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文=荒玉みちお
写真=石島祐士

故・長田英吉の魂を引き継ぐ
長田一美が語った
「長田流」真実の4000語


 SM関係の取材をしていて、よく聞くのが長田英吉という名前だ。新世代のSM愛好家にとってはなじみの薄い名前かもしれないが、いわゆるSM第1世代の人で、かなり早くにSMという密室劇を、ショーという形でオモテに出した人物のひとりである。サイト「SM塾オサダゼミナール」の「長田英吉辞典」から経歴を抜粋してみよう。


〈1925年生まれ。本業の印刷業を営みつつ1965年、SMの会員組織「オサダ・ゼミナール」を設立。偏見の目で見られがちなSMをパブリックなものにし、その舞台はパントマイムなどを取り入れた画期的なものと評価され各地で大きな反響をう呼んだ―〉


 長田一美さんは、故・長田英吉氏の名前を継承した人物で、今の「オサダ・ゼミナール」主催者である。この取材はそんな緊縛師・長田一美さん自身の取材はもちろんだが、伝説の緊縛師・長田英吉氏についてのエピソードも聞ければいい、との編集部の思惑もあった。しかし、それはある意味、あっさりと崩れた。

「私ね、先生の一番いいときを知らないんです。初めて会ったのは亡くなる15年くらい前。そのときすでに先生はお爺ちゃんだったから」


 長田氏が60歳を過ぎた頃に出会った。一美さんは残念がるわけでもなく淡々と語る。こういう世界の徒弟制度って、もっと熱いモノというイメージがあるが、少なくとも彼女はそんな空気は漂わせない。



―もともと、一美さんはSM雑誌のライターだったとか?


「そういう繋がりといえばそうだけど、だからといって会ったわけじゃないのよ。最初に先生のショーを見たのは浅草のフランス座。こういうのは普通の女の子では見られない。それを密かに、会員さんに紹介してもらって照明室から見てた」


―長田さんに興味を持っていたから見に行ったんですよね?


「そうそう。でもSMショーにしてはたいしたことないと言われたんだけど。パートナーに併せなきゃいけないからって。ショーの前に、先生とその紹介してくれた会員さんとお茶飲んでたんです。先生の場合は女の子に会わせちゃうから、女の子がハードなことは出来ないと言うと引いちゃうんですよね」


―そのショーを見たのが急接近のきっかけだったんですか?


 スタッフのそんな質問に対して、ストレートではなく、カーブな答えが返ってきた。


「結局は先生が倒れちゃって。本当はその頃、ごくたまに会って縛ってもらってたんです。だけどまた会おうかと言った日、音信不通になっちゃって。その頃、若松劇場(千葉・船橋にあるストリップ劇場)の社長だったんだけど、脳溢血でね」


 取材陣としては彼女を「長田英吉の正統な後継者」という先入観を持っている。だから、それ相応の“偉そうな発言”を期待しているんだけど、そういう展開にはならない。彼女にとって、先生はいつまでも自分の中で先生なのかもしれない。伝説の緊縛師の後継者というよりも、むしろM女としての立場を隠さない雰囲気さえある。


「あのときは、復帰するとは思っていなかった。うちのお婆ちゃんが脳溢血で倒れて1ヶ月くらいで死んじゃったんでね。当時は救命率は低かったと思うんですよ。だから先生も亡くなっちゃうんだろうなって思ってたんです。あれで死んじゃってたら私は今こんなことしてないと思うんだけどなぁ」


 淡々と語る後継者。その入院がきっかけで二人の関係が新たな方向へ進んだのだろう。


「先生はオモテ社会での顔も持ってたから、あんまりお見舞いの人も来てなかったです。だじゃらせねて私ぐらい行こうかと、その程度の理由で通ってただけなんですけどね。そのときにいろいろ話をして…」


 縛りの話、ショーの話で盛り上がった。長田氏は入院中から縛りに執念を燃やしていたという。


「コンビニ袋の中にロープを入れて外出しては看護婦さんに怒られてましたよ。船橋の駅前まで普通に歩けば10分くらいかかるのを1時間くらいかかったとか言って。それがリハビリになったのかもしれないけど退院してからは、もうふにゃふにゃして、あんまり縛れなかったんですよ。縄もふにゃふにゃで。倒れる前を知ってるから、倒れたあとは全然だなと…。でも先生は先生なりに頑張ってましたけど」


 その後、入退院を繰り返しながらも長田氏は舞台に立った。しかし、そんな状態だったから、その後の評価は芳しくなかった。


「先生の歴史って調べれば調べるほど凄いんですけどね。でもなんか、世間の評価が低いんですよね」


 他人事のように呟く後継者。


「縄にしてもそう。先生は自分で染めた紅い綿ロープを好んで使っていたんです。それはショーを意識したものでもあるんだろうけど、綿ロープはそれはそれで心地いいんです」


 実際に縛られてた人が言うのだから間違いない。


「でも今の人たちって“緊縛は麻縄だ”ってメディアに擦り込まれてるでしょう。綿ロープは危険だって。でもそれは材質選びが間違ってるからなんですよ。そういうこと言う人は、伸びない綿ロープを知らなかったんでしょう」


 長田英吉SMショーは、大衆演劇の延長線上にあった。ストリップ劇場が本番マナ板ショーに圧巻される以前、長田氏のショーが興行の看板を背負っている時期もあった。当時の写真を見せてもらったが、ダンディな長田氏と緊縛されたモデルがいて、背景には「怪奇」「日本一!」などといった惹句が、派手に並んでいる。その光景は、どこか江戸川乱歩の世界に通じるものがある。昭和の怪しい見せ物小屋的な空気だ。


「子供の頃から芸事に馴染んでいたらしく、趣味は歌舞伎鑑賞、芝居見物。ショーには日本舞踊、剣道、何でも取り入れてました。手品も好きだったんです。縛り方でも、ここを1本抜けば、はらりと全部が落ちて“おー”と歓声が沸くような縛りを編み出したりして」


 もしも全盛期直後に一線から退いて隠居していたら、伝説はさらに輝きを増していたかもしれない。けれども職人は、死ぬまで現役にこだわる。80年代前半、女のヌード以上の観客動員力を誇っていた「長田英吉ショー」は衰退していき、最後の舞台は、今このインタビュー場所でのことだったという。ここは、今の「オサダゼミナール」の本拠地で、池袋の町外れにある小さなワンルームマンションの一室である。


「お子ちゃま的なところがありましたからね。俺はこんなところでやるのはイヤだとか、ダダをこねたこともありましたけど。それで1月のショーで倒れて、それっきりです」


 またサイト「長田英吉辞典」(制作/長田一美)から抜粋。長い長い年表のラスト数行である。


〈2001年1月13日(土) ショーの途中で平衡感覚がおかしくなりながらも支えてもらいながら最後までやり続けた。ショーとしてはダメだったが長田先生のショーにかける情熱を感じた舞台だった〉

〈2001年1月20日(土) 言葉が不明瞭にしか話せなくなっていたけど、自分の会だからとスタジオに来ていた。血液の流れ次第で調子が変わる。先週の反省からか「みっともないから」とショーを他の人に任せると言ってそばで見てた。けど、じっとしていられなくなってラストシーンだけ出演〉

〈2001年1月20日の22時頃、小澤一美(長田一美)がタクシーで玄関まで送りドアを開けたところまで見届けたが、長田先生は朝発見されるまで玄関で倒れてたという〉

〈2001年1月21日入院、9月12日、没。入院中、何度も抜け出そうとしたという。ショーをやるんだという思いで、スタジオに向かおうとしてたという。ショーをやることは長田先生の人生の全てだった〉


 最後の入院先は家族のガードが堅く、裏(SM)の繋がりの人々には知らされなかったという。


 一美さん自身は、当然のように小さい頃からSM嗜好があった。けれどもそれはM女としての嗜好であり、緊縛師になろうなどとは微塵も思っていなかった。今でもそうなのかもしれない。―長田英吉の名を汚すことだけは許さない― その執念だけで緊縛師として舞台に立っている節がある。


「先生がダメになってからは、ここ(ゼミナール)にモデルさんを口説く目的で来るような会員もいて。先生の評判が落ちるのはイヤだったから、誰かがちゃんとしなきゃいけない。じゃ私がやろうかなって」


 過去5年、定期的にショーをやってきたが、今また新たな気持ちで緊縛ショーに取り組み始めたという。


「茫然自失でずっと来てたので、なんか、取り返さなきゃってね」


 後継者・長田一美の新しいページが始まるのだろうか。




PROFILE
長田英吉(おさだえいきち)
栃木県出身。1925年3月15日生まれ。O型。学生時代からのSM愛好家。1965年SM会員組織「オサダ・ゼミナール」を設立。1980年に劇場進出。縛りのスピードと、江戸川乱歩のおどろおどろしい世界観に通じるような独特のショーから「神様」の異名を持った。2001年9月12日、永眠。

長田一美(おさだかずみ)
2001年6月に「長田」を襲名。故・長田英吉のパフォーマンス魂を自らのショーや「SM塾オサダ・ゼミナール」で今に伝える。数少ない女性緊縛師のひとり。