんは指摘されていますね。モードやトレンドをすべて社会反映論で語ることは難しいと思いますが、この指摘にはかなり信憑があるように思います。


中野 そうですね。つまり「男らしさ」の変質です。例えば男が男を殺す殺人事件というのは戦後一貫して減少傾向にはあるんですが、エディ・スリマン化と同時期に、やはり数字が減っているんです。そもそも男が男を殺す理由として最も多いとされているのが「面子を潰された」というものなんですね。西洋の伝統における決闘なんていうものはその筆頭でしょう。この手の殺人事件が減少しているというのは、端的に「面子」に対するこだわりがなくなってきている、「男らしさ」のあり方が変わってきていると考えられますし、私は、男性のエディ・スリマン化も、その一端ではないかな、と思うんです。

かつての男を大きく見せるスーツデザインというのは、要するに、自分より前に出ようとする男を許さない、という心性のあらわれです。一方のエディ・スリマン的スーツからは、「そんなものどうだっていいじゃん」、「俺は引っ込んでるからご勝手にどうぞ」といった一歩うしろに引くような、しかし自分は自分の基準で幸せを求めていくといった、そういう価値観を感じるんですね。また、そこには古い「男らしさ」に対する軽蔑も交じっているように思います。


―エディ・スリマン化の背景にはマチズモの変質や、一種のミサンドリー(男性性嫌悪)のようなものがあるというのは、実証こそ難しいですが、非常に説得力があります。ところで気になるのは、一方の女性たちが男性のエディ・スリマン化という現象をどのように受け止めているのか、ということです。


中野 オブジェ化ですね。「女性がイケメンを愛でる」ということが一般化したのも、エディ・スリマン化と同じ、ゼロ年代に入った頃からです。イケメンというのは、人格的な評価ではなく、極めて表面的な評価、つまり、それがオブジェ化ということなんですが、その時だけイケメンであればいい、別に中身は問わない、そういう関わり方になっています。オブジェとは見られる対象をいいます。これまであんた達は女を一方的に「見て」きたでしょう、今度は私たちが男を表面的に「見る」わよ、と。


―従来的な男=主体、女=客体という構図がここでは逆転しているわけですね。また、別の側面として、男性学の研究などにおいては、女性の「カワイイ」などと同様、男性のファッションもまた自己準拠的となってきているという指摘もあります。


中野 その筆頭が装飾男子です。「俺はどうせイケメンじゃないし、モテないし」みたいな、モテのカテゴリーから外れた人達がそっち側へいってしまっている気がします。たとえば女性だとコム・デ・ギャルソンがそういう割と非モテな人達を救っていたじゃないですか。それと似たような形で、モテない男たちを救う服、スタイルというのが出てきています。彼らも「カワイイ」における女性と同じで「これは好きでやってるんだから、理解されなくていい」みたいな姿勢なんですね。具体的にはファッション雑誌のストリートスナップに映っているようなスカート男子やレギンス男子。凝り過ぎていて、女性目線からはちょっと変なことになってしまってるんです。


―今回の取材前に「men,s nonno」のストリートスナップを複数の女性に見せて、「どのファッションが女性的にはいいのか」ってことを聞いてみたんです。すると、基本的には「どれも変」という答えなんですね。もちろん、ファッションに関心が強い層、そうでない層、あるいはコーホートや趣味の層などによって、回答は変わってくると思いますが、それを差し引いた上でも、男女間の意識にズレがあることを感じました。


中野 そうだと思います。「面白いね、オシャレだね」ってお友達目線で寄ってくる女の子はいるでしょうけど、異性目線で近寄ってくる子は少ないと思います。でもそれを彼らに伝えたところで「自分が好きだからいいんだ」ってなる。コム・デ・ギャルソンを着てる女の人って男の人からは理解されづらかったじゃないですか。着ている本人にも「この世界がわかるのは私だけ」みたいな感覚があった。もちろん、そこには世間の美醜の基準なんてどうでもよくしちゃう力がギャルソンにあったってことなんですけど、今のストリートスナップに出てくるような男の子なんかは、かつてのギャルソン女子に近しいものを感じます。当然、そこにはそこの幸福がある。実際に彼女を作ってどうこうというよりも、今日カッコいい僕が大事、みたいな(笑)、そういう価値観があるんです。


―では現状においては、どのようなファッションをしている人達が、恋愛的に豊かな層だと言えるんでしょうか?


中野 少なくともモードに忠実な人達ではないですよね。ブランドの商品を全身に纏っているような女性は、大抵は一人で歩いているか、男性と歩いていても明らかに同伴だろうなという相手とだったりしますから。普通の日曜の昼間とかに歩いているカップルを見ていると、基本的には地味。おそらく恋愛を成就されているような方というのは分かりやすく「オシャレしてます」って感じじゃない人が多い気がします。ある意味、本来の自分に向き合っている人達というか(笑)


―確かにその印象はあります。さて、少しここまでの話を整理すると、かつては恋愛物語とセットであったはずのモードが、今は逆にモードに忠実であればあるほど恋愛から遠ざかってしまうという状況があり、また、男女ともにファッションに対する姿勢が自己準拠的となってしまっていて、そこで意識されるのも、異性の目よりも同性の目、あるいは自分の目となっている。お伺いしたいのは、今後、かかるモードの空転はどこへ向かっていくのか、ということです。


中野 先日、beeTVという局で放送されていた『女たちは二度遊ぶ』というドラマを観たんです。そのドラマでは幾つかのパターンの恋愛物語が描かれていたんですが、それを見てまず感じたことは、今は恋愛のための舞台装置が非常に貧しいんだなということです。4畳半のような部屋に住んでいて、もちろん寝る場所もベッドではなくて布団。ご飯を食べるのもお洒落なレストランに行くのではなく、二人でコンビニのお弁当を食べていたり…、かつての恋愛物語からしたらありえないくらい貧相。ただ、実はそれが若者の最も典型的な恋愛の舞台なんですね。それゆえ、あの番組にはリアリティがありヒットしたんじゃないかなとも思います。

事実、ファッションの世界を見るとかなり激しい形で二極化が起こっていると感じます。年収が一定に充たない人達、定職につきたくてもつけないと人達、そういう男女だって当然ですが恋愛をして、カップルになります。ただし、そこにはかつてのようなモードも贅沢品も何もない。そもそも彼ら自身がそういったものに対する幻想を抱いていない。何十万円もするバッグなんていらないし、一食に何千円もかかるような食事もいらない、と。旧世代的には、その光景は殺伐としていて、侘しく見えるかもしれませんが、そもそも最初から幻想を抱いていなければ、必ずしもそれが不幸だなんて言えないですよね。

また、ブランドの側でも、そういう層については、すでに切り離して考えていると思います。今のブランドは一部の富裕層のみをターゲットにしている感じです。富裕層の中でも超富裕層に対してピンポイントにメディアや商品を出していって、囲み市場を作ろうとしている。実際にその方法でブランドは利益をあげています。これまでの日本では政府のいう「分厚い中間層」がブランドを支えてきたわけじゃないですか。しかし、今は完全に中間層が抜け落ちてしまった。すると、富裕層や超富裕層の人達に、超高級品を売っていこうとなる。ジュエリーにしても今売れているのは億単位の商品です。そういった超高級品を年に2、3個売ればいいみたいな戦略です。ターゲットもそれを買える層に絞られていて、あたかも世界が切り離されたかのような状況ですよ。その分断というのが、今ますます広がっていっていると思います。どっちからどっちを見ても夢物語、「え、本当にこんな暮らしあるの?」みたいな状況になっているんです。



■ いかにオシャレに素の自分を見せられるか



―中野さん個人としては、現在のモードと恋愛の状況をどう評価されているんでしょう?


中野 少なくともポジティブではないです。この状況下においても満たされている人というのはもちろんいると思いますが、内面的な不幸や空虚を抱えている人の方が絶対に多いように思います。ファッションというのは原則的には自由なものですが、一方で自由であればあるほど空虚になっていく感じもする。どんな格好でもできるけど、いずれにせよ彼氏はできない、みたいな。ただ、そういう虚しさがある反面で、そこに充実感みたいなものもある。モテ服を追求することによって得られる快楽もあるんです。虚しさと快楽、その両方を抱えて生きているような、そんな感じがします。

ただ、これは最近の変化ですが、フェイスブックなどを見ていると、人々の間に「どんどん人と会おう」っていう流れが生まれてきている気がするんです。私のアカウントへもしょっちゅう「誰々が幹事になってオフ会やります」みたいな誘いが飛び込んできますし、また「オフ会やりました」っていう写真なんかが至る所でアップされてたりする。そこまで人と人とが会っていれば当然ですが、現実にカップルも誕生しているみたいです。これはここ1年くらいの動きに過ぎませんが、「このままじゃまずいな」って感じている人達がなりふり構わずそういう出会いの場を作ろうとしているんですね。装いなんかどうでもいいからとにかく会ってみよう、話してみようという、渇望みたいなものが、震災後、徐々に出て来ているように思います。

私自身、人付き合いは積極的にする方じゃないんですが、余りにも多く招待通知がくるんで、たまには顔を出すようにしてるんです。で、その場の雰囲気を見てみると、いわゆる合コンみたいなものとは違っていて、もっとオープンなんです。自分を着飾って武装するのではなく、自分をさらけ出していく、そうしないと出会いも起こらない、ということを皆が学び始めてる気がします。そこでは男も女も肉食系です。


―いい話です。たとえ現状において自己準拠的、自己完結的に振る舞っていたとしても、出会いのなかで価値観が変質していくということは十分に考えられます。


中野 結局、最終的には自分をどれだけ曝けだせるか、ということなんだと思います。何を着ていようとか、そんなこと関係なく人と関わる。恋愛しようとするならば、そうするしかないわけじゃないですか。それに気付いたもん勝ち。気付いた人から、一歩前進し始めてるんじゃないでしょうか。


―「モテ」を巡る複雑な探り合いは卒業して、真に対面的なコミュニケーションへと開かれること。シンプルですけど、それが「虚しくない」ということなんだと思います。


中野 そういう意味において、昨年の震災は人々に色々なことを気付かせたんだと思います。住んでいる家、あるいは町がなくなってしまったら、最後に残るのは家でも服でもなく自分だけなんです。ここにきて、どれだけオシャレかっていうのは、どれだけ素の自分を上手に人前に出せるか、ということになってきているような気がします。デザイナーでもそういうことを言葉にする人が出て来ています。ファッションというのは「お前が何を着るか」ではなく「お前は何者か」ということ、「お前がなにに共感するか」っていうのを外に出していくことなんだ、と。

だから、ここから先数年のキーワードは、ソーシャルネットワークを利用した新しい出会いの中で、どれだけオシャレに素の自分を見せられるか、ということです。何から何まで曝け出そうというのではなく、素の見せ方上手になること。ここが大事なんじゃないでしょうか。ファッションもデコラティブなものではなく、よりシンプルに、人そのものを活かすようなものになっていく気がします。過剰なファンタジーの嘘くささは、すでに誰もが気付いていますからね。

(2012年4月/明治大学にて)


中野香織
1962年生まれ。明治大学特任教授。服飾史家。東京大学大学院綜合文化研究科博士課程単位取得。英国ケンブリッジ大学客員研究員などを経て、文筆業に。、主な著書に『ダンディズムの系譜—男が憧れた男たち』(新潮選書)、『モードの方程式』(新潮社)、『愛されるモード』(中央公論新社)など多数。訳書に経ネット・ウォラク著『シャネル—スタイルと人生』(文化出版局)、アン・ホランダー(著)『性とスーツ』(白水社)など。



『モードとエロスと資本』
(著)中野香織






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