【対談】宮台真司 × 湯山玲子 ロウ・イエ監督作品『パリ、ただよう花』をめぐって 第一部

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宮台真司 × 湯山玲子
ロウ・イエ監督作品『パリ、ただよう花』をめぐって 第一部

文・写真/辻陽介


昨年(2013年)末に劇場公開されたロウ・イエ監督の新作『パリ、ただよう花』。“ロウ・イエ版『ラストタンゴ・イン・パリ』”というキャッチコピーに相応しい、この濃密な男女の恋愛劇(個人的には同じベルトルッチ作品ならばロウ・イエ版『シェルタリング・スカイ』と言った方がしっくりくる気もするのだが、いずれにせよ素晴らしい作品だ)については、本誌においても、ちょうどその公開直前に監督へのインタビュー記事を掲載させて頂いた。

(ロウ・イエ監督インタビュー)http://vobo.jp/flower_paris.html

さて本欄においては、昨年のクリスマスに渋谷アップリンクファクトリーでおこなわれた、宮台真司氏と湯山玲子氏による同作を巡るトークショーの、ほぼ全文を起したものを掲載する。映画を起点に縦横無尽に繰り広げられた恋愛論、そして男女論。三部構成でお届けしよう。



湯山玲子(以下、湯山) 早速ですけど、宮台さんはこの映画をどうご覧になりました?

宮台真司(以下、宮台) まず個人的にとても懐かしいと感じました。湯山さんと僕とはほぼ同世代ですが、僕らの世代というのは性愛においてアホなことを結構やってきましたよね。この映画でも描かれていた野外セックスであったり、あるいはナンパして10分後にヤるといったことも、経験として普通にあった。そういう意味で懐かしく思えました。
 しかし、今はそういうことがなくなったので、この映画を今の若い子が見たら、男女を問わず「なんじゃこりゃ」という風に、ちょっとアンリアル(非現実的)な印象を抱くんじゃないかな、とも思いました。そういう風に感じてしまうと、この映画に対して心理的なバリアーが生まれてしまい、中身を味わえないんじゃないかと、少し心配しています。

湯山 確かにちょっとブロックが掛かっちゃうかもしれないですね。私としては、ロウ・イエ監督の前作にあたる『スプリング・フィーバー』がすごい良かったんです。あれはゲイカップルの話でしたが、やっぱり男性の方がゲイの感覚って分かるんですよね。ロウ・イエ監督は男性ですから、その点、すごくよく描けていた気がします。
 一方、今回の映画はホア(花)というファム・ファタールが主人公ですよね。それゆえ、描き方にいわゆる男のロマン的なものが入ってしまっている気がしました。ホアって顔がちょっと檀蜜に似てますよね(笑)。つまり、よく見る古典的なファム・ファタールなんです。「すごく知的なのにセックスが大好き」みたいな、それって男達の大好物なやつですよね。
 あるいは渡辺淳一的とも言えて、「知的なのに口数は少なく決して男を攻撃しない」みたいな。まぁ、この作品のホアはロマンよりも実を取ってしまう悪い女なんですが(笑)。そういった点から、女性の中にはこれを見てカチーンときてしまう人もいるかもしれないと思う一方、ただ、私がそうならなかったのは、やはりロウ・イエ監督の凄さだなぁ、と感じました。
 今回、セックスのシーンがすごい多かったですけど、セックスの場面っていうのは、頭で考える正邪を越えた色々なことが起こるものなんですね。学術的にいうと非対称性ということになるんですが、ロウ・イエ監督はそこの描き方が本当にうまい。もちろん役者もすごかったと思うんだけど、監督が前作の『スプリング・フィーバー』から一環して持っているある種の肉体観、コミュニケーションとしてセックスを捉える目であったり、あるいはノンバーバルな領域への信頼の深さのようなものを強く感じましたね。

宮台 ところで、この会場に『スプリング・フィーバー』をご覧になった方はどれくらいいらっしゃるんですか? (会場挙手)…どうやら三分の一くらいのようですね。

湯山 あれは名作ですよね。

宮台 そうですね。『スプリング・フィーバー』と比較すると本作は、湯山さんがおっしゃったようなファム・ファタールものであることに加えて、[淫乱/貞淑]とか[知性の男/肉体の男]などといった、割と古典的な対立軸が前面に出てきているんですね。
 これは、この映画がパリを舞台とした作品なので、『スプリング・フィーバー』における南京のような監督自身がよく見知っている街で撮影できなかったことに、由来しているんじゃないかな。『スプリング・フィーバー』に僕的なキャプションを付けると〈あの頃、あの街だったからできた〉っていう感じです。そう。あれは〈街の映画〉なんですよ。〈街とまぐわう〉ことができる都市を描いた映画だということです。
 あの映画を見て思い出すのが〈性の時代〉つまり1977年から1996年までの渋谷や新宿の街です。僕は80年代半ばからナンパを始めたので、あの映画の主人公たちと同じような経験を山のように積んでいますが、僕の中では、「女とセックスをした記憶」としてではなく、〈街とまぐわった記憶〉として残っているんですね。
 『スプリング・フィーバー』の正しい翻訳は「春の微熱」です。近づく春の香りが風に漂う頃、落ち着かない微熱感に浮かされることです。映画の中では、それは「春の微熱」であるだけでなく、〈街の微熱〉でもある。そうした微熱感のせいで、気がつくと不思議なことをやってしまっている。その感覚を僕ら世代の一部が強烈に覚えているんですね。
 ところが97年以降になると〈街の微熱〉が消えてしまい、かつてなぜそんな不思議な振舞いができたのか、自分でも分からなくなってしまうんです。微熱から回復したら、微熱のときに見た夢のリアリティが消えてしまった。さて『スプリング・フィーバー』は今の南京を描いているのに、なぜか〈あの頃、あの街だったからできた〉という回顧の眼差しです。
 そこがロウ・イエのすごさです。南京も、やがて今の渋谷と同じように清潔で安全な街になり、野外セックスなんてできなくなることを、ロウ・イエは知っているんです。同じことが『天安門の恋人たち』にも言えます。あそこに描かれた大学内外の風景は、日本で言えば1960年代から70年代前半まで。あれが程なく消えてしまうことを、ロウ・イエは知っています。ロウ・イエが日本や韓国の古い映画を数多く観ていれば分かることです。
 そう。ここ渋谷にだって、野外セックスできる場所が山のようにあったんですよ。皆さんはセンター街に野外セックスする場所なんて、あるわけないと思うでしょう。とんでもない。少し脇に入れば実は無数にあったんです。センター街や東急本店通りを見下ろす非常階段や屋上などで、出会って一時間も経っていない女の子たちとヤリまくってました(笑)

湯山 東大にもそういう場所がいっぱいあったらしいですよね(笑)

宮台 いっぱいありました。校舎の屋上、屋外非常階段、図書館の書架の蔭、空き教室、池の木陰⋯⋯全ての場所でやりました(笑)。そして、そうした場所には、しばしば使用済みのコンドームが落ちていたものです。

湯山 とは言いながらも、私は本作におけるパリの街は借景としてうまく機能していたと思いますよ。パリにもそういう場所はもうなくなってしまっているはずなのに、街全体の浮つき感というか、エロスな感じが映像から感じられました。

宮台 工事現場という〈街の隙間〉を監督がうまく使ったからだと思います。〈街の隙間〉がキーワードです。かつての渋谷にせよ、直前の南京にせよ、なぜ昔そういうことができたのか。〈街の隙間〉があったからです。街が〈隙間〉を通じて、僕たちに何かを促しているような感じがしました。
 あの角を曲がっただけで、一緒にいる男が何をしようとしているのか、女にも分かってしまう。そして、女もそれをしたくなってしまう。そういう場所が、本当に無数にあったんです。今だと〈街の隙間〉を期待してちょっと薄暗い路地に入っると途端にピカっとセンサーライトが光ったり、コインパークの車の裏に回ると上方に監視カメラがあったりするでしょ?

湯山 すぐにツイートされちゃうしね(笑)

宮台 ちょっと難しくなっちゃいましたよね。さびれた駐車場にとめた車の中でできるくらいですが、〈街の微熱〉に浮かされた感覚はありません。

湯山 野外セックスといえば、この映画で一番最初に彼らが性関係を持つシーンも野外でしたが、あのシーンってさらっと見てしまうと非常に暴力的なんですね。ただ食事をしただけの関係、それが別れ際に挨拶のキスをしたかと思うと、そのまま男がガーっと迫って、女はそれを拒絶しているっていう。このシーンの押し問答は普通に見るとかなり強引ですよね。フェミの人が見たら激怒しかねない。まぁ私もフェミなんだけどさ(笑)。
 ただ、ここがロウ・イエ監督の演出の細かいところで、よくこのシーンを見ていると女が目配せで「YES」って言ってるんですよね。今日もそこの映像を何度も繰り返し見たんです。もし、そこがおざなりになってしまっていたら、このシーンはただの暴力、それこそ昔のATGなんかにいっぱいあった、「口ではいやって言ってても体はいやといってねぇぞ」みたいな、ただの雲助みたいになってしまう。しかし、ホアは魔性の女なんですね。拒絶しながらも、ある瞬間に目で相手を誘ってるんですよ。
 あのホアの目配せが、女優さんがもともとああいう女で自然にやってしまったのか(笑)、あるいは監督が指示をしていったのか。皆さん、今日は一度見ただけですからさらっと見過ごしてしまったかもしれませんが、DVDが発売されたら是非じっくり見て頂きたいです。女子は一つの手口として使えますよ(笑)

宮台 「誘ってる」っていう言い方をすると今の人にはピンと来ないかもしれないから、もう少し中立的な言い方をすると、あのときホアは〈変成意識状態〉に陷ったんですね。〈変成意識状態〉は「前催眠状態」が典型ですが、繭の中に入ったような特殊なリアリティがもたらす〈あり得ないことが、あり得る〉状態のこと。〈あの街だったからできた〉と言いました。これも、街の中では〈あり得ないことがあり得る〉こと。つまり、街にいることが〈変性意識状態〉に陷ることを意味する、ということです。

湯山 え、そこなの? ナンパの極意って催眠術なの?

宮台 いえ、催眠術じゃありません。催眠状態に入る前の「前催眠状態」だと言いましたよね。催眠術師は、術をかける前に、術がかかりやすくするために、誰にでもできるちょっとした仕掛けを使って〈委ね〉の状態を作り出します。仕掛けというのは、例えば、さあ体が揺れてきますよ⋯と言われると本当に揺れてくるといった〈ホメオスタシス原理〉を使います。
 さて、あっ本当に揺れてきた⋯と思った瞬間〈変成意識状態〉に吸い込まれてしまう人と、そうではなく抵抗していまう人がいます。で、このホアという女は、顔を見ただけで分かるけれど、〈変成意識状態〉に吸い込まれやすい人です(笑)。ロウ・イエはそれを承知でキャスティングしています。要するに、毎日がつまらなくて〈ここではないどこか〉に行きたいと思っている、という感じがする。そういう顔ということですね(笑)。
 この女は何かしら非日常を求めているとか、どこかで眩暈を求めているとかは、映画で描かれたように一緒に飯を食っただけで分かります。フェミニストのような知的な女にはその種の幻想を持つ人——僕は〈内在系〉ならぬ〈超越系〉と呼ぶけど——が多いのを、僕は知っています(笑)。
 パリ留学中の中国人ホアも知的な女で、見るからに〈超越系〉です。その意味で、この映画は、女が陥る〈変性意識状態〉を男はどう触知したら良いか、あるいは、男が吸引されがちな〈変性意識状態〉を女自身がどう引き寄せたら良いか、についてのオーソドックスなテクストです。湯山さんがおっしゃるように、女子こそこの映画から大量に学べます。

湯山 ただ私は絶対にできないと思ったな。私はすぐ言葉に出しちゃうから。どうやって口を閉ざすかっていうのが問題ですよね。言葉が多い。黙ってて、視線とかだけでアピールするって難しいですよ。

宮台 それは大丈夫。〈変性意識状態〉は、日常と非日常の落差にこそ棲息します。だから、普段は口数の多い人は、単に「黙る」だけでシグナルになります。1960年代後半に流行した西谷祥子の少女漫画以降、〈メガネを取ったらアラ美人〉というモチーフが反復されたでしょう。それと同じで〈セックスしたらアラ美人〉っていう状況を作り出せます。

湯山 どっかのAVみたい(笑)

宮台 要するに「モードを変える」ことが男に対する働きかけになるんです。男からすると、女のモードが変わった瞬間にいわゆる「萌え」が訪れます。いかにも落ちなさそうに見える女であればあるほど、メタモルフォーゼ(変身)をする瞬間に、強い眩暈がもたらされるんです。
 「一見すると身持ちが固そうに装っている女は、わざわざそのために高いハードルを設定し、そこを越えてくる男が現れるのを待っていたりするものだ」ということが、昔から伝承されてきています。僕も先輩から教わりました。つまり、一見しただけて大丈夫か、大丈夫じゃないかって判断をするんではなく、押したり引いたりしながら試すしかないんですよ。

湯山 あと私がこの映画に感じたこととして、国家を越えて富裕層と貧困層がくっきりと区別されているんですよね。新自由主義というかさ。中国のインテリの描き方がすごく知的でおしゃれな一方、フランスのマチューを含む移民が住んでいる地域の描き方はすごくみすぼらしい。そこの差を、まぁ下品な言い方をすれば、チンチンの力だけで乗り越えられるのかと見ていった時に、結果としてマチューは負けるわけですよね。男のファンタジーを充実させるためには、愛情とセックスだけが凄いんだっていう貧しい男に花を持たせてもよかったじゃないですか。中国のインテリは見るからにセックスも弱そうな感じだし(笑)。でも結局、ホアは彼と結婚しちゃうんですよね。この辺について宮台さんどう思いました?

宮台 時間軸を考えると、この展開が自然なんです。僕の経験でも、女は多くの場合「卒業」していくんですね。だいたい2年ほど淫蕩な生活を送ると、気が済んでしまうんです。不思議なものです。

湯山 気が済むって(笑)

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『パリ、ただよう花』

(仏・中国/2011年/105分)
監督/ロウ・イエ 脚本/ロウ・イエ リウ・ジエ 配給・宣伝/アップリンク

公式サイト: http://www.uplink.co.jp/hana/




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