コイトゥス再考 飯沢耕太郎

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コイトゥス再考 #06

飯沢耕太郎 

写真とエロスの現在・過去・未来

文・写真/辻陽介



現代の性愛の再考察をテーマとする本欄において、同時代の写真作品について語ることは、極めて有意義な試みであるはずだ。

写真を撮るという行為が、その対象の猥褻さを問わずエロティックな要素を孕む行為であり、またある種のフェティシズム告白であるというのは、古くから言われてきたことである。

そこで今回は、80年代のエロティックフォト全盛期に写真評論家としてデビューし、現在に至るまで写真評論世界の第一人者として執筆活動を続ける飯沢耕太郎氏をゲストに迎えお話を聞いた。

ネット台頭によるエロスの二極化、震災という未曾有のタナトスの果てにある祝祭、エロの未来を切り開く新しいコードと表現…。日本写真界の名伯楽が語る「写真とエロの現在、未来」。ロングインタビューでお届けします。



(2011年4月 東京綜合写真専門学校 飯沢耕太郎氏の研究室にて)


飯沢 実はここ一ヶ月くらい、エロス関連のインタビューが立て続けにあってちょっと驚いてるんですよ。

―そうなんですか?

飯沢 これまでが本当になかったですから、こういった依頼。僕もこの仕事を80年代の半ばくらいから写真評論の仕事をしてますからもう長いんですけど、90年代の半ば以降、こういった仕事はぱたっと来なくなりましたね。80年代の終りから90年代の初めくらいの頃、一種のエロスブームみたいなものがあったんです。雑誌のヌード特集、それこそブルータスの「裸の絶対温度」や、スタジオボイスなんかでもそういった特集が組まれていて、そういう時に僕はいつも引っ張り出されて書いていたんですけど、90年代以降、特にバブル崩壊以降は一挙に減りましたよね。

ー僕なんかはその時代、エロ全盛期を経験していないんです。思春期を迎える頃には凋落しかかっていたんで。

飯沢 まぁその凋落について、つまり現在のエロに関して簡単に言うと、エロが二極文化になってしまっているんですよ。

―と言いますと?

飯沢 インターネットを開けばモロ丸出しの画像や露骨な性表現というのがいくらでも溢れていて、もう一方ではボルテージが凄い下がってしまっていて何もないという状況。本来、モロ丸出しというのは野獣に任せればいい話で、人間の営みとしてのエロスというのを考えるときはそうじゃないわけですよ。日本で言えば江戸時代以来の文化の中で育まれてきたエロスの表現があるわけなんですが、それを維持していくメディア、現場というのが非常に弱まっている。片側ではあからさまな性的表現が溢れていて、片側では草食系。その間が消えてしまっているというのがここのところずっと問題だったんんですね。

―確かに。中間が空洞化している感じはありますね。

飯沢 ただ、そのような状況がちょっとずつ、まぁこういう企画があるということも含めて、変わってきてるんじゃないかなという気はします。今は荒野に種を撒いていて、その内それが大きく育つといいんじゃないかな、と。期待していますよ。つまらないからね、何にもないというのは。

ー現実的な問題として、まず紙のエロが売れなくなっていますよね。これはネットの台頭に依るところが非常に大きいとは思うんですが。また倒錯したエロや屈折したエロみたいなものに対する若い世代の反応が非常に鈍くなっているというのは感じます。

飯沢 怖がっちゃって近付かないというね。信じられない状況ですよ。昔は若い人達っていうのはそういうものにむしろ関心や好奇心があってさ、怖いもの見たさというか、恐ろしげなものに対して、若いからこそ見てみたい、覗いてみたいといった欲求や欲望があったような気がする。今、若ければ若いほどそこらへんを抑えちゃってる。

―写真美術の世界においても変化はありますか?

飯沢 写真のコンテストなどにおいても顕著に現れてますよ。例えば「写真新世紀」と「写真ひとつぼ展」(今は1_WALL展)というコンテストがあるんですが、その両方に僕は立ち上げの時から関わっているんですね。90年代の半ばくらいまで、特に女性写真家がわっと出てきた時は、いわゆるセルフヌードであったり、彼氏のおチンチンの写真みたいな、こっちが「もうやめてよ」となるような元気な写真がどんどん出てきていたんです。ただそれが90年代の終りくらいから殆ど出てこなくなった。更に、今になってはほぼ応募すらされない。

ーなるほど…、露骨な変化ですね。

飯沢 もちろん全く無くなったわけではないですし、そういったエロス表現の応募もあることはあるんです。ただもう一方において、社会的な自主規制というか、例えば「写真新世紀」はキヤノンが主催しているんだけど、キヤノンの姿勢というのも90年代から2000年代にかけてかなり変わってしまっている。あからさまな性的表現、性行為や性器というものが映っている作品とかって以前は結構出せたんですよ。ただ2000年代以降はほとんど出せなくなった。事前審査の段階で「ちょっとこれは」と言われてしまう。

ー外部からなんらかのプレッシャーがかかったんですか?

飯沢 直接的なプレッシャーがあったかどうかと言うより、例えばそれを展示した時にどういったクレームが来るのかを先に考えてしまう感じかな。あと、いわゆる肖像権問題や携帯の盗撮問題とかも同時期にあったじゃないですか。そういった諸々によって、社会的な外堀を全部埋められているので、過激なものを出した時に何かトラブルが発生するのではないかという心配が先に立ってしまうんです。表現の良し悪しとは別に、これを出してしまうと色々と影響がありそうだとなったら全部カット。そういう体制ができあがってしまったんですね。

―そうなると表現者側も萎縮してしまいますよね。

飯沢 こういう作品を撮っても展示できないんじゃないか、あるいは審査の段階で撥ねられてしまうのではないか、みたいにあらかじめ頭の中で考えてしまいますよね。これが負の相乗効果を起こしていく。さらに、そこにきて篠山紀信問題(篠山紀信ヌード撮影公然わいせつ事件)が起こったわけですから、完全にとどめですよね。「篠山紀信ですらパクられる」わけですから。

ーそれが無名の写真家であれば何をか言わんや…。

飯沢 まぁこういった手詰まりの状態の中で、「じゃあどうすればいいんだ」っていうね。色々な切り抜け方をみんなが模索しているっていう状況じゃないでしょうか。

ーそうですね。ところで、そういった変化の根本的な原因となっているものは何であると考えます?

飯沢 70年代から80年代という時代は、そういったエロティックな要素をあからさまに出していくということが表現のパワーとして成立していたんですよね。同時に、それを新たな自由の獲得、表現の領域を拡大していこうといったポジティヴなエネルギーに転化できていたというのがあり、また、享受する側にもそれを受け止める体勢があった。だが、今はそれが成立しづらくなってしまったんです。つまり、自由に新しいことを作っていくことに対して、作り手、受け手ともにフィルターをかけ始めている。

―それはなにゆえ?

飯沢 これには社会的状況というのが大きく関わっていると思うんですよね。社会や政治、経済の状況です。まず分かり易く言えば、経済状況が右肩上がりに上がっているという時というのは、人々の中で新しいことを獲得していこうというエネルギーというのも向上していくわけですよ。獲物を大量に獲得しなければならない、なら身体を元気にしなきゃいけない、みたいな。そういう状態ってエロス的表現みたいなものに非常に親和性があるわけですよね。ところが経済状況が不活発になってきて、ある種の閉塞感みたいなものが社会に漂い始め、人々が家の中でじっと引き蘢っているというような状況になってくると、外に向かって出ていくエネルギーっていうのが内向きに溜まっていくわけでしょ。そうするとエロには絶対に結びつかない。エロというのは他者を必要とするわけだから。自分の殻に閉じこもっている限りはうまく回転していかないわけです。やっぱり外へエネルギーを出していって、出しきったら補充するという循環体制というのができていかないといけない。循環体制というのは社会や経済の運動と非常に緊密に関わっているものだと思うんだよね。個人の内側で頑張っている人もいるのかもしれないけど、社会全体のポジティブなエネルギーの総量というのはかなり落ちてしまうと思う。

ー社会的な草食化ですね。写真表現の世界においては90年代に早くも草食化が始まっていたという。

飯沢 そうだね。そのような状況に最後まで抵抗していたのが、女の子たちだと思う。長島有里枝やHiromixや蜷川実花ですよね。だが彼女達がエスタブリッシュメントされた2000年代というのは、そこの最後の補給源も絶たれてしまった。だからあとはゲリラ戦をやるしかないんです。底力を問われるところじゃないですか?  大地震もあったことですし(笑)

ーそうですね(笑)

飯沢 ただ僕はね、今回の震災ってある意味においては、表現がエネルギーを取り戻すための一つのきっかけになるんじゃないかと思ってるんですよ。経済や政治の閉塞状況みたいなものが追い込まれていくと、その反動で爆発するというような状況があるんじゃないかと僕は思っているので、今回の震災というのが、我々が無意識的に閉じこもっていたシェルターみたいなものを物理的に破っていくきっかけになるんじゃないかな、と。早い話さ、引きこもってても死ぬだけなんですよ。津波が来たら逃げなきゃいけないわけで。そういう外側に向かって動き出すエネルギーというのが、この震災をきっかけにして、逆流を起こしていくんではないかという妙な期待感もあるんです。

―確かに少なからぬ影響はあるでしょうね。

飯沢 終戦直後の焼け跡闇市時代みたいなもんですよね。あの時代ってとても面白いじゃないですか。文学も映画も音楽も演劇も美術も、みんな妙に元気があって、坂口安吾や太宰治みたいなのが出てきたりさ。ああいう終戦直後の活発な文化のようなものが、震災直後の今に花開いていけば面白いと思う。2000年代のエロ表現というのは鬱屈したものが多かったんだけど、それを吹き飛ばしていくようなものが出てくるんじゃないのかな。

ータナトスが強調された分、エロスもまたってことですよね。

飯沢 荒木さんがずっと言い続けてることだけど、本当にその通りだと思うよ。タナトス的なものとエロス的なものというのは裏腹な関係にあるから。鎮魂ムードが日本全土を覆っているようなこのタナトス的状況が、ちょっとこうクルッとひっくり返ると、突如として祝祭的でエロス的な状況が現れるってこともありうる。エロスってのは基本的には生命力だからね、それが充分に動いてる時期っていうのは面白い物もどんどん出てくるはずなんですよ。

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