コイトゥス再考 菊地成孔

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コイトゥス再考 #05

菊地成孔 「魔術・フェティ・性愛」

文/辻陽介 写真/チェリー平尾




菊地成孔の性愛論がいかなるものか、純粋に興味があった。

ご存知、反骨のジャズメン、また闘争する文筆家として、ゼロ年代の寵児となった自称「20世紀人」。「カッコつけるな」、「あるがままこそ素晴らしい」といった脱バブル的で素朴な倫理に育てられた筆者のような世代の男子に、「カッコつける」ことは「カッコいいのだ」ということを極めてシンプルかつ実践的に教えてくれたのがこの人である。

その佇まい、芳香、あるいはペダンティックな饒舌も含め、彼を構成する全てのイメージにはある種の“優雅”がある。時にその有無を言わせぬ「カッコよさ」ゆえ、イケ好かない俗物と評されることもあろうが、彼の内においてはきっと俗と聖が矛盾なく混在しているのであって、言うなれば菊地成孔とは聖性を孕んだスノッブであり、即ちそれこそ“優雅”であるということなのだ。

さて、当世きってのダンディーはエロスになにを語るか。キーワードは「多形倒錯」と「魔術」。言の葉のインプロビゼーション、饒舌の優雅を、たっぷりとご堪能あれ。




(2011年3月下旬・ポスト震災の新大久保にて)


ーさていきなりですが、菊地さんは「エロ」と聞いてまず何を思い浮かべます?

菊地 んー…、パッと思いつくものといえば花ですかね。

ーそれはどういう意味で?

菊地 果物なども含めた植物一般という意味においてですが。ただ漠然と植物はかなりエロいんじゃないかと(笑)

ー(笑)

菊地 花といっても「一輪の」とかじゃなく、スゴい花ね。もうブワっと、楽屋花みたいな、ああいう花ですよ。あと熱帯の植物なんかは見るからにエロいですよね。

ーそれこそ、以前開花が話題になっていたスマトラオオコンニャクのような?

菊地 そうそう、ああいう悪臭のする花とか。

ーなるほど。

菊地 僕が演奏しているサックスフォンという楽器も、知らない人は知らないんだけど、あれ大抵ボディに刺青が彫ってるんですよ。すっぴんぴんというのは余りない。で、ほとんど彫ってあるのが植物の絵柄なんですよね。僕は専門ではないですが、外国の筆記体なんかも文字と植物の中間のような形状だったりするじゃないですか。植物には何か強いものを感じますね。

ー植物とは意表をつかれました(笑)。では早速本題に入っていきたいのですが、本欄はエロスの再考をテーマに掲げていまして、というのも現代、ことにここ10年間くらいにおいて性愛やジェンダーの在り方が、急速に変化していっているように思うんです。たとえばジェンダーについて言うなら「男らしさ」や「女らしさ」といったある種自明とされてきたもの、無意識にロールプレイされてきたようなものが壊れつつある気がするんですね。

菊地 客観化されたからですよね。

ーはい。まぁ、そのような状況の中で性愛の在り方も多様化し、また一方、どうやら元気もなくなってきている気がする。菊地さんは現在のジェンダーや性愛の在り方についてどのような印象を持たれてます?

菊地 そうですね…、身近なことから言えば、僕の表現はは音楽と文筆と、あと現在は先生業もやっているんで教育という側面もあるんですが、基本的には聴衆なり読者にランキングをつける発想は問題ありだと思っていて、音楽に対するリテラシー、文学に対するリテラシーはフリーダムだ、と考えているんですが、これはある種の倫理的なことであって、実際の皮膚感覚でいえば、性的な越境者ですよね。常に意識してます。もっというと僕は自分の音楽をレズビアンの人に聞いてもらいたいんです。

―レズビアンですか?

菊地 レズビアンの人に聞いてもらうということは、つまりレズビアンの人達が市場に可視化する、レズビアンだということが分かる状態で、クラブに来てほしいということなんですが、今はまだビハインドされていて、男性のホモセクシャルに較べると可視化されていないですよね。僕はいまレズビアンの人達に非常に期待しているんですが、それは彼女達がもつ地下化せざるを得ない力というか、それは美を愛でる能力にも繋がるのですが、それが僕が表現するものと繋がって欲しいんですよ。

クリエイターというのは誰に対して球を投げているというのが明確にあるわけではないんですけど、とはいえ、もうちょっとクリエイターとして受け手を意識するのであれば、特に美を愛でる必要がある人、それから差別を撤廃する必要がある人達に対して球を投げたいっていうのがありますね。

ーなるほど。確かにおねえ系の台頭などゲイが日向に出てきている一方でレズビアンはまだ日陰といった印象があります。

菊地 僕自身のセクシュアリティは俗に言うストレートなんですが、僕はなるべく音楽をやる上で、もちろん文筆の上でもそうですが、幼児的な多形倒錯でいたいと考えているんです。つまり、さっき仰ったようにセクシュアリズムみたいなものが今あまり元気がないと仮定するなら、それは多分、ある種、魔術みたいなものだった、つまりメルティングポットの中で未分化でドロドロしていた性というものが、フェティシズムというアーカイヴと、家族愛という全く性愛とは異なる一つの純愛みたいなものに、明確に分かれてしまったためだと思うんですよ。

ーなるほど。

菊地 これら、つまり純愛と性愛、フェティシズムといったものが未分化にグジャグジャに混じっていたもんじゃ焼きみたいな状態っていうのが歴史的には長くて、ほとんど20世紀の中盤ぐらいまではそうであったわけですが、段々と分化され、更にはインターネットの台頭によってその分化が一挙に加速し、また情報が爆発的に増えたわけですよね。共有アーカイヴが拡充して、今ではフェティシズムが選び放題、少なくとも視聴覚レベルではそうなったわけです。

一方、それとは別に、家族愛、あるいは友愛のようなものが科学的にきれいに分離したかのようにあるわけですよね。それは一種の科学主義であって、人類が大挙して向かっていった方向でもあるわけですよ。ヨーロッパは魔術の領域を科学と芸術に分離した。それによってキリスト教はどんどん力を失っていったわけですが、性にもまったく同じ事が言えて、これだけ分離したらパワーダウンするのは当然で、少なくとも変質は免れないわけです。

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