コイトゥス再考 菊地成孔 3

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ーただ日本は差別が生じにくい土壌でもあるような気がします。ボンヤリとし過ぎていて、明確なアンチが生まれづらい。そうなると弁証法が機能しないわけで。そういう意味ではアメリカ的なモデルは日本においてはあまり機能しないのかなという気もするんですが。

菊地 日本のダイナミズムは柔構造であらゆる人から肝の力を奪っちゃう、フンニャリさせてしまうというのは、これは古典的な話題でもあって、確かにその通りだと思います。ジャズなんて本来はもっと差別されたい音楽なんですよ。しかし今は「ジャズやってます」なんて言うと、聞いてもいないのに「いいですね、大人の音楽ですね」なんて言われる(笑)。漠然と尊敬されちゃうんですよ。そうなるとフンニャリしちゃって戦う相手もいないっていうね。だから仮想敵みたいなものを自分のファンタジーの中に作っていかないとポリティックには叩けない。誰も差別してくれないし…。

ただ、嫌悪感、いわゆる「キモい」っていう感覚はある。例えば昔はゲイの人は気持ち悪かった、少なくとも「キモい」と言われていたわけで。しかし今はもう素敵ですよね。とても美しい。ただ、まだレズビアンには微かなキモさがあるんですよ。これが社会性の無さに繋がっている。キモがデオドラントされてしまうと、美しい存在になってゆく代わりに、もうダイナミズムがなくなってしまうんですが、これは全てにおいて一緒。これを栄転と見るか、カルチャーの死と見るかは解釈する人次第ですけど。日本が最初からある種のマイノリティーを腰砕けにしてしまうという力は本当にあると思います。

―確かに激しい差別はなくても「キモい」はありますね。ちなみに、マイノリティーに向けて球を投げるということにおいて、なにか方法論のようなものがあるんですか?

菊地 クリエイター自身がゲイ、レズビアンであればシンプルなんです。ツーツーでやっていけるわけですから。ただ、そうじゃない場合、全く部外者の人間がどうやって接していくかっていう時に、僕がとってる体勢というのは、一種の幼児退行を起こして、多形倒錯に返る。もはやフェティッシュだとかなんとかが分からないような状態に戻ることですね。

適度な退行ばかりが今は愛でられているんですよね。小学生に戻るとか、中二から先へいかないみたいな…、そういうことではなくて、いっそのことオシッコ漏らしちゃってウンコも漏らしちゃって、誰もが完全な変態であった多形倒錯の幼児状態に戻り、そこで物を創る、と。それは幼稚なものを創るというのではないです。僕が創るものはかなり手が込んでますし、一般的にはスタイリッシュと思われるような部類に入ってますから(笑)

ーある種のカオスに意識を置くということですか?

菊地 そうですね。そこは自然と心掛けてます。僕の音楽のどこが優れてる、どこが劣ってるとかは自分では分からないですが、マーケットから返って来ることとしては、まず年齢と性差を問わないんですよ。服装などと同じで音楽にも、男向け、女向け、若年向け、壮年向け、健全な人向け、病んでる人向けみたいな感じに、大抵の商業芸術は分かれているんですよね。ただ僕の音楽は重度の精神障害の人からも中流家庭の健全な人妻からもそれなりに支持されてますし、三世代またいで、中学生のファンが同世代のお父さんとその上のお婆さんを連れてコンサートに来たりしてますから。まぁ逆にいうとこれはターゲットを整理できていないとも言えるんですが(笑)。

ただ、ブン撒いちゃっているということの可能性にはあらゆる被差別の人も含まれているという部分があるんですね。もちろんゲイ狙い、レズ狙いというのもやったらやったでそこそこ面白いんですが…、音楽史を遡れば、そもそもディスコミュージックなんてゲイクラブから出てきたものなわけです。パラダイスガレージからね。

―多形であるゆえに対象を限定せずにいられるということですね。

菊地 まぁ僕自身がゲイでもレズビアンでも危険なド変態でもないわけですからね。20世紀的にはそうなったら終りだと、クリエーターはゴリゴリのド変態で、バイセクシュアルでフェティシストだからやれるといったような不文律があり、ジャズメンなんかでも多く、例えばデューク・エリントンのような王様みたいな人がバイセクシャルで、作曲している傍らには常に落ち穂さんみたいな少年がいたなんてことが後々明らかになっているわけですが。

でも僕は21世紀のクリエイターの在り方…、なんて言ったら仰々しいですけど、僕の私生活の在り方っていうのは言っちゃえば大したことないわけで。若い頃は大変な経験則、悔い改めて尼寺に入ろうってくらい無茶苦茶しましたけど(笑)。今は物を創る時においてのみ、その頃に戻るというのが僕のクリエイティヴィティーを支えているんですよね。僕がもっとお金持っちゃって、性的にもバリバリでね、自分のフェティッシュを実現化するために大枚はたいて、やっちゃったとして。さらにその日々の中で物も創ると。これは非常に20世紀的なんですよね、バタイユ然り、マイケルジャクソン然り(笑)。ただそうじゃないけど創れるという可能性を探求し実践しているというのが最も図式的かもしれませんね。

ーフロイト的に言うなら「昇華」のようなもの?

菊地 昇華だと思いますよ。97年からインターネットと接続することで急激に自分のフェティシズムが実現可能なものとなり、また00年代以降、自分の収入も増える事で単純に資本を投下できるようになるとますますやるようになったんですね。文字通り、寝食も忘れ変態ライフに没頭していく。でも、根絶はしないにせよ、それにも一通り飽きちゃうと…、まぁ最近では、フェティッシュサイトもズらっと並んでるし、まぁ涸れていくわけで、そうなって始めにイマジネーションすることは加齢ですよね、衰えたんだと。ただ、いわゆるフロイトでいうリビドー、実在するエネルギーみたいなものが涸れてきたんだとはどうしても思えなかったんですね。なぜかというと猛り狂うほどに、作曲したい、演奏したいという欲望があるんですよ。熱が下がらない、それこそ原子炉のように(笑)

―それは凄いです(笑)

菊地 さらに演奏したり文章を書いている時に、明らかに一種の性的興奮、多形倒錯的な歓びを感じているのを自分でもはっきり意識しているんですよ。同時にお客様もそうなってるって分かってましたし。これはちょっとイイ男がスムースジャズみたいにね、ヘテロセクシュアルでいい感じの演奏をして女性客が濡れたとかそういう意味とはまったく違う。何かが変わったんだと思うんです。加齢によってエネルギーが減退したというのではなく…。だから、ある種、フェティッシュであり、ただエロいという時代は僕の中では終っているんです。社会的な表現としては魔術だと思うんですよね

DSC_0037.jpg―魔術としての音楽ですね。

菊地 そうです。音楽っていうのは視覚芸術とは違い、絶対的な抽象性というのがあって。エロい響きって言ったってね、ノイズがもの凄くエロく聞こえる人もいれば、モーツァルトにエロを感じる人もいるんですよ。音楽には記号的な関数性がない。多変性がある。その可能性を信じてますね。一度、僕がエッセイの中に自分のフェティッシュを“込めた”ことがあるんですね。すると暗合を解読したかのように同種の人達が喜んでわーっとくるんですよ。でもそれはインターネットで検索して集まればいい。だが、音楽の場合はこの響きに対して誰がどう興奮してくれるのかが分からない。前近代的であって、魔術的なんですよね。

ーエロやフェティシズムがネット上であまねく視覚化、記号化されつつあるなか、それを拒絶するアナログの強度が音楽にはある、と。

菊地 僕のイメージだと記号のやり取りをずっとやっていると、そこには鬱が待ってると思うんですよ。つまりマニアックな情報を「こうでしょ、こうでしょ」と交換していった果てに待っているものは虚無だと思うんです。僕はそこを避けるためにもあえて魔術の状態に身を晒す。記号のやり取りを90年代にやっていた人達っていうのは僕の知っている限りでは現在、大抵が燃えつきて鬱になっている。よく音楽は言葉を越えるなんて言うけれど、確かに僕らもスワヒリ語なんて全く分からなくてもアフリカの部族の音楽を聞いたりする。ああいう越境性を信じています。インターネットがなかったら、それこそ僕も団鬼六みたいな形で老いたフェティシストとして生きていったのかもしれませんけど(笑)

ー老いたフェティシストではなく、老いた魔術師へと(笑)。「多形倒錯」というのは今後のエロや社会を考える上でも非常に重要な要素である気がします。では最後の質問、締め括りになりますが、菊地さんにとって、つまるところエロスとはどういうものでしょう?

菊地 んー…、やはり「花」ですかね。あれは五感全部を刺激するんですよ。視聴覚、味覚、触覚、嗅覚を全て刺激するし、花って言葉は色々なことを象徴しているんです。善とも限らない。悪の花もあるんです。とても可憐な状態も表しますし、一方ではとんでもなくグロテスクであったりもするわけで…。つまり花は多形倒錯なんですよ。植物に対する恐怖症なんてのも存在するわけですから。漠然とですが、僕はエロを象徴するものは花だと思ってますね。

―エロスとは花である…。素晴らしい締めくくりです。今日は本当にありがとうございました。



菊地成孔(きくちなるよし)


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