【対談】宮台真司 × 湯山玲子 ロウ・イエ監督作品『パリ、ただよう花』をめぐって 第二部

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宮台真司 × 湯山玲子
ロウ・イエ監督作品『パリ、ただよう花』をめぐって 第二部

文・写真/辻陽介


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miyadai1.jpg宮台 かつてと違い、多くの女がマスターベーションをします。彼女たちはたいていオカズ的な妄想を持っています。ただその妄想を現実化できないと思い込んでいます。ところが僕に言わせれば、実際は大体のことが実現できます。というか、実現できないことを見つけるのが難しい。複数の人を配役した演劇的プロセスを使ったりすれば、だいたい何でもできます。
 妄想の実現プロセスに入ると、彼女らは最初はノリノリ。でも、やりたかったことが十あったとして半分ほどやると「気が済む」ので、長くて2年で「卒業」し、大半がノーマルな人と結婚します。女は「気が済む」と結婚する。逆に、不全感がダラダラ続くから未婚ルーティン状態になり、女を〈物格化〉するマザコン男に入れ込むクソ恋愛から足抜けできません。
 主人公ホアのようにセックスの眩暈をある程度味わえば、人間は観念の動物だから、大体この世界は分かったという「一を聞いて十を知る」状態になり、結婚します。結婚後に身持ちが固い状態が続くかどうかは人それぞれ。ただ旧ナンパ師としては、身持ちが固いっていうのが実はよく分からない。と言うのも、本当に身持ちが固い女を僕は見たことがない(笑)。

湯山 私も見たことがない(笑)

宮台 そういうわけで、いずれにしてもホアの設定はかなりリアルだなという風に思いました。

湯山 一方のマチューに、私が女性としてちょっとクラっときたのは、「お前は俺の女だ」みたいな言い方をホアに対してするじゃないですか。ああいうのは私みたいな女にはまだ効くな、と思いましたね(笑)。まぁ世代的な刷り込みもあるんだろうけど、「それだけ私のことを愛してくれているんだ」みたいな、そのエネルギーに女っていうのはほだされる時があるよね。で、そうやってダメンズにハマっていっちゃうわけだけど、まぁマチューはダメンズだとしても真心を感じさせてくれるダメンズなんですね。ただ、こういうパッションが関係を作っていくみたいな感覚って、今の日本の若い人なんかは絶対に信じたくないところだろうね。

宮台 そう。中国のインテリとマチューという対比はすごく古典的だけど、今日ならではの意味もあります。それは僕がフーゾク取材を再開して感じたことに関係します。昔のフーゾクは射精産業、つまり勃起した男が抜きに行くのが風俗店でしたが、昨今のフーゾクは勃起産業、つまり萎えた男が勃起するために行く場所に変わりました。射精までは難しく、勃起すまでがやっと。セックスをしても中折れみたいなケースが多いですね。
 理由は明らかで、男が日常のフレームを変えられなくなったんです。日常のフレームとは〈通常意識状態〉のこと。それがフーゾクでも〈変成意識状態〉に切り替わらない。切り替わらないことには勃起できません。僕たちの社会が猥褻概念を持つのは、日常において勃起しなくて済むためで、猥褻を感じてようやく勃起するようになっています。そのためには〈通常意識状態〉から〈変成意識状態〉へとシフトしなければならないんですね。
 このシフトが瞬時に生じるようにするには、一定の育ち方やある種の訓練を経ることで、脳内回路の切替えがスムースになる必要があります。それができないと、人目が気になるとか、道徳が気になるとか、どうでもいいことが次から次へと頭の中に浮かび、〈あり得ないからこそあり得る〉はずなのに「あり得ないからあり得ない」で終わります。実に情けない。
 でもこれが今日的事態です。中国のインテリさんも、フランスのインテリさんもそうなっています。??と言うと、インテリじゃない人が安心しそうですが、とんでもない。インテリではない人、それこそ2ちゃん界隈にいるネトウヨなどにも、僕が知る限りはそうしたヘタレがワンサカいます。
 そうなってしまった理由は明らかです。ネット社会の到来で、見たいものだけを見るとか、知り合いたい人とだけ知り合うとかできるようになって、自意識のフレームを叩きつぶされる経験がないまま大人になった結果、ノイズにビクつく〈ヘタレな自己〉が温存されて、性愛のディープな部分に入るのに必要不可欠な〈変性意識状態〉が作れなくなっているんですね。

湯山 変成意識っていう言葉は難しい感じがするので卑近な言葉に言い換えると、ようするに「スイッチが入った瞬間」のことですよね。誰かと恋愛していて、ご飯を食べていたとして、その時にご飯からキスに、キスからその先にどうやって進んだんだろうって考えた時、昔はそこに文化的な合意があったような気がするんです。でも、今はそれがなくなっちゃった。私は60年生まれなんですけど、私の世代にとっては「横浜に彼氏と行く」ということが「その日にヤる」というのことを意味していて、それが共通の認識として確かにあったんです。横浜に遊びに行って終電がなくなっちゃった瞬間に、それこそ男子にスイッチが入り、そこからタクシーに乗ってホテルまで行くっていう流れがすごくスムーズにいったの。でもこの前たまたま若い人に話を聞いたら、終電がなくなったら漫画喫茶に行って『進撃の巨人』を二人で読むっていうんです。それは…、やっぱダメですよね。

宮台 僕の記憶では、その変化が起こったのが1990年から92年の間ですね。かつては「このあとウチくる?」って言った瞬間、全てが決まりました。いわば〈作法による負担免除〉。ところが、ちょうどそれぐらいの時期から作法が消えてきました。作法がないと、全てが自分の選択に帰属されて説明責任が問われちゃう。だから女の子の家に行っても何もしないことが多くなるんです。僕らが若い頃は何もしないことが説明責任を問われました。

yuyama.jpg湯山 私も今の学生から話を聞くとビックリしますよ。彼女の家に入れてもらったのに添い寝するだけとか、すごいですよね。なぜと聞けば、彼女に迫ったら「いや」って言われたから。これは暴力と性の問題だなと思いました。今回の映画では、襲う性というのがすごい剥き出しになってたじゃない? 襲われれば人は拒絶する。なぜか。そこに合意がないから。 ただ余りにも合意ということにこだわりすぎると、そもそもセックスが成立しなくなっちゃう。「君、今から僕とセックスするよね」と聞かれて「はい、します」と答えることが合意だとしたら、もうセックスの時に非日常のスイッチなんて入らないんだよね。そういう状況に今なってる気がする。いい社会になったけれど…、よくないっすよね(笑)。フェミニスト的には厄介なところなんだけど、襲う性の暴力性みたいなものをどこかで許しておかないと、セックスにおいて女の人があんまり楽しくないという(笑)。どっちがいいんだろうね?

宮台 それについてはね、僕は男が悪いという風には言いにくいんですよ。

湯山 なに、私が悪いのかい(笑)

宮台 いやいや(笑)。これは両方の問題だと思うんです。最近の僕は若いカップルに散歩を勧めます。昨今の若い人は性愛で〈変成意識状態〉に入りにくいと言いました。性愛の〈変性意識状態〉は、相互性が前提です。相手が〈委ね〉てくるので自分も〈委ね〉、それで相手が更に〈委ね〉てくるので??というプロセス。つまり、互いが呼吸を合わせ、二人で一つのオーラになっていくプロセスです。さて、そこで散歩です(笑)。
 いきなり二人で散歩をすると、最初は歩幅も歩速も合わず「いい感じ」じゃない。けれど長いこと散歩するうちにシンクロしてきて、それに合わせてフレームがほぐれて相互的な〈委ね〉が生じ、やがて同じものを同じように体験できる状態になります。
 これは演劇やライブに似ています。どちらにも前座があるでしょう。なぜ前座はあるのか。〈変成意識状態〉に入るために〈助走路〉が必要だからです。二人が世間的に知られた作法に従い始めるのも〈助走路〉を意味します。昨今の男女は〈助走路〉をうまく作れないんです。一言で理由を言えと言われれば、女がすぐSEXさせるから(笑)。
 1980年代には、女はすぐにSEXさせなかったんです。すぐSEXさせると、作法に従うのを含めて助走路を組織することについて関心を持てなくなり、訓練できなくなります。散歩をしてシンクロ率を高め、相互的〈委ね〉を経て、1つのオーラに2人が包まれるというのも、〈助走路〉です。
 若い人に聞かれる疑問があります。「1980年代には、女はすぐにSEXさせなかった」という命題と、「1980年代には、渋谷や新宿でもすぐに野外SEXができた」という命題が、矛盾しているんじゃないかと。少しも矛盾しません。もうお分かりでしょう。前者は「作法を踏まない限りはSEXできなかった」で、後者は「作法を踏めばすぐにSEXできた」です。

湯山 つまりデートカルチャーですよね。

宮台 そう。例えばドライブ。一緒に車に乗っていてオーラがシンクロしているときには、必ず互いがそれを感じています。互いが自己防衛をやめて〈委ね〉の相乗過程に入った瞬間には、互いがそれに気付きます。そうなったら最後、後は何が起こったって全てが自然なプロセスになります。〈委ね〉の相乗過程を踏まえることが、作法という〈助走路〉に相当します。
 更に言うと、仮にそうした〈シンクロ率が高い〉状態になったと思ってアプローチすると「無理、彼氏がいるから」って断られることがあります。昨今の若い人はそこで諦めて、添い寝になる(笑)。そうじゃないんです。女が「彼氏いるから」と言ったのがどうしてかを考えなきゃいけないんだ。
 彼氏がいるにもかかわらずがセックスをする場合、女には言い訳が必要です。ならば男はその言い訳を与えればいい。女にはいろんな言い訳の与えられ方があります。〈助走路〉段階で彼氏のSEXに対する不満を聞き出されたとか、今日起こったことは現実ではなかったことにしようと言われたとか、何もしないからホテルに入ろうと言われたとか(笑)。どれも女は「宮台がそう言ったから」と僕に個人帰属化して、自分を免罪できます。

湯山 結婚前のマリッジブルーみたいなものとも似ているところがあるよね。

宮台 そう。そして、男がマリッジブルーを拾ってあげないのが昨今です。僕は若い女から「あの男が言い訳を与えてくれさえしたら本当はSEXしたかったのに??」という科白を無数に聞いてきました。いずれにせよ、最近は相手のリアクションをリテラルに取ってしまう男が多いですね。本当は、何がその言葉を言わせてるのかというオーラに反応すべきなんですよ。
 具体的には、表情、視線、呼吸、姿勢、肌の色などの変化から判断するんです。僕はよく体温という言い方をします。相手の体温が上がり始めたこと。相手がもっと暖まりたいと思っていること。それを感じたら、それに合わせて暖かい〈ピンク色の風船〉の中に自分と相手を包み込みます。
 ことほどさように、相手のオーラは、知的な観察と判断というよりも、感覚を開くことによって伝わってくる情報です。そのように感覚を開いて体温を感じてあげれば、「この子が口で言っていることは言い訳が欲しいという要求だ」とすぐに分かります。それだけじゃなく、二人が一緒に〈ピンク色の風船〉に包まれたら、後は何をしても全てが自然になるんです。

湯山 なるほどね。私は仕事上で海外に行くことが多いからより感じることなんですけど、日本語って重いんですよね。いや、日本語が悪いというんじゃなく、自分が熟知している言語空間ゆえの重さってあるんですよね。例えば場面をSMプレイ中の男女として、私がM役をやるとした時に、日本語で私に指示をする男に対して、やっぱり「それってどうなのよ」って思っちゃう。「俺のことを主人と言え」なんて言われたら「ばかやろう」ってなっちゃうんだよね。それは熟知している言語空間ゆえなんですけど、逆にそれが英語っていう普段の半分も通じていない言語空間になった時には「punish me!」なんて言って燃えかねない(笑)。日本語だったら自意識が邪魔して言えないようなことも言えてしまうんです。文化から遊離するというか、つまり、エトランジェであるということ。たとえばホアにも、中国語をしゃべる文化からフランス語をしゃべる文化に入った時のある種の開放感っていうのが絶対にあって、大きくは最初から変成意識に入ってるんだよね。

宮台 エトランジェのアバンチュールっていうのは、昔から恋愛文学の基本ですよね。1990年代までの話だけど、僕は、日本社会学会大会で地方に行くと、初日の午前中だけは学会に出るけれど、その日の午後と二日目はほとんどナンパをして過ごしていました。

湯山 知らない土地に行ってっていうね。

宮台 そう。知らない土地だからできるという部分と、知らない土地だから知りたいという部分がありました。前者については、「東京から来たんだ」とエトランジェである事実を伝えれば、後腐れがないというのもあり、相手はいつもより〈変成意識状態〉にたやすく入れるようになります。その場合、遠くから来ているほど良い。隣町は基本無理。隣の県もかなり無理。ただし「東京から来た」は大阪でだけは通用しないんですけど(笑)。

湯山 銀座に各県出身の子が在籍しているっていう「白いばら」ってキャバレーがあるじゃないですか。私自身、青森弁をしゃべる男の子と話した時に思ったんだけど、やっぱり方言っていいんですよね。

宮台 そう。それが後者つまり「知らない土地だから知りたい」に関係します。僕がもっとも尊敬するナンパカメラマンに福永ケージという方がいます。もともとはアイドル写真家でしたが、やがて彼はそれがつまらないと感じるようになって、街頭で素人の子を撮るようになった。なぜか。


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『パリ、ただよう花』

(仏・中国/2011年/105分)
監督/ロウ・イエ 脚本/ロウ・イエ リウ・ジエ 配給・宣伝/アップリンク

公式サイト: http://www.uplink.co.jp/hana/




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