内なる辺境の人々 × 間宮英三

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内なる辺境の人々

間宮英三

こっちの方がベター

文/辻陽介 写真/藤森洋介



(2009年6月/渋谷『NOON』にて)



 ニャン2シリーズの熱心な読者であれば、既にこの名前はご存知のはずだろう。


 間宮英三。


 日本初のボディピアス専門店『NOON』の経営者であり、90年代に世を圧巻したボディピアスブームの火付け役。「耳たぶ以外にもピアスを貫通できる」という事実を人口に膾炙させた、この世界のパイオニアである。


 その正確な知識と高い技術は、日本のみならず海外においても評価が高く、例えば世界最高峰の身体改造の祭典「MODCON」にてその技術が賞賛されたことは、本誌でお馴染みの身体改造ジャーナリスト・ケロッピー前田氏翻訳による『モドゥコン・ブック』に詳しい。さらに現在では日本のピアッシング業界の総本山であるJPPAの会長に就任しており、名実共に日本の身体改造シーンの第一人者である。


 そんな彼が、98年に書き上げたのが『ピアッシング・バイブル』であった。


 身体改造シーンの草創期より中心部に身を置いてきた彼だからこそ蓄えられた豊富な経験とデータベース。それらを纏め上げたこの書籍は、その名の通り、まさしくピアス愛好家たちの聖典として、長きに渡って他の追随を許さず、その領域の頂点に君臨し続けた。とはいえ、現在は絶版となっており入手が極めて困難な状態にあるのも事実。市場に出回っている数も少なく、ネット上などにおいて復刊を期待する声も散見されていた。


 さる4月20日(2010年)、そのようなピアスファン達からの熱い支持を受け、遂に聖典が蘇った。それもただの復刊ではなく、完全版として。12年という時の中でさらなる進化を遂げた技術と理論の、いわば集大成である。


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間宮英三『ピアッシング・バイブル』




「昔はあまり情報がなかったから情報自体を手に入れるのが大変だったんです。だけど、今は逆に情報はいくらでもある。ただし、その中から正しい情報を見分けるのが大変。メディアリテラシーみたいなのが必要になるんですよ。ネットには情報が溢れてるけど、それが最新の情報なのか、20年前の情報なのか、あるいは正しいのか間違っているの、それを見極めるのは難しい。まぁ、そんな状況もあり、ピアッシング学としてのまとめをって思ったんです」




性 器 ピ ア ス と い う フ ァ ン タ ジ ー




 実は、筆者にとって、間宮氏とはこれが初対面ではない。間宮氏はニャン2倶楽部誌面において連載を抱えているゆえ、その関連で過去に幾度か顔を合わすこともあったのだが、それより以前にも、筆者は客として『NOON』を訪れ、実際に氏の施術を受けたことがある。その際に開けてもらったのはタン(舌)とヘリックス(耳の辺縁部の軟骨)。そのことを話すと、「そうだよね、じゃないかなとは思ってた」と間宮氏。冷静で淡々とした手捌きに「まるで医者のようだな」と思ったのを覚えている。


 そもそも、間宮氏がボディピアスと本格的に出会ったのは、89年、ロサンゼルスにおいてだったと言う。だが、飽くまでもファンタジーとしてと言うなら、ずっと以前よりその存在は知っていた。


「もともとSM系のネタとしてボディピアスの存在は知ってたからね。日活の映画にも乳首にピアスをしている女とかあったぐらいですから」


 今でこそ、ボディピアスと言えばファッションアイテムとしての印象が強いが、まだそれがフィクションの世界で描かれていた当時、それはSM文学の一つの意匠として知る人ぞ知る存在であった。間宮氏もまた「SM」を取っ掛かりにピアスに目覚めた一人。SM的なものへの興味はいつ頃からあったのかと聞くと、「それはもう子供のころから」と笑う。


「団鬼六さんの小説が出たりとか、あの時代。多感な青春時代にもろそういうものがでてきた。SM雑誌なるものが世間に売れるようになったんです」


 間宮英三は57年岐阜県生まれ。遊びの少ない田舎町に育った間宮少年にとって、文学がこの上なく刺激的な娯楽であったことは想像に難くない。ましてや、それが血と肉に塗れた黒々しいエロスを題材にしたものであったというなら、何をか言わんやである。


「そりゃそうでしょう。『O嬢の物語』に『一万一千本の鞭』、今昔物語にもエロのネタいっぱいあったしね。谷崎潤一郎だって三島由紀夫だって、つまるところ変態の話じゃないですか。だから当時の文学少年や文学少女ってのはどこかで絶対にそういうとこに突き当たった。好奇心の強い人間なら特にね」


 間宮氏が思春期を過ごした60年代末から70年代初頭は、エロスにまつわる言論が巷に大輪の花を咲かせた時代。澁澤龍彦が責任編集を務めた伝説の雑誌『血と薔薇』や、戦後最大の奇書と名高い沼正三の『家畜人ヤプー』などが世に放たれたのもこの頃である。


「まぁいい時代と言えばいい時代だったよね。今よりもテレビとかの規制も柔らかかったからヌードも結構出てたし。奈良林さんとか、ハウトゥーセックス系の本もすごい売れてましたから」


 とはいえ、その実践となるとまた話は別だったようで、「できるわけありませんよ。田舎だし、ましてや保守的な土地なんで」。言わば一種の童貞幻想であったわけだが、その後の大学時代に話が及ぶと、「逆にそういうものから遠ざかってましたね」と語る。


「京都に下宿してたし、親元を離れたのも初めてだったんで、楽しいことっていっぱいあるわけじゃないですか。無理にそっちのほういかなくていいわけですよ」


 大学では化学を専攻し、卒業後は製薬会社に就職した。いわゆる普通のサラリーマン生活。製薬会社で得た身体に関する知識の数々は、後にピアッサーとなった際に大いに役立つことになるのだが、当時はそんな意識などなかった。


 間宮氏とボディピアスの邂逅、それは10年程勤務した製薬会社を退社し、輸入業を始めた頃のことだった。


「基本的に輸入って言ったって、自分が着たいTシャツや風変わりな同人誌などを海外から仕入れて、渋谷で売ってただけなんです。で、そんな中、たまたまロスに商品の仕入れに行った時にピアスの広告を見たんですよ。もともとボディピアスはロスが発祥なんでね。で、それじゃあってことでその店に行ってみたんです」


 75年にロスに開店した『ガントレット』。いまなお伝説として知られる世界初のボディピアス専門店である。「最初は売るつもりじゃなく自分用」で購入。だが、間もなく、販売目的の輸入を開始する。


「こんな面白いものは人に売るしかない、と。それに私がピアスを付けてるとみんなに“それなぁに”って言われるんですよ」


 同時に自身の肉体を実験台にピアッシングの実験も開始。すでに、心はボディピアスの虜だった。当時を振り返り「基本的にオタクだからさ」と笑う。


「寝ても覚めてもピアスのこと考えてましたね。みんなが知らない世界ですから、面白いんですよ。もう集めれるだけ資料を集めて、自分が納得してから、その資料の段取りで自分の体に開けていったわけです。最初は耳。私は性器のピアスに興味があったから、それが最終目標で。ただ痛そうじゃないですか(笑)。で、後回しにしてたんですが、まぁでも大体半年くらいで、一通り全部開け終わりましたね」


 最初は販売のみであったが、客からの依頼もあり施術もするようになると、店には取材が殺到、ボディピアスの存在は瞬く間に世間に知れ渡った。


「一番すごい時は一日に3本くらい取材のアポが入ってましたからね。取材最中にテレビ番組の『すすめ電波少年』が突撃取材とか言っていきなりやってきたこともありました。だから早かったですよ。がーっと広まっていきました」


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