丸田祥三 —コイトゥス再考—

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コイトゥス再考 #16

丸田祥三 

据え膳食うのが男の恥

文/辻陽介

当初、丸田氏には廃墟写真のエロスについて語って頂くつもりであった。

丸田祥三といえば廃墟写真家の元祖のような存在。今でこそ廃墟は、書店で特設コーナーが設けられることさえある写真集の定番モチーフの一つだが、氏が廃墟を撮り始めた70年代においては、廃墟写真はまだ一部の好事家たちによってのみ理解される、特殊なフェティの世界だった。

異なるのは時代背景ばかりではない。氏の作品を見れば、昨今数多ある物見遊山的な廃墟写真群とは、全く異質なものであることが一目で分かる。最大公約数的な視点からではなく、どこまでも私的な視点からシャッターが下されることによって生じる強烈なフェティシズム。それゆえ、氏の作品には、その賛否が明確に分かれる一方、刹那の流行に消費されることのない強度がある。

これは是非とも、丸田氏ご本人に、廃墟写真が秘めるエロティシズムについてお話を伺いたい。

…と、そんな目論見のもと取材オファーのメールを送ったわけなので、その数日後、丸田氏から編集部にかかってきた電話において氏が語った内容に、筆者はすっかり意表を突かれてしまった。

「過去の記事を読ませて頂きました。正直言いまして、ちょっと納得ゆかない部分がありますね。以前の記事で、最近のエロには元気がない、などと書かれてありましたが、私はそうは思いません。少なくとも、私はこれまでに廃墟と少女の写真なども撮ってきましたが、露骨なエロ表現など用いなくとも、誰よりもエロい写真を撮ってきたつもりでいます。そんなとこについてお話ができれば、と」

……さて、これは面白いことになってきた。



(2011年7月/和光大学構内にて)

—本日は宜しくお願いします。早速ですが、先日、丸田さんがお電話で仰られていたことについてお聞きしていきたいと思うのですが…、この前のお話というのは要するに、年長世代が主張しがちな「最近の若い人間のエロは衰弱している」という考え方は断じて間違っている、ということでしたね?


丸田 そうですね。順を追って話していきますと、まず僕がカメラマンとしての仕事を始めたのは83年なんですが、その当時から僕の中には「この人達はダメだな」って感覚があったんです。この人達というのは当時の写真界の人間ですね。例えばこのコーナーにも以前出ていた飯沢耕太郎氏なんかは、80年代、90年代は写真にパワーがあったけど、その後どんどんダメになっていったっていう感じのことを言ってますけど、僕はそんな風には全く思ってないですね。


―どういうことでしょう?


丸田 つまり、83年当時、写真雑誌の編集者や、写真に関わっていた人間たちが、すでに「分かりやすいエロ」しか分からなくなっていたんですよ。例えば当時はアラーキーなんかが深夜番組などに出演し、エッチなおじさんみたいなキャラとして取り上げられてましたけど、僕はアラーキーの写真で一番好きなのは70年頃にアラーキーが撮った上野駅前の写真なんです。当時は路面電車が走っていたんですけど、その写真は運休日に撮られていて、レールのところにベンチが並び、ニューファミリーの走りみたいな若いお母さんなんかがハンバーガーを食べたりしてる。ああいうさり気ない写真が、とても色っぽくて、僕は非常に好きだったんです。

しかし、その後、手に入るアラーキーの写真は分かりやすくおっぱいやお尻が出ているような写真主体でなんというか…、まぁ当時僕は18、19ぐらいでしたから偉そうなことは言えませんでしたが、本当に情感のある写真を撮れる人なのに、それだけじゃ売れないから、分かりやすくエッチな写真を撮るエッチなおじさんになるしかない、みたいなノリをすごく感じていたんです。あれだけ才能のある方をそんな風にしか仕向けられない写真の世界の底の浅さみたいなものに、ものすごく絶望的な気持ちになっていました。いわば、エロ表現が衰弱していたとするなら、むしろこの時期なんですよ。


―露骨なエロス表現に反感を覚えていた、ということでしょうか?


丸田 僕は90年代の後半に雑誌の仕事でよく実相寺昭雄さんと一緒に東京を歩き回ったりしてたんですが、その時に実相寺さんとよく話していたのが、ATGの映画で桜井浩子さんが脱がされてヤッているような映像よりも、ウルトラマンにフジ隊員として出ていた時の方がよっぽどエロい、と(笑)。実相寺監督のウルトラセブンって観たことあります?


―すいません、ないです。


丸田 実相寺版ウルトラセブンの中に「第四惑星の悪夢」という回があるんですが、それはロボットが人間を支配しているという星が舞台なんですね。奴隷の人間が主人であるロボットに毎日同じ味のコーヒーを出さなきゃいけないんですけど、人間だから若干味がズレてしまう。するとロボットがそれを作った女の子を平手でブツわけです。ああいうのって非常にいやらしかった。実相寺さんご本人も仰ってましたが、子供向けだから基本的にはエロはできない、だからああいうところに込めたんだ、と。直接的なエロを描けない分、逆にその禁欲的な状況を楽しんでいたわけですね。ドラマ的にはそこにSM的な要素があってはいけないんだけど、実相寺さんの中にはすごくあったというんです。


―ある種の制約が結果として表現の成熟を生んだということですね。


丸田 僕は前に朝日新聞で1年間、少女物語という写真連載をしていた事があったんですが、その時はパンチラもおっぱいも撮ってません。ただ、少なくとも僕の中では服を脱がして撮るより一兆倍くらいエロく撮ったつもりでいます。率直に言って、篠山紀信にせよ、アラーキーにせよ、お尻やおっぱいの写真ばっか撮ってて本当はイヤなんじゃないかな、と思ってましたので。


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Photo by Shouzou Maruta


お墓に裸の女を座らせてパクられたって篠山紀信の事件も「表現への挑戦だ」ってことを書いてる人がいましたけど、「アホか」と。お墓に裸の女を座らせて何が楽しい? 逮捕されるされない以前の問題だよ。もうそういういい加減やめといたら、ホントは撮る方も疲れてんじゃない? っていう。エロに対する感覚の差と言ってしまえばそこまでですけど…。80年代~90年代当時は「脱がしてなんぼだよ」みたいなことを言うカメラマンが本当にいたんです。一方、僕は25年前、30年前から「据え膳食うのが男の恥」だと思ってたので。


―食わぬ、じゃなく、食うのが恥、と。


丸田 そうです。絶対にこの人はヤラせてくれると思ったら指1本触れないというのが自分なりの筋の通し方だったんです。禁欲があってこそのエロティシズムの方が楽しいし、その楽しさはちゃんと持続するんだ、ということですね。これは他ジャンルの人達の方が理解してくれるんです。小説家だったり、劇作家だったり、映画監督だったり。彼らもエロ全開の時はエロ全開で表現しますけど、制約があれば、その制約の中でエロティシズムを表現することをちゃんと楽しんでいますから。


―騙し絵的なエロスですね。


丸田 そうです。しかし写真の世界では「脱がせられるか、脱がせられないか」、「股を開かせられるか、開かせられないか」とか、非常に即物的なエロ、表層的なエロしか描かれないようになってしまったんですね。僕の少女写真を見ても、例えば他ジャンルの表現者達がそれを「エロいね」と言うなか、カメラマンたちは「あれは紙面の制約上脱がせられないから、あんな中途半端な写真なの?」とか言ってくるんです。写真関係の連中だけがそれを分かれない。網膜上の快楽しか理解できなくなっていたんですね。


―なるほど。


丸田 直裁に言えば、エロスを追求するのであれば、基本的に脱がせるべきではないでしょうね。脱がして、脚を開かせてしまったら、その先はもう何もないんですから。直前の状態で楽しむということはできないのか、と。評論家連中は今になって「今の若い連中は去勢されている」とか言いますけど、「去勢した張本人たちが何を言ってるんだ!」と言いたいですね。お前ら本当にエロい写真を撮ろうとしている人間を評価してきたのかよ、と。

僕の一回り、二回り前くらい上の世代というのはね、赤線が廃止されて、しかも素人の女性ともそう簡単にセックスができなかった、いわば性が空白であった数十年を生きた世代なんですよ。そして、その記憶のまま来ている。だから、脚を開かせたり、服を脱がせるって凄いことだ、となるわけですよ。しかし時代と共に性のハードルは一般的にどんどん低くなってるわけです。その状況の中で、表現としておっぱいを出すことに何の意味があるのか、と。たしかに90年代の最初くらいまでは、可愛い子がにっこり笑って大股開きするっていう光景がまだ珍しいと言えた。お金を出さなければ普通の男はそんな光景見ることが出来ませんでしたから。しかし今は普通の中年会社員がバイトの若い子とヤッちゃったなんて話はありふれてるわけです。


―確かにマンコそのものの価値は急激なデフレを起こしてますね。


丸田 今は写真でマスをかく人よりもDVDでカク人の方が多い、と嘆く声も聞かれますが、いっそそこまでいったんだったら、写真の方は脱がないエロを追求するぐらいのことをやってみろよ、と。未だにグラビアの仕事なんかを受けた時に「脱がないエロでいきましょう」とか言うと、「いやぁ、せめてパンチラくらいは欲しいですね」なんて言われますが、今時、週刊誌のグラビアの「アイドルのギリギリショット」なんて見出しに20代の子は釣られない。パンチラに目の色変えてるなんて、いい歳こいたオッサンだけでしょう。

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