コイトゥス再考 菊地成孔 2

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―菊地さん個人としてはいかがですか?

菊地 僕は性的にはストレートですが、フェティシストではあるんです。幾つかの性的フェティッシュがある。95年にwindows95が誕生して、一般レベルにインターネットが一気に普及したんですが、僕は購入が少し遅れて97年にネットを始めたんですね。まずパソコンを開いて何を検索したか…、まぁこれはよく言われることですが、VHSのケーブルデッキがはやったのはAVみるためだ、とか言うじゃないですか、まぁ僕も飢えた犬が骨をむしゃぶるように自分のフェティッシュを検索したわけですよね。

これは共有している人がいるはずだからと、世界中のネットを探しましたね。で、僅か数ヶ月で同好の人達が日本にいると分かったんです。当時はオフ会なんて言ったんですが、直接会ったりもして、皆が小さい頃からあたかも隠れキリシタンのように収集してきた、そのフェティッシュに関するコレクションを披露しあったわけですよ。

―それまで孤立していたフェティシストたちが一挙に繋がったわけですね。

菊地 まぁフェティッシュと一言には言っても、メジャーなものマイナーなものあるじゃないですか。でも、最近では僕の見る限り、それらが全てフラットになっている。鞭を打ったり、ヒールで踏んづけられたりといった古典的なものから、でっかいアメ車を掃除している女の子が好きだという、相当新しいものまで全部がフラットなんですよね。ある意味、それは素晴らしい。差別がないですから。フェティシストが差別したら終りですからね。ある意味では被差別を目的化しているとも言えますけど。つまりフェティッシュというのが一種のリパブリックみたいなものになっているんです。古典的なフェチから、きわきわの園児的な新生フェチまでインターネットの中ではみな同じと、そういう風になってきていて、キャッシュカードさえあれば、そういうものが買えるし、あるいは見れるという世の中になりましたよね。

97年当時は僕のフェティッシュは余りメジャーではなかったですけど、もの凄いパワーがありましたよ。自宅に集まってお宝を披露しあったりしてね…、ただあっという間にこの人達も四散してしまった。統一的なフェチサイトができて、皆がその自分のコレクションをアップするようになってきたんですね。これはもう一種の宿命ですよね。これはフェチに限らずあらゆる価値がネット上ではそのコースを辿るわけですが…、結果的に待ってるものは「シラケ」なんですよね(笑)

―パワーダウンですね(笑)

菊地 そうですね。

―菊地さんはネットと出会ったのは97年ですから、つまりフェティシズムが形成されていくであろう多感な時期においては周囲にネット環境などなかったわけですよね。

菊地 もちろん。

ーところが今の若い世代というのは、かなり早い段階でネットに触れ、あらゆるフェティッシュのアーカイヴを目の当たりにしているわけですよね…。こうなるとフェティシズム自体が非常に形成されづらくなっていく気がするんですが…。

菊地 青田刈りですよね。よく分かります。旧来的なフェティシズムの分類はもう無効になっちゃってると思いますよ。つまり、誰も理解者がいない天涯孤独のような状況の中から自分が異質だということに気付き、そのフェティッシュに没頭していくという過程は、もう失われてしまっていますよね。もはや全てが「ここから選んでください」という形になってる。

ただこれは音楽家の直感にすぎませんが、フェティシズムは人間からは無くならないと思うんですよね。我々は多形倒錯的に生まれ、その後、大人になり具体的に性行為をしてもフェティッシュが残る、フロイト的に言えばさらにそこも越えて、通過儀礼を越えてトラウマが焼却され、フェティッシュはなくなる、という一連の流れがあるわけです。フェティッシュが無くなった人間が具体的にどういうものなのか、それを提示せぬままフロイトは研究を終えましたけれども、要するに経済の発達段階のようなものが人間心理の発達段階としてあると言われているんですよね。僕は、現代においてもその過程はやはり踏むと思うんですよ。どんなことになっても卵巣に精子が着床し、細胞が分裂して人間ができるというのが変わらないように、人間心理の発達もその段階は踏んでいくんだと思う。ただかなり壊れてきていることも確かで、変な発達、というか、旧来的でない発達のしかたをしている、ニュータイプであるというのは確かなんだと思います。

DSC_0021.jpg―フェチの在り方が変化している、と?

菊地 例えば僕が「これは異様だな」と思うのは、いわゆるジャパンクールと呼ばれているものに正面から衝突した時ですよね。要はテレビを何気なくつけていて適当にチャンネルをザッピングしていたらアニメばかりやっている、と。もう全く分からないわけですよ。ストーリーも分からないし、どこがどう良くて、全く理解できないんだけど、ハッキリ分かるのは「これはフェティッシュだろう」ということですよね(笑)

ー確かに(笑)

菊地 まぁ、つまり「萌え」ということですが(笑)。単純に自分はそこには萌えないわけで。まったく新しい萌えの形、フェティッシュの形が追求されている、それも貪欲にね。そういう形はあるので、前世代のフェティッシュみたいなものではなくなっただけで、やはりフェティッシュではあるんだと漠然と思ってますね。

ただ、慶応大学で2008年に講義をしたんですが、その時に20世紀的なフェティッシュ、写真論とエロティシズムをやっておられる芸大の伊藤先生と、あと「萌え学」というのをやっておられる黒瀬くんみたいな若い学者と一緒に会って話をしたんですけど、結果としては非常にシンプルなところに落ち着くんですよ。つまり単純にジェネレーションギャップというかね、「萌え」の説明を僕ら聞くんだけど、やっぱ分からないんです。翻訳しようとはするんですが、いかに理解を試みても「それは違うんだ、菊地さん」と言われてしまう。「独立してるんです」と。世代的にはわずか一幕の差ですよね。ただ、この一線の違いで理解が出来ない。

―理解しがたいのがフェティッシュとも言えますしね。

菊地 ただ僕はカルチャーギャップっていうのは基本的に必要だと思っているんですよ。このギャップが無くなってしまっているような状態というのが一番危険というかね、例えばお父さんも息子も同じゲームをして遊んでいて、同じグラビアアイドルを追っかけている、全くジェネレーションギャップがない状態、これは非常に危険ですよ。子供が子供として危機に瀕した時に親父が越境して助けるということができませんから。並列ですからね。すると子供の救済の場所がなくなる。

僕はね、これ凄い良くないことだと思ってるんですよ。親父が食ってるものや飲んでるものが子供には分からない、一方、子供が読んでるもんや見てるもんは親父には分からない、この断層の存在が、どちらかが危機に瀕した時に、未知の領域から助けることを可能にしているんだと思ってて、それがない、つまり完全にフラットな状態においては、息子が危機に瀕しているというのは、取りも直さず親父も危機に瀕しているということになってしまう。それが昨今、まぁ今言う昨今というのは震災前までの話になってしまいますが、家庭内で家族が殺し合うといった状況を生んでいたんだと思います。

―一種の自家中毒のような…。

菊地 あの中では多形倒錯の行き場も性衝動の行き場も失っていますから、その子たちが親を殺していく、あるいは逆のパターンが頻発していった。他人殺しよりも家族殺しの方が数が増えたというのが2007年なんです。だから我々は「萌え」のことが分からないまま、20世紀を抱えて死んでいきます、これでいいと(笑)。まぁ分からないながらも、そのパワーは伝わってきますし、全く1ミリも分からないわけではないですから。重要なエッセンスが分からないだけで。

ただ一方で16、7の子供達に接する機会なんかをもつと、彼らのリビドーがとても変質しているということにも気付くわけで。僕らが同世代で話すと、たとえば草食系男子なんていないよって口を揃えて言うわけですよ。あんなの格好つけてるだけか、臆病なだけだよってね。だが、実際にいるんです。「一生いいです、セックスは」って18、9で思っているような学生というのが。これが若気の至りからくるポージングというより、どっか本当に去勢されてしまっているんです、社会的にね。一方、彼らはとんでもない何かを抱えてるんですよね、エロゲーとか(笑)。そういうものを見るとエッジはあるなと思いますよ。確かにギョッとするようなことも起こります。例えば女装。僕らが思っている女装とは全く違った意味で女装が行われ始めているわけですよね。男の子が女のアニメキャラの格好をするというのは、もう旧来的な女装とは全くもって異なるわけですから、ディスガイスや異装というのではなく、ただチョイスしたんだと。ABCDみたいな項目がすでにあって、それを選んでいくわけですよね。

ーデータベース型というやつですね。

菊地 まぁ、それで何が失われるかといえば、ほとんど背徳性のみなんですけど。市民権を局所的にとっていき、これが既得権益になり、たちまち局所的であったはずの市民権が全面に敷衍し、「もう当然でしょ」というノリになって、背徳が失われる。秘密も消えていく。まぁここでもパワーダウンですよね。

これはフェティッシュであったり、ジェンダーマイノリティなどについても言える事かもしれませんが、ある種の差別はあった方がいいと思うんですよ。屈折した言い方ですが。完全に差別のない世界というのがあったとして、それはつまり差別を撤廃する力もない世界ということですから、それは非常にスタティックであって、ダイナミックではないと思うんですよね。

―ゆえにレズビアンなわけですね。いまだに地下的で被差別的な存在として。


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菊地 例えばアメリカの文化というのはとにかく差別する側と差別される側の戦いというのがエンターテイメントの中に必ず要素として入っていて、これがアメリカという国を駆動する希望にもなっているわけですよ。同じ有色人種のなかにもアフロアメリカンとヒスパニックがいて、いわゆる階級闘争が常にあったわけですよね。これがアメリカの美とカルチャーを駆動していると僕は思ってるんです。

常に被差別的である人たち、この人たちが心折れてしまったらもうドン詰まりで、もはや美の発生する余地は無くなり、我々音楽家や文筆家が共闘できる余白は全くなくなってしまうわけです。ただ彼女達、あるいは彼らが、自分達独自の美というものに誇りをもって何か動きを示す時に、僕個人のちんまりとした性的嗜好はヘテロではあるものの、僕の職業である音楽は響きをつくり美を共有して高め合うって作業の中で、他者との関わりあいができるわけですから。そのときに、安定した無難な状態の、いわゆるマジョリティにも、もちろん球は勝手に流れてはいくんですが、そこにしか投げないっていうようなことはしてないつもりです。

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