伏見憲明 ?コイトゥス再考? 越えがたきジェンダーという背理

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コイトゥス再考 #20

伏見憲明

越えがたきジェンダーという背理 

取材・文/辻陽介


―政治的な正しさの追求が必ずしも快の増大に帰結するとは限らない―

91年出版の『プライベート・ゲイ・ライフ』において、伏見氏がいみじくも指摘した背理。一人のゲイとして、ジェンダーに敏感に生きてきたであろう伏見氏ゆえの卓見は、しかし、その後もジェンダー論のアポリアとして、越えがたき壁となっている。

欲望の肯定が同時に差別の肯定であり、差別の否定が同時に欲望の否定であるのだとして、ならば我々がとりうる、またとるべき選択肢とはなにか。

『プライベート・ゲイ・ライフ』から20年、あらためて伏見憲明氏に話を聞く。セクシュアル・マイノリティーの現代史、またそれを取り巻くメディアや言説の変遷、そして、いまだ越えがたきジェンダーという背理について。倫理と快楽のアンチノミー、その外側へと続く隘路はここにある。

1年を締めくくるに相応しい、珠玉の三万字――




(2011年12月14日/新宿二丁目・BAR「エフメゾ」にて)



伏見 辻さんってゲイ?

―いえ、僕はストレートです。ゲイに見えます?

伏見 うん、見えます。もう少し太れば完璧じゃない? モテると思いますよ。

―ありがとうございます(笑)

伏見 ただ、その顔って女性からはどうなんだろうね…。

―どうでしょう。自分ではなんとも(笑)

伏見 ふーん…、まぁいいです。で、今日はなんでしたっけ?

―はい。では本日の主旨について簡単に説明させて頂きたいのですが、本日は大きく分けて三つのテーマについて伏見さんにお話をお聞かせ頂きたいと思っております。まず一つ目はゲイセクシュアリティやクィアの当事者たち、また、それを取り巻く社会環境やそれを巡る言説というものが、この国の歴史の中でどう変遷してきたのかということ。もちろん歴史と言ってしまうと余りに長きに及んでしまいますから、ここでは現代史、それも伏見さんがゲイとして生きてきた中で、伏見さん個人が目にしてきた歴史についてお聞きしてゆきます。

二つ目は伏見さんがこれまでにジェンダーや欲望を巡りおこなってこられた主張について、特に「政治的な正しさの追求が快楽の追求と一致しない」という点について、『プライベート・ゲイ・ライフ』や『欲望問題』など、伏見さんの著作を取り上げながらお聞きしていければと思っております。そして三つ目は、近年のジェンダー一般の状況を、伏見さんがどのように認識し、また考えられているかについてです。とはいえ、飽くまでも便宜を図る上で設けたテーマに過ぎませんので、あまり縛られずにいきたいと思ってます。

伏見 はい、よろしくお願いします。

―よろしくお願いします。では早速、質問の方に入ってゆきたいのですが、まず、伏見さんは1963年生まれですよね。ということは70年代に思春期をむかえられているわけです。当時、70年代頃の社会とゲイの関係性について、どのような印象をお持ちですか?

伏見 70年代という時代に関して言うのであれば、「ゲイ」っていう言葉はあまり使われていませんでしたね。 当時は「ホモ」の方が使われていました。もう一世代前だと、「ゲイ」を同性愛者を指す言葉としても使っていたようですが、どちらかと言うと女装系の人達、今でいうトランスジェンダー系の、とりわけ水商売をしている人達を指して用いられていたように思います。一般的に「ゲイ」が流通していくのは90年代以降です。蔑視的に使われていた「ホモ」を、解放運動的戦略として「ゲイ」に言い換えていった。

※ゲイ・リベレーション…ゲイ解放運動。略称はゲイリブ。

―なるほど。では、あらためまして、当時の社会とホモの関係について、どのような印象をお持ちでした?

伏見 まず、「社会との関係」という感覚自体がなかった。性の問題が社会問題であるという意識が、同性愛に限らずなかったんですね。性というのはあくまでも下ネタにすぎず、そもそも社会でまっとうに語られる事柄ではなかった。だから同性愛は「問題」ですらなかった。ぼく自身、自分の性的嗜好(指向という考え方も当時はまだなかった)に対しては「隠さなきゃ」とか「どうしよう」とか「死んじゃおうか」とか……他人にも家族にも言えない「苦悩」だった。70年代の後半には、当事者のなかにわずかながらゲイリブを目指すようなグループも生まれましたが、それは指で数えられるほどのマイノリティであった。

―同性愛について語ったり考えたりする文脈そのものが存在しなかったということですね。

伏見 はい。今の若い人にはちょっと想像がつかないんじゃないですかね。大学でクィア・スタディーズなんて教えてくれる時代が来るとは、誰も思っていなかった。ぼくが93年に「ゲイとして」大学の非常勤に呼ばれたときでさえ、新聞の社会面の記事になったくらいだからね(笑)。

ただ、70年代にはポルノグラフィーとしての媒体は登場している。例えば71年には『薔薇族』が創刊になっています。『薔薇族』以前はゲイの媒体というのは会員制のミニコミがあっただけで、同性愛の情報そのものが『風俗奇譚』 などエログロ雑誌の中に少し含まれているという程度だった。『薔薇族』を筆頭に70年代にゲイ専門雑誌というのが商業誌ネットワークの中に入ってきて、そこで「ホモ」っていう言葉も流通したと思うんですが、とはいえ、それもおおっぴらに買えるような状況ではありませんでした。今はあまり見かけなくなりましたが、昔は駅前によく小さな書店があったんです。そこのエロ本コーナーに一冊あるかないか、あったとしても他の雑誌と重ねておそるおそる買わなきゃいけない、当時はそんな感じですよね。戦後、ゲイのミニコミがアンダーグラウンドでは流通していて、それを発行していた人たちはけっこう志が高かったけど、彼らにしても同性愛は社会問題というより、文化の形として捉えようという認識だったように思う。

※薔薇族(ばらぞく)…1971年に第二書房より伊藤文學編集長のもとに創刊した日本初のゲイ雑誌。2004年に廃刊するも2007年に復刊。

―ましてや中高生であれば知識を得ることさえできなかった?

伏見 そうですね。知識を得ようと思って図書館なんぞに行ってみたところで、せいぜい置いてあるのが変態心理学の本ですからね。読むと余計に落ち込んじゃいますよ(笑)

―同性愛が病気扱いされていたわけですからね。

伏見 90年代までは一般的にもまだまだ変態性欲、忌むべき病気扱いでしたし、今でもそう考える人はいますよ。現在に至ってさえそんな状況ですから、当時は「ゲイであることを肯定的に生きる」なんていう感覚は自然には芽生えなかったですし、それを語る言葉がまずなかった。みんなただ混乱していたんじゃないですかね。言葉がないと、人は、自分の痛みの輪郭さえ捉えられずにひらすら混乱するんです。だからぼくも、中学生くらいで初めて好きな男の子ができた時には、これは特別な友情なんだとか、そういう納得の仕方をしようとしてましたね。あるいは「耽美的」な関係としての了解。ぼくが小学生くらいの時に、萩尾望都さんや竹宮惠子さんらの少年愛的な要素をもった漫画が少女漫画で人気を博します。今の、ボーイズラブ、腐女子文化に繋がっていく文化ですね。それらを読んだりする中で「こういうのもいいなぁ」って感じは持っていた。ただ、そこに自分を登場人物と同一化できたかと言えば、やはりちょっと違ってましたね。だってぼくは美少年じゃないしね(笑)

―ご自身の中ではどうでした? これは病気なのだと捉えてしまうようなことはありました?

伏見 それは微妙ですが……、ただ、同級生の男子に対するトキメキと、その感情に対する後ろめたさをどうしたらいいのかと、苦しかった。「同性愛について悩んでいる」という言葉の域にまでもいっておらず、自分の欲望を正面から受け止められませんでした。同性愛に限らず、部落解放でもフェミニズムでも同様ですが、胸の中の鈍痛のような息苦しさが社会的な差別ゆえだという文脈につなげられるまでが、ある意味、いちばん辛い。ウーマンリブの田中美津さんもそういう体験を書いていたし、部落の方の本にもそういう記述がありました。だから、「それが差別である、この痛みは差別ゆえだ」と定義、認識できた時点で、問題の半分は解決しているんですよ。あとは、処方箋や実践ですから。もちろん、残りの半分を解消するのだって大変だけど。

※ウーマンリブ…正しくはウーマン・リベレーション。1960年代後半にアメリカ合衆国で起こり、その後、世界へと飛び火した女性解放運動。日本でも1970年に第一回ウーマンリブ大会が開催され、田中美津らの指導のもと、大きな盛り上がりを見せた。

―いまウーマンリブという言葉が出ましたが、それこそ70年代という時代は日本において女性差別を訴えウーマンリブの運動が勃興した時代でもあります。当時の伏見さんは、それらウーマンリブの運動をどのように眺めていましたか?

伏見 当時はまだぼくも子どもでしたし、漠然と伝わってくるイメージは良くなかった。ウーマンリブといっても、一般に知られているのは中ピ連の活動で、「怖いおばさんたちが男たちを告発して暴れてる」みたいにしか思われていなかった。ところで、それと同時代に、ゲイリブも一応存在はしていました。東郷健さんという非常にユニークな活動家が選挙に出たりしていたんですが、女装で政見放送に出演して、性的な言葉を並べ立てて演説していてね。現在であればクィア的な文脈で面白がることもできるんだけど、当時にしてはあまりにもふつうの市民感覚からは遊離しすぎていて、「まとも」な人間や活動には見えなかった。正直、自分と同じ問題を共有しているとは思えませんでした。

―その後、伏見さんはフェミニズム理論を援用する形でゲイのための言説を紡いでいかれるわけですが、そもそもフェミニズムとの出会いはいつ頃だったんでしょう?

伏見 高校時代、80年前後ですが、埼玉の家の近所にベ平連の流れで市民運動をやっていた小沢遼子さん(現在では評論家)という方がいたんですね。当時、ぼくは左翼傾向の強い少年だったんで、小沢さんの事務所にも出入りをしていたんですが、彼女はウーマンリブの活動もされていたんですよ。小沢さんから「もしゲイのことを考えたいのなら、これを読んでみたら参考になるかもしれない」と、ケイト・ミレットの『性の政治学』を渡され、で、読んでみたんです。それがぼくとフェミニズム的なものとの接点ですね。

―ウーマンリブのバイブルですね。

伏見 そうです。小沢さんとのやり取りや、当時サブカル誌だった「宝島」に海外や日本のゲイリブの記事を見つけたりもして、だんだん同性愛の問題を社会につなげられるようになっていったわけですね。

―その後、86年にはアカーが設立するなど、ゲイリブの運動も徐々に活発化していくわけですが、伏見さんは当時80年代をどう過ごされていたんです?

※アカー(OCCUR)…正式名称・動くゲイとレズビアンの会。1986年設立。同性愛者やHIVについての「正しい知識・正確な情報の普及」「差別・偏見の解消」「ネットワーク作り」を目指す民間のNPO法人。

伏見 アカー設立よりも前、80年代の前半に南定四郎さんという方がIGA(インターナショナル・ゲイ・アソシエーション)というグループを作っているんですね。当時はそんなことに興味を持つゲイの人間なんてほとんどいなかったのだけど、曲がりなりにも国際的なリブ団体が設立された。ぼくは会員になったわけではなかったが、大学時代にその事務所に行ったりはしていました。そのメンバーの中に後にアカーを作った人達なんかもいたわけです。ぼく個人は運動的なことはさほどやっていたわけではありませんでしたが、大学でカミングアウトをしたり、朝日ジャーナルにエイズについての投稿をしたり、リブへの志向は持ち続けていたと思います。

※南定四郎…1931年生まれ。72年にゲイ雑誌『ADON』を創刊。人権アクティビストの会・事務局長。

※IGA(International Gay Association)…国際ゲイ協会。1978年にイングランドのコヴェントリーで開催された会議「en:Campaign for Homosexual Equality」をきっかけに発足。86年より名称をILGA(International Lesbian, Gay, Bisexual, Trans and Intersex Association)に変更し、LGBTの権利拡大のための運動を行っている。

―80年代当時は伏見さんのような運動的なゲイはあくまでもマイノリティだったんですね。

伏見 それは今だってそうですよ!(笑) そんなことに関心を持っているゲイは、ごく少数派です。超マイノリティ。ゲイに限らず、社会運動に興味もっている人なんかあまりいないでしょう?

―ふつうに考えてみればそうですね(笑)。逆に、運動などに参加しない、多数派のゲイの人達というのは当時をどのように振る舞っていたんでしょう?

伏見 ホモフォービックと言ってしまえば単純すぎるかもしれませんが、「ゲイとして生きていく」、「ライフスタイルとして自分の性を捉える」といった感覚はまだなかったから、同性愛はあくまでも性の嗜好、趣味の一つでしかなく、ゲイであっても結婚して子供を作るというのが本筋だっていうような考えを持っていましたよね。これは人には言ってはいけない「趣味」だ、と。同時代の欧米のようにゲイという政治的主体を立て、世の中に自分達の居場所を自ら作っていくというような方向に共感するような感性が、あの頃はほとんどなかった。だから、例えば運動するゲイ達に対しても、「寝た子を起こすな」的な反応の方が圧倒的に多かったと思います。「別にいいじゃん、隠れてチンポ咥えてればさ」みたいなね(笑)。あるいは、自分の性のありように関しては思考停止にしておいて、今日の快楽を生きるみたいな。時代はバブルに向かう上り坂ですから、自分の置かれた状況に目をつぶって生きることだってできた。

※ホモフォービック…「同性愛者に対する恐怖や嫌悪のある」という意。一般には同性愛者を差別する非同性愛者をに対して使われる言葉だが、ホモフォービックなホモという場合、自己のセクシュアリティを肯定できない、あるいは嫌悪すべきものとして捉えている同性愛者という意味になる。

―なるほど。

伏見 とにかく、その欲望を正面から肯定的に捉えられる時代じゃなかったということです。しつこく例に出して申し訳ないのですが、80年代後半でも、もっともリベラルで、性に対して先進的な考え方をされていらっしゃった上野千鶴子さんでさえ、「私は同性愛を差別する。なぜなら彼らは自然に反しているから」というようなことを正々堂々と書いていたわけです。女性差別以下の問題だったわけです。まぁ、もちろん、彼女にしてもいまはそれを悔い改めているわけですが。

―隔世の感を禁じ得ないですね(笑)

伏見 同性愛者の自殺率は今でも高いと聞きますが、あの時代まではそれこそ相当高かったんじゃないですかね。

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