宮台真司 —コイトゥス再考— 泥沼のマスキュリニティ

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コイトゥス再考 #24

宮台真司

泥沼のマスキュリニティ

取材/辻陽介


巷間しばしば耳にする「最近の若い男は男らしくない」といった類いの言葉は、つとにご存知の通り、今日、初めて語られだしたものではない。この手の言説は戦後一貫して、間断なく、再生産され続けており、あるいは「男らしくない」という語りは、歳上の男が歳下の男を揶揄する際の、一つのクリシェであるとさえ言える。ただし、この点を差し引いてなお、昨今の若い男は、どうやら例外的に「男らしく」なくなっているようなのだ。

日本における男性学の草分けである伊藤公雄氏によれば、近代的な「男らしさ」とは「権力志向・優越志向・所有志向」という三つの志向によって特徴づけられると言う。同時に伊藤氏は、近代以降の社会の歪みの大部分が、この「男らしさ」に起因するものだと指摘する。極端な物言いにも思えるが、その主張にはなかなかに説得力がある。男たちは「男らしさ」のために、もがき、苦悩し、傷付け、また傷付けられてきた。より直裁に言うと、男たちは「男らしさ」のために、鬱となり、弱きを圧し、人を殺め、また己を殺めてきた。当然、これらの分析は次のように帰結せざるをえない。ならば、そんな悪しきものは早々に捨て去ろうじゃないか。「男らしさ」などに囚われず、もっと自分らしく、自由気侭に生きようじゃないか。

幸福なことに、昨今の若い男は、かつてないほどに「男らしく」ないらしい。連綿と受け継がれてきた「男らしさ」のミームはようやく潰え、いよいよ男たちは、もがき、苦悩し、傷付け、また傷付けられる宿命から解放されたのだ。あとは「男らしさ」の桎梏にいまだ囚われた年長世代の男たちがみな逝ってしまえば、この社会はもっともっと豊かになるはず………、本当か?

どうやら、男たちが再び「男らしさ」を検討しなければならない時期がきているように思う。そこで本欄では、社会学者の宮台真司氏をお迎えし、現代社会におけるジェンダー、そして性愛のありかたを、「男らしさ」の側面から再考察することを試みる。男たちは「男らしさ」を脱ぎ捨てることで、何を獲得し、何を喪失したのか。男たちはこの先、「男らしさ」といかに対峙していくべきなのか。あるいは、今の若い男たちはそもそも本当に「男らしく」ないのか。

「男らしさ」の指針なき時代に、ありうべき「男らしさ」を探る。




■ 空 洞 化 す る ホ モ ソ ー シ ャ リ テ ィ




―本日は、現代のジェンダー、あるいは性愛を巡る状況について、特に「マスキュリニティ=男らしさ」を一つのキーワードに、宮台さんにお考えをお聞きしたいと思っております。

本題に入る前に、幾つかおさえておきたい前提を説明させて頂くと、まず、当インタビューの動機となったのは、09年に出版された『男らしさの快楽』(勁草書房)という複数の研究者の方による男性性研究の論文集になります。宮台さんはこの本の編集に携われており、また「終章」に関しては共同執筆者として名を連ねてらっしゃるわけですが、この『男らしさの快楽』は本として非常に面白いということも然ることながら、男性性研究においても非常に画期的な内容となっています。要は、これまでの男性性研究において「男らしさ」というものが一方的な批判の対象とされてきた傾向にあったのに対し、本書では「男らしさ」やホモソーシャリティを全否定するのではなく、それらを建設的に見直していこうということが提案されている。さらに、そのための方策として、「とりあえずの連帯」や、「男らしさ」を衣服のように着替えるスキルの習得などが挙げられているわけですが、いずれについても説得力のある議論がなされており、また男性学において否定的に語られるばかりであった「男らしさ」を「楽しさ」からとらえ返すという試みは、非常に新鮮でもありました。そこで本欄では、『男らしさの快楽』で展開されている議論を踏まえた上で、あらためて宮台さんに「男らしさ」の行方についてお聞きしたいと思っている次第です。

では早速、順を追って聞いていきたいと思います。まず、基本的な認識の部分として、現在の男性性の状況、また性愛の状況について、宮台さんの印象、お考えをお聞かせください。




宮台 最近、性愛領域のリサーチを再開したんですが、その際に強く感じるのが、あるべきジェンダーについて考察するには前提が必要だということです。例えば20代前半の人を経済階層で3グループに分けてグループインタビューを行うと、最下層に属する男女からは「あるべきジェンダーどころじゃない」という雰囲気が伝わります。不安感、孤独感、疎外感、被抑圧感、ストレスなどが厳しく、日々を凌ぐので手一杯。現に、僕が企画協力した『SPA!』の調査では、年収200万円を切る社会人は、性的パートナー不在率や性的未経験率が高い。つまり、ジェンダーを規範的に考えるために必要な前提が、どれだけ満たされているかに敏感になりつつ語る必要があります。さもないと、お門違いな要求をしてしまいかねません。これは最初に自分に釘を刺す意味でも言っておきます。

その上で現在の性愛状況についてですが、昨年11月に厚生労働省の作業チームが出したデータですが、16歳~19歳までの男女を対象としたアンケートで、男性36%、女性59%が、性に嫌悪感を抱くか、一切関心がないと回答します。この性的退却傾向は、過去十年間一貫して増大し、止まる兆しがありません。別のデータですが、高三女子の性体験率は十年余りの間ほぼ変わらず40%台後半を推移していますが、少し上の大学生女子におけるステディがいる割合は十年余りの間一貫して減少傾向です。ここに伺えるのは、性体験の困難より、性愛的な絆の困難の方が大きくなってきていることです。僕が相談を受ける大学生男子の悩みも、セックスの相手がいないことから、長続きしないことに、この十年で変わりました。

僕が2000年にZ会のサンプルを使って調べたデータに依れば、「両親が愛し合っている」と答える大学生男女と、「両親が愛し合っていない」と答える大学生男女を比べると、前者は、恋人のいる割合が高く、性体験人数が少ないのに対し、後者は、恋人のいる割合が低く、性体験人数が多くなります。ここに伺えるのは、絆のある性愛のロールモデルを幼少期から周囲に目撃できたか否かが、絆のある性愛への願望水準や期待水準を変えるという事実です。ここに、先ほどの高三女子と大学生女子における「性体験率はフラットなのに、恋人がいる割合がどんどん減る」傾向を加えると、以下の仮説が成り立ちます。つまり、今世紀になって以降、絆のある性愛に踏み出すのに必要なロールモデルの目撃機会が---従って学習機会が---一貫して減ってきたのではないかということです。

他方、性愛の現状満足度について比べると、男性の方が現状満足的で、女性の方が現状不満的です。男性よりも女性の方が性愛に関する不全感が大きいのは、なぜか。僕自身のリサーチから推測すると、男性の方が生身の性愛に対する断念が早く、断念に関するリグレットの忘却も早いからです。言い換えると、男性は、生身の相手があり得ない環境に逸早く適応し、アニメやゲームなど二次元キャラの世界に自足できるのに対し、逆に女性は、性愛の古典的モデルを保持する率が高く、性愛への古典的願望水準を維持するがゆえに、願望に見合う現実が見出せない不全感に苛まれるのだと思います。

やはりこの十年、交際開始から数週間で別れる割合が急速に増えてきました。学生たちに原因を訊くと「付き合ってみたら思っていたのと違った」と答えるケースが多い。このことは、僕ら年長世代とは「好き」とか「付き合う」という言葉の意味が、相当違うことを示します。僕ら世代では、好きになった相手と付き合って思い違いが発覚するのは当然あり、かつ「好きだからこそ、思い違いにも耐える」のが当たり前。どうしても我慢できなくなったら、涙ながらに別れるのです。そうした関係性を、若い世代の多くが願望すらしていません。

また、TBSラジオに依頼して調査をした最近のデータですが、渋谷センター街を歩く20歳の女性100人に尋ねると、「彼氏がいる」と答える割合は3割以下です。これは90年代半ばに僕が調べたときのデータと、比率が逆転しています。また、先に述べた「恋人がいる割合の一貫した低下」と符合します。彼女らに「どうして彼氏を作らないのか」を訊くと、1位が「面倒くさいから」、2位が「他に楽しいことがあるから」。以上に紹介したのが、ここ十年間の性愛状況の概括です。

これほど「性愛の不毛状況」が拡がると、マスキュリニティ(男性らしさ)について現時点で考えることが何を意味するのか、いまいち分かりづらくなったと感じます。男が女に、女が男に、強い関心を抱き、比較的長続きする関係性を結ぼうとしている場合ならば、関係性が性別役割意識や性差別意識によって非対称的であることが、大問題として浮上するのは自然です。ところが、男女が互いに性愛的関係から退却する場合、ジェンダーが意識される場は、男女のプライベートな場面というより、サークル内の関係性や会社内の関係性に相対的にシフトします。かくして「サークルや会社の中で平等性が保たれれば、それでいい」というふうになりがちです。

ところが、サークル内や会社内の人間関係を見ると、この20年間一貫してホモソーシャリティ(同性的な連帯)が希薄化しています。大学を見ると、サークル活動が低調になっただけでなく、サークル活動の中身も「関東大会で優勝するために強化合宿する」という集団目的的なものから、「フィットネスのためにやっている」といった個人目的的なものへと、シフトしました。今では「体育会系サークルがホモソーシャリティのベース」と言えなくなりました。サークル内や会社内の人間関係がそうした方向にシフトした結果、サークル内や会社内の平等性といっても単に制度的処遇をめぐるものに縮小しがちです。この面で昨今の会社はコンプライアンスに敏感なので、クレイムをつければ制度的処遇は改善しやすい。

一方で「絆のある性愛」から退却し、他方で「体育会系的なホモソーシャリティ」からの退却する。どちらも同じく「うざい」「めんどい」といった理由が語られる。こうして関係性が距離化されると、関係性の中でジェンダーロールによる抑圧を受ける機会が少なくなり、あるいは機会を回避しやすくなります。また、関係性の中に留まる利益を享受するべく、ジェンダーロールによる抑圧があっても関係性を離脱しないことが珍しくなります。もちろん「女は女らしく」と同じく、「男は男らしく」もジェンダーロールによる抑圧です。そして「男は男らしく」の中に「女をモノにしろ」があるのです。




―男性が男性であることゆえに抑圧を受ける場が減ってきているというのは正にそうで、またそれは良いことであるとも言えるのですが、一方で、宮台さんのお話にもあったようにロールモデルを欠いているがゆえの問題というのも生じていて、その一つにいわゆる草食系の問題があると言えます。草食系と一言に言ってもグラデーションがありますので、ここでは極端に性から退却している、つまり自ら性愛を拒絶しているタイプの男性をそう呼びますが、彼らはいわゆる男らしさとは無縁のように振る舞いながら、一方で非常に深く男性性を内面化しているとも考えられます。

男性性を特徴する代表的なものに見栄や沽券への執着というものがあり、男性はこの見栄や沽券を守るために必死に競争社会の中で熾烈な競争を繰り広げてきたとされているわけですが、草食系男子においても、この見栄や沽券といったものが充分に内面化されていて、しかし彼らにおいては、それを守るために競争しないとなっているように思えるんです。性愛の場に関していえば、かつてはホモソーシャル内において従属的地位につかないためにも「女をモノにする」ことが重要で、また一つの規範でもあったのが、宮台さんが指摘したようにホモソーシャリティが低調になると、あえて「女をモノにする」必要がなくなってしまう。男性にとって女性は魅力的だが危険な財であるというセジウィックの分析に倣うなら、あえて自分のプライドを傷つける危機に晒してまで女と付き合いたくはない、となるわけですね。特に現在は生身の女性を経ずとも性的な快楽を得られるツールが非常に潤沢にあるわけですからなおさらです。

つまり、ホモソーシャリティからの抑圧がなくなった反面、抑圧がないゆえの新たな抑圧が生じているようにも思えるのですが、いかがでしょうか?




宮台 面白い質問です。非抑圧ゆえの抑圧があり、抑圧ゆえの非抑圧があります。形式と内容の二項図式で考えると、形式が備わっていれば内容が問われないという意味で、形式は内容にとって負担免除です。非抑圧ゆえの抑圧とは、形式が空洞なので内容要求の圧力に晒されること。抑圧ゆえの非抑圧とは、形式が満たされているので内容要求をやり過ごせること。性別役割規範は形式に属します。コミュニケーションのプロトコル(外交手順)のようなもの。さして親しくない段階では、世間的にエクセントリックだと見られないように形式を踏まえても、一旦仲良くなれば「本当は男らしさなんて大嫌いで、赤ちゃんプレイがしたいよ」と明かして受け入れられる、みたいなことがあり得ます。社会的に期待される形式は、実際に親しくなったら囚われなくて良い、いうふうになり得ます。それが本当の親密さだとする考えもあります。

最近の若い世代が男らしさに囚われ過ぎて先に進めないのは、形式をクリアしさえすればその先に内容が何でもありになるという「美味しさ」を知らないからでしょう。何でもありの内容に到達する手前で、形式に拘泥するのは、賢明じゃない。この愚昧さは、抑圧ゆえの非抑圧といった形式と内容の間の関係性を、誰からも教わっていない事実に由来するでしょう。僕ら年長世代がこれを学べたのは、体育会的ホモソーシャリティの御蔭です。先輩後輩関係のプロトコルを一旦クリアすれば、年齢差を越えて「肝胆相照らす仲」になれました。加えて僕の場合は関西体験も大きい。小1で京都に転校したら、関西には日常生活にもボケとツッコミの形式があり、ボケという形式的ポジションを取りさえすれば、どんな格好悪いこともできるようになることを学びました。逆に「一千万都市といえども田舎者の集まり」の東京。関西ほど形式が一般化されていません。つまりコミュニケーションの洗練がありません。だから足元を見られないよう互いに臆病に牽制します。

それが変質しました。ホモソーシャリティで学べた「形式さえ踏まえれば何でもあり」が学べなくなり、逆に「形式の維持に汲々とする」似非ホモソーシャリティが蔓延しています。質問のご指摘は、ホモソーシャリティが空洞化したので、埋め合せとして、似非ホモソーシャリティが蔓延するという事実です。結果、男女ともに「非性愛規範が性愛規範を飲み込む」現象が拡がりました。見栄や沽券とおっしゃったけれど、男性の間では「ワンチャン決めたけどやっぱキモかったから速攻切ったワ(性交には不自由していないが決してハマらない)」といった会話が蔓延します。性愛にコミットするのは、イタくてヤバイ(と見られるのではないか)と意識されているからです。男女共通の傾向です。「性愛関係より友人関係の方が大切」と表示し合うのです。以前の体育会的ホモソーシャリティなら逆に「アイツ最近付き合い悪いな」「彼女できたらしいっすよ」「しょうがねえな」となったはずです。

以前の体育会系ホモソーシャリティは「形式の不自由ゆえの内容の自由」の典型で、先輩後輩関係には厳しくても、「肝胆相照らす仲」つまり人格的内面に踏み込んだコミュニケーションを取り合うことが目標になってました。昨今の似非ホモソーシャリティは、かつての先輩後輩関係に比べればずっと緩い形式ですが、「肝胆相照らす仲」があり得ず、永久に軽薄でハイテンションな演技空間が続きます。かつての体育会系ホモソーシャルでも、飲み会では演技空間でしたが、それは飲み会に限られた話で、オン(ハイ)オフ(ロー)を振幅しました。その点、似非ホモソーシャリティの方はフラットです。テンションをフラットに維持しなければならないという空気があり、こうしたテンションを乱す行為としてKYがあります。見栄や沽券が性愛からの退却理由になる背景に、「性愛規範が非性愛規範に飲み込まれる」現象があり、更にその背景に、似非ホモソーシャリティの浮上があるのです。

形式と内容の差異や、オンオフの差異が、フラットになった。こうした状況は僕には不可解です。それを大学生男子に言うと「それが何か?」みたいな感じです。大学生女子でも同じで、「やっぱ男はセックスしてみないと分からないね」と言おうものなら「ビッチじゃねぇの」みたいになります。それも心底そう思っているかどうか不明ですが、そうした反応によって保たれる女子会的空間があることは明白です。つまり「女子会的空間から性愛が自由じゃない=非性愛規範が性愛規範を飲み込む」のです。こうして男女ともに性愛についての本音を誰かとシェアしたり話し合うのが難しくなりました。同性間の関係性が、形式不全(緩さ)ゆえに内容的に神経質にならざるを得ず、性愛に深くコミットできなくなりました。


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