北原みのり —コイトゥス再考— 煙るこの国のフェミニズム

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コイトゥス再考 #19

北原みのり

煙るこの国のフェミニズム

取材・文/辻陽介 写真/久田悠


かりにもセックス、ジェンダーの再考を掲げる本欄にとって、フェミニズムは避けては通ることのできぬテーマである。

とはいえ、一言にフェミニズムと言ってみたところで、筆者自身、それがいかなる思想であるのか、充分に会得しているとは言えない。辞書的な意味においてではなく、フェミニズムという言葉にはなにか過剰性のようなものを個人的に感じるのだ。

筆者個人のフェミ・コンプレックスについては取材後記に譲るとし、まずはインタビュー本編をお読み頂きたい。

フェミニズムとは何か。

そして日本のフェミニズムはこの国の性をどう変えたのか。

女性向けアダルトグッズショップ『ラブピースクラブ』の経営者であり、また自身フェミニストとして執筆活動をおこなう北原みのり氏と共に、この国の性と、フェミニズムについて考えた。




(2011年11月/ラブピースクラブ店内にて)



—まずお聞きします。北原さんはフェミニストですか?

北原 (笑)。フェミニストの定義はなんでしょうか? 

—その定義を含めての質問です。ご自身をどう認識されているのか?

北原 他人にどう思われているとかは余り考えずに生きてきたんですけど、私自身は自分のことをフェミニストだって言ってきましたね。よく「それはあまり言わないほうがいいよ」とも言われるんですけど、私自身は自分をフェミニストだと思ってるし、それに私がフェミニストじゃないなら、「じゃあ誰がフェミニストなの?」 とも思う。

―なるほど。では北原さんは「フェミニスト」とはどういう人を指す言葉だとお考えです?

北原 私にとってフェミニストは「女を裏切らない人」。それがまず一つ。思想とか主義というもの以前に、女を裏切らない。シスターフッドですよね。それをベースとしてちゃんと持っているかどうかかなって思う。

―イデオロギーありきではないんですね。

北原 だからあれですよ、意外に任侠映画が好きだったりする(笑)。「男の友情」とか、いいですよね。男子サッカーも意外に好きで、本田とかが仲間の選手達とぴょんぴょん跳ねてたりするのを見て「わ、いいな」と思ったり。そういうことを言ったりすると「あんた、本当にフェミニストなの?」とか言われるけど、男の友情に萌えるような感じで、女同士の友情とか、それこそ女子サッカーとかに萌えている感覚なんです。それが原型というか、ピュアなフェミニズムのイメージ。だから迷い無く「私はフェミニストである」と言える。子供の頃からそう思ってますよ。

―もっと卑近な例えをすれば、小学校の教室で男子にからかわれている女子を守ろうとする男勝りな女の子、みたいなイメージでしょうか?

北原 そうそう。「ちょっと男子、スカートめくりとかしないで!」みたいなね(笑)

―なるほど。男性で言うところのホモソーシャル的なノリでもあるのかもしれないですね。

北原 うん。レズソーシャルですね。女の子といる方が楽しい、みたいな。そういう感覚が昔からすごくあったと思います。で、そういう女の子たちが社会的に差別されていたりとか、給料が男性に比べてあまり貰えていないとか、あるいはレイプされている現実であったりとかを見ていると、そこにはきちんと「怒らなきゃいけないな」って思う。思想って生活の中で磨かれていくものだと思いますし。楽しいなって思うことが損なわれたり、あるいは自分自身の何かが損なわれることがあったら、戦わなきゃいけないでしょ。

―なるほど。では北原さんの視点から眺めた時、これまで女性はセックスにおいて、損なわれてきたと感じていますか?

北原 私個人が最も嫌だなって感じてきたのは、自分の欲望、特にセックスに関して言うと、本来「私がしたい」ことでもあるのに、「させてくれるの?」とか「いいの?」って言われて、勝手に捧げるものにされていたりすることですね。あるいは痴漢にあったりする時にも感じるんだけど、自分の身体なのに自分の身体じゃないように扱われている感覚、自分の欲望とは全く関係のない他人の欲望が自分の体に張り付いているような気持ち悪さを感じる。もちろん「損なわれた」と一言に言っても様々な意味があると思うんですけど、セックスに関して言えば、自分の主体性を奪われ続けてきたみたいな感覚はあります。

―勝手に客体化されてしまうことに憤りを感じる、と?

北原 自分の体験の中でも「女性である」ことによって、一番怒りや痛み、「嫌だな」って思いを感じたのは、まさにセックスだったと思う。男と女の人が最も密に触れ合う行為であるセックスが、最も理解されていない、理解しあえていない感じがするんです。それがとても嫌だった。だからセックスについて、他人の言葉でなく、自分の言葉で語りたいなと思ってるし、今でもこの仕事をしていて、一般的な女の人たちがセックスに関して主体性みたいなものを取り戻せていないなとは感じます。そういう意味で言ったら「損なわれてる」って言うよりも「男は分かってないなぁ」って感じかな。

―これは指摘としては古典的かもしれませんが、欲望の主体と客体って割に複雑な構造をなしてるとも思うんですね。例えば表層的には男性の欲望の客体として振る舞っていたとしても、それが即ち、「主体性が欠落している」とはならないと思うんです。セックスを楽しむ上では、自らを客体化してゆくのも、一つの主体性だと言えませんか?

北原 分かりますよ。

―もちろん北原さん自身がそれを無視しているとは思いません。ただ、一般にフェミニズム的な言論からは「女性もセックスに主体的たれ」とか、「自らの欲望をもて」とかいった分かりやすい表層的な言葉だけが抽出され、喧伝されている気がするんです。そして、それを額面通りに受け止めてしまっている人も多い気がする。そうなると、今度は性の複雑性が損なわれてしまうんじゃないかなって思うんですが。

北原 なんか「主体的である」ということを、「パンツを自分で脱ぎましょう」とか、「セックスしましょうって自ら言おう」みたいな、受け身であることが絶対にいけないんだと思っちゃう人もいて、それには私もビックリしてる。今仰られたことは全くその通りで、見られることが欲望である場合もあるし、客体化される主体というのもあると思う。それらが女性の欲望の一つであるということについては全く異論はないです。「女性として社会にいる」という状況の中で、自分の欲望というものがどこまで本能なのか、あるいはどこまで社会化されたものなのかということをはっきり画定するのは難しいものですし、私自身、「きれいだね」って言われることや、セックスにおいて受け身になることに強く快感を感じることもあるわけですから。ただ、客体化する歓びと言っても、やっぱりどこまでが自分の欲望なのかを考えていくと、よく分からないところは正直ありますけど。

確かにフェミニズムが「主体的に」とか「自立せよ」とか、かっちりと決められた言葉を使うことで誤解を招いてる部分はあると思うし、言葉っていうのはとても不自由だなとも常に感じてる。でも、それによってフェミニズムを「のりしろがない思想である」とか、そういう風に考えてしまう人がいるならば、それはフェミニズムが不自由であるというより、言葉が不自由であるんだとも思うし、欲望ってことを私たちはもっと分かっていかないといけない気がする。80年代、90年代に伏見憲明さんや上野千鶴子さんや小倉千加子さんなどがあれだけ欲望史のことを書いてきたにも関わらず、それでも分からないことっていうのはあるんだなって感じてます。

―そうですね。フェミニズムのうわずみだけが抽出され、単純化されてしまうと、すごくつまらない主張になってしまう気がします。

北原 うん。要は、客体化されることが嫌なんじゃなくて、欲望や主体がないことにされるというのが嫌なんですよ。ないことにされているものを「実はあるんだ」って証明することって凄い難しい。「私にはそれがあるんです」って言い通すのは大変なんです。「男の性欲に比べたら女の欲望なんて大したことはないだろう」みたいな、自分の持っているものを勝手に矮小化されていくのが凄く嫌、そういう感じです。

―それは日常の語りにおいて感じることですか?

北原 語りにおいてもそうですし、性表現においても感じますね。

―現在はセックスメディアもかなり多様化しているので、一概には言えませんが、そもそもポルノというのはある種のファンタジーですよね。ただ、その中で、女性の主体性や欲望を、少なくとも表面的には小さく描いたり、あるいは無いもののように描くということは多々あります。

北原 主体性があっちゃ困るでしょ(笑)

―僕はポルノ、とりわけ紋切り型なエロ表現に登場する女性というのはある種のイタコだと思ってるんです。男性の欲望が憑依する触媒としての女性というか。もちろんファンタジーには変わらないわけですが。北原さんはそういうポルノの存在について、どう思います?

北原 ポルノって見なければ見ないでも済む世界なんですよね。考えたくなければ考えなくて済む。私もかつて一年ちょっとくらいの間、男性向けのポルノ雑誌の編集部で働いていたんですけど、正直、ちょっと楽しかったんですよね。すごい簡単…て言ったら失礼ですけど、男の人の欲望を満たす作業が本当に記号を当て嵌めていくような感じでね。

―確かに記号的ですね。

北原 結構えぐい企画なんかも思いついちゃったりして。身長はすごい低いけど巨乳って子だけ集めてプレイさせるとか(笑)。「もう私はフェミニストじゃない」ってくらいに。でもその当時、それをする事によって自分が損なわれている感じや、何か悪い事に加担しているっていう感覚はなかったんですね。それは「こんなバカなことを本気で信じている人間なんているわけない」ってことをどこかで信じていたからだと思うんですよ。飽くまでもファンタジーであるということをもちろん誰もが前提としていると思ってたんですけど…。だって、男達が本気でこんなものを女に求めてるのだとしたら、それはとても不気味な社会ですから。

―実際の印象はどうです? ファンタジーであることを理解できていない男性というのが多いと思いますか?

北原 「多い」というより、やり過ぎているって感じ。それをはっきり思ってしまったのがAKB48ですね。私には完全なるポルノにしか見えない。もちろんAKB48の存在には「頑張ればスターになれるんだ」とか、それこそ「客体化される主体性」じゃないですけど、彼女たち自身の欲望も入っているのは分かるんです。それはAVの世界と一緒ですよね。「お金がいっぱい入る」、「頑張れば有名になれるかもしれない」、そういう女性の欲望があって成立している世界だというのは確か。ただ、それでもAKB48を見ていて、特に大島優子さんの「わたしと赤ちゃん作らない?」のCMを見ていて、ここまではやっちゃいけないレベルじゃないかってことを感じたの。公共の放送でここまでやるか、と。完全に主体的ではないエロ、お母さん的な包容力、従順さとピュアさ、これが男の求めてるものですよっていうのを、仮にも国民的アイドルを使ってばんばん打ち出していくというのは、これはやり過ぎだと思いますよ。

―確かにかなり扇情的なCMだなとは思います。

北原 だから私はポルノ商品の内容がどうこうっていうことについては、はっきり言ってどうでも良くて、それはゾーニングなりがきちんとされていれば問題ないと思っているんです。ただ、AKB48のポルノ的な部分には耐えられないと思ってる。ああいった形でポルノの世界と現実の世界がグロテスクにリンクしていくのであれば、私はこの国の男の人を本当に嫌いになりそう。

―うーん、どうなんでしょう? あのCMはやや極端な気もしますけど、僕は割と楽観的に眺めています。つまり、彼らは自覚的だと。これは全て、それこそAKB48という劇場内の出来事であって、フィクションなんだって知りつつ楽しんでる、そう思っているんですが…、甘いでしょうか?

北原 昨日の夜中にAKB48のライブをNHKでやっていて、なんとなく観ていたんですよ。で、何を感じたかというと、まず観客が男ばかりなんですね。私も直接ライブに行ってるわけじゃないですから細かいことは言えませんが…、例えばモーニング娘。の頃とかは、もうちょっと小学校の女の子のファンとかがいたって聞くんですよ。ただ昨日の放送でAKB48の客席を見た感じでは、小さな女の子とか、AKBと同世代の女の子とか、子連れのお母さんとかが殆どいなかった。質問からは少しずれてしまうかもしれないけど、とても不思議な光景だなって思ったんです。客層だけ見ればAVの撮影会と変わらないのに、それが「国民的」アイドルと言われていることに凄く違和感がある。もちろんAKB48を好きだという人達を全く否定はしません。「そういうのを好きな人もいるんでしょうね」ぐらいなんです。ただそれが「国民的」アイドルと称されてしまっているという事実に、もう男と女は致命的に理解しあえないところにまで来てしまっているんだなって感じるんです。


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