内なる辺境の人々 × 宮台真司

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内なる辺境の人々

宮台真司 

僕はやっぱり性の問題が入り口だと思っているんですよ

文/辻陽介 写真/藤森洋介


(2009年7月 赤坂)


「十年以上前の話ですが、調教していた女の子に、彼氏にスワッピングを持ち掛けてごらんと促したんです。そしたら彼氏は凄い喜んで“是非やりたい”と反応したというんで、僕は手始めに、他の男とのセックスを電話で聞かせるってのはどうかって提案した。でも、それが完全に誤算でした」


 赤坂サカス1階のダイニングバー。宮台真司は、アルコールではなく、ジンジャーエールの入ったグラスを片手に、テレビそのままの洒脱な口調で語っている。


 東京大学において戦後5人目となる社会学博士号の取得者であり、現在は首都大学東京の教授。むろん、この話も唯の下ネタではなく、社会分析の一環である。


「聞かせている途中に電話が切れちゃったら、彼氏がマジギレして関係が崩壊しちゃったんです。一つの例に過ぎないけれど、男は女と比べて神経質で、難しい存在です」


 研究の射程は援交から天皇までと幅広い。佐々木教とチャーチルを引用しつつ、ハメ撮りと国際政治を同じ熱量で弁ずる唯一の知識人である。とはいえ、決して色物に堕すことがないのは、提示する論理の精妙緻密さゆえ。


 取材陣一人一人の顔に均等に視線を移しながら、宮台真司は言う。


「僕はやっぱり性の問題が入り口だと思っているんですよ」


 現在50歳(2009当時)、数多の紆余曲折があった。



自 己 治 療 と し て の テ レ ク ラ



社会学者・宮台真司が広く一般に認知される契機となったのは、93年に起こった“ブルセラ論戦”。女子中高生に対するフィールドワークを通じて得たナマの情報をベースに、宮台は朝日新聞文化面に、ブルセラ女子校生達の生き方を肯定的に捉えた論を寄せる。社会学を基盤とする膨大な教養と、現場主義者としての鋭敏な感覚、その知行合一ゆえ、宮台の言説は信憑性と説得力を伴い、当時の論壇に大きく物議を醸した。


「85年の9月に世界最初のテレクラができました。元はノゾキ部屋だったアトリエキーホールですが、その翌月に成田アキラが『テレクラ日誌』で“T”と表記していた東京12チャンネルという店が登場する。僕は開店直後に12チャンネルに出かけ、会員番号102番でした。世界で一番早い時期にテレクラに参加したんです」


 だが、テレクラに参加した当初、宮台にフィールドワークの意識はなかった。東大の大学院に在籍する当時の宮台は、「極めて個人的な理由」からテレクラに通い詰め、セックスに明け暮れる日々を過ごしていた。宮台真司26歳。当時の自身を振り返り、「単なるナンパ師でしたね」と語る。


「僕がテレクラやナンパにハマったきっかけは大学時代の初恋の失敗です。失敗から回復するために「もっとイイ女がいるはずだ」と思い込もうとして、足掻いたんです。でも初恋の記憶が美化されている内は「もっとイイ女」が現れるはずもない(笑)。次、次、次ってなるうちに、元々の目的が忘れられ、気が付くと、感情が動かない、精巧なナンパマシーンに変身していた」


DSC_0024.jpg ビギナーズラックは超高級マンションに住む商社マン夫人。夫からの酷いDVで何度も骨折を繰り返し、離婚調停の最中だという女性だった。彼女の相談に乗りながら、セックスで癒した。新鮮な驚きだった。


「僕は大学院生で『生活』がない。だから生活の匂いに憧れたんです。普通の主婦とセックスしていると『幼稚園に子供を迎えにいかなきゃ』とか『夕方だから買い物にいかなきゃ』とか。僕が出会うはずのない女から世界がどう見えるのかが知りたくて。だから凄い肥満やブスでもセックスした」


 初恋の傷を癒す目的が風化したころ、宮台にとってテレクラは“自分自身の本当のセルフイメージと対面する場”という意味を帯びはじめる。


「テレクラだと僕の肩書とか身分とか言わなくても済むでしょう。肩書抜きの自分自身に対面したかったんです」


 本当のセルフイメージ。それは“落ちこぼれ”だった幼少時代の記憶に結びついていた。



「僕は早生まれなのもあって、知力やコミュニケーション能力が劣っていました。小学三年生までは成績も運動神経もダメ。周りの冗談にもついていけない。転校が多くて、クラスではいつも女の子に保護されていた。何もかもがダメな子でしたね」


 ところが小四を境に、突然に知力と体力が向上。学級委員や運動会でのリレーの選手をつとめるようになる。それでセルフイメージも向上したかと言えば、NOだった。


「向上して以降の僕に対する周囲の扱いと、元々のセルフイメージとの間にあるギャップが大き過ぎて、ある種の乖離状態、つまり自分が自分だとは感じられない状態になりました。その状態が以降もずっと続いて大人になった。つまり、僕にとってテレクラナンパは、単に女をゲットして嬉しいっていうんじゃなかったんです。自分をホメる人が誰もいない状況に戻り、元々のダメな自分と対面し、ダメな自分に似合いのミジメな状況を経験するという意味がありました。だからこそ、美人だけでなく、どんな年齢の、どんな容姿の女ともセックスした。元々の自分に出会うための修行でした」


 修行の目的が達成されるにつれて取材を目的としたフィールドワークへと移行したのは、自然な流れだった。テレクラへ電話を掛けてくる女たちの動機は様々だ。彼女たちの話に耳を傾け、悩み相談に応じているうち、宮台は「普通は出会えない相手から話を聞くというのは、とてつもない社会の観察なのかもしれない」と思いはじめる。


「まぁ、そうは言ってもユーザーとしての利用をやめたわけじゃない(笑)。デパ地下でもナンパし続けていました。でも遊びとフィールドワークを厳密に分けてました。遊びのつもりで会ってみて、これは話を聞いた方がいいなって思ったら、実は取材ですよって即座に切り替えていました。セックスの相手はどうせすぐ見つかるんでね」


 フィールドワークによって獲得した膨大なる情報と経験は、前述した93年の“ブルセラ論戦”、続く94年に上梓された『制服少女達の選択』、そして95年の地下鉄サリン事件を受け僅か2週間足らずで書き上げたという代表作『終わりなき日常を生きろ』へと結実していく。それらにおいて宮台真司が提示した論を暴力的に単純化して纏めるなら、“日常の退屈と倦怠の中で、オウム信者のサマナ服を纏うでも、自己破壊に走るのでもなく、ブルセラ遊びや援助交際を享受しながらまったり生きる女子高生たちから智恵を学べ”ということ。「意味から強度へ」「まったり革命」などのキーワードと共に、宮台のメッセージは、輝かしいものを求めても頓挫するしかない混濁する現代を生き抜くたその処方箋として、広く受容された。


「東大助手時代の僕は三〇歳前後でしたが、女子高生と付き合っていた。その子が売春していたんです。まぁ話を聞くと、金が欲しい以外に、様々な動機があって売春していることが分かり、なるほどと思った。そこで、ナンパとフィールドワークで得たネットワークを駆使して調べたら、ある女子校がブルセラと援助交際の巣であることが分かった。最初にブルセラを持ち込んだ子から拡がる過程までつぶさに分かりました。普通科では四分の一の生徒がブルセラに関わってて、そのまた五分の一が援助交際もしてたんですが、持ち込んだのは進学科のカッコイイ子でした。そうか、これは不良の逸脱行動とは違う社会現象だぞ、と」


 女子高生たちが援助交際に走る理由を一つに括れないが、最大のファクターは“退屈”だった。そこに当時の宮台は共鳴した。


「この退屈をなんとかしたいっていう彼女たちの気持ちと、僕自身の構え方が同じだと思ったんです。大学院にいた僕は数理社会学の研究をしていましたが、本当はサブカルチャー研究をやりたかったんですね。でも、お前は色物系だから就職口がなくなるぞ、お前は数理の才能があるのだから数理社会学で博士号を取れって当時の指導教官に言われて。でも、そう言われて研究しているくらいだから、社会を研究している気分になれない。毎日がつまらなくて鬱屈している。そのある種の不全感や不満足を埋め合わせる気晴らしの機能が、テレクラやナンパにはありました。だから、援助交際する子たちの動機を聞いていくことで、なんで毎日がこんなに退屈なんだっていう鬱憤を晴らす、あるいは退屈な世の中に復讐するっていう側面が、実はありました」


 繰り返し述べる。宮台真司は、終わりなき日常を、退屈や倦怠と戯れて生きる援交女子高生たちを肯定していた。


「それは同時に“自分自身を肯定する”ということだったんです」

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