宮台真司 ?コイトゥス再考? 泥沼のマスキュリニティ 2

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■ 典 型 家 族 か ら 変 形 家 族 へ




―非常によく分かります。ホモソーシャルというものは、そもそも同質性が非常に高く、閉鎖的なものではありますが、宮台さんの言うように、かつてはその内部において上下を脱いだコミュニケーションが取られていた。それは時に抑圧的に働くこともあったとは思いますが、一方で相互にダメ出しをしあうような、教育的な機能もなしていたのだと思います。しかし、KYという言葉に象徴される関係性スキルの専制がホモソーシャル内部にも浸透することによって、相互に顔色を窺い合う演技空間へと変質してしまった。今回の取材前に僕の身近な草食系男子たち数名に話を聞いたところ、やはり友人同志で女性経験や性についての話題は一切出ないと言うんですね。どうやら、ある場においては性が一種のタブーになっているようなんです。

ここで重要な点としては彼らは現状にそれなりに満足しているということなんです。宮台さんが提示して下さったデータにもありましたが、実際の女性との関わりがなくとも、二次元やアイドル、あるいはその他セックスメディアなどでそれなりに自足している。「ならば問題にする必要がない」と言われてしまえばもっともなのですが、一方で10年先、20年先についての話を聞くと、どうも歯切れが悪くなるんです。要するに、今はこれでいいけど、ずっとこれでいいとは彼らも思っていないようなんですね。中には「いつか自分の理想とする処女が現れる」といった希望的観測を口にする人間もいました。可能性は否定しませんが、あまり現実的ではありません。一方で恋愛結婚イデオロギーも強く内面化していて、お見合い結婚などについては異口同音に「ない」と言うんです。すると、危惧されるのは10年後、20年後、彼らが今のまま中年期に差し掛かった時に、草食系問題がアノミーとして顕在化するのではないかということです。




宮台 そうです。15年前に取材した年長の独身ナンパ師らが、脳梗塞などで障害を患うようになった昨今、「ちゃんと結婚して子供を作っておくべきだった」と述懐します。肉食系であれ草食系であれ、年老いて弱くなったら、一人は気楽という前提が崩壊します。加えて今後は私的扶助の空洞化を公的扶助の潤沢さで補うことは財政的に不可能です。だから「問題にする必要がない」などという反応は滑稽ですらあります。ただ私的扶助といえば、昔は地域で、少し昔は家族親族でしたが、これからは従来の「典型家族」と異なる「変形家族」が私的扶助の母体として拡がるでしょう。そうした流れをシェアハウスの動きに見出せます。社会学者パーソンズによれば、最後に残る家族の機能は、子供の一次的社会化と、成人の感情的回復です。まだ模索段階とはいえ、これら二機能を満たす共同生活の多様な形式が生まれ、新しい共同性が生きられるようになります。さもないと社会が続かないからです。とすると、今の童貞20代が童貞40代となる20年後に置かれる環境は、今とは相当違うものになるでしょう。従来は排他的な性愛的パートナーシップを経て家族形成に至って初めて得られる子供の一次的社会化機能と大人の感情的回復機能が、今後はシェアハウスなどを舞台にした「変形家族」で調達されるようになるかもしれない。従来なら、性愛的パートナーを見つけられないことは、家族形成ができず、将来は孤独に老いて死ぬことを意味しがちでした。今後は性愛的パートナーシップを経由しない「変形家族」が浮上し得る以上、童貞20代の将来が暗いとは断言できません。

とはいうものの暗い予想面もあります。男女に共通しますが、現状「面倒くさいから異性と付き合わない」と言う若い人に、「じゃあずっとそうしていくの?」と尋ねると、確かに「いずれは性愛的パートナーが欲しい」「いつかは結婚します」との答えが返ってきます。でも目的手段の整合性を考えると、この希望的将来計画は実現不可能です。良い性愛的パートナーを見つけるには試行錯誤が必要で、特に過剰流動的なポストモダンでは、試行錯誤を通じて〈関係の唯一性〉を構築しないと関係の持続可能性が疑わしい。なのに、10代後半から20代までになすべき試行錯誤から退却しておいて、パートナーが欲しくなったら棚ぼたから落ちてくるなどと考えるのは、馬鹿です。でも冒頭で言ったように10年後や20年後に経済や政治や社会がどうなっているか分からず、それどころか近々に天変地異が起こるかもしれないのであれば、あるべき性愛関係について真面目に考える気力が起こらないのも分かる。そういう方は、性愛的パートナーシップを前提とする「典型家族」を諦め、シェアハウス的な「変形家族」に向けた準備が必要です。それも無理なら、孤独に死ぬ覚悟をして下さい。その覚悟をせずにダラダラ生きるのは真剣さを欠いています。




―真剣さを欠いた状況というのは、確かに万事につけて言えることかもしれません。同時に『男らしさの快楽』にもあるように、男性が生きる上での指針を欠いた状況である、ということも指摘できるのではないかと思います。先程の話と重複しますが、かつてであれば、男性なら男性の人生設計のモデルといったものがあり、それを一つの指針に将来を考えるということができましたが、経済状況や環境の変化により、かつてのモデルが失効してしまった現在、よくいえば「男だから」とか「女だから」とかを抜きに自分らしく自由に人生設計を行える一方、宮台さんが言うところの「終りなき空回り」、ある種のアノミーに陥ってしまう人達もいるのではないかと思います。

この状況に対し『男らしさの快楽』では「指針なき時代の指針」として同性間における「とりあえずの連帯」が戦略として掲げられています。これはつまり「とりあえず男らしく群れる」中で、男らしさの「正機能をできる限り継承し、負機能をできる限り排除するような、社会的関係性を構想すべきである」というもので、現状においては、非常に効果的な策ではないかと思います。しかし、ここにも問題があり、そもそも現状で自足している人達をいかにホモソーシャル(真性)に誘致してゆけるのか、という問題です。あえて抑圧的な場に参加するよりも、もっと安全に快を得られる場が他にあるのであれば、そちらに行く方が確かに合理的なんですね。




宮台 そう。そこで第一に問題になるのは、絆のある性愛パートナーシップが、合理性の枠内では形成できないことです。期待水準と願望水準を分けましょう。期待水準は、現実経験の学びを経て構築した、現実に期待する程度。他方、願望水準は、成育過程で多様なロールモデルを目にし、友人やメディアから情報を得ることで、現実化可能性はさておき、自分としての自分が抱く「こういう関係を持ちたい」「こういう恋愛をしたい」という願望の程度。期待水準は現実予想です。願望水準は夢です。現実は夢とは違う。だから、期待水準と違って、願望水準を殊更に意識すると辛い。とすると、現実に可能なことだけ期待して生きるのが楽です。夢と現実の落差に落胆せずに済むからです。僕は〈虫のような生き方〉と呼びますが、彼らには性愛の最も豊かな核心は味わえません。12世紀以来の欧州史の中で養われて19世紀に花開いたロマンチックラブ(ロマン主義的な性愛)の最も美味しい果実は、味わえないのです。そのことを知る者は「見果てぬ夢を見ない方が合理的だよ」などとは言いません。なぜ言わないのか。

そこに関係してくるのが「幸せ」です。「幸せとは何か」が第二に問題になります。日本で幸福度調査というと、毎年行われる国民生活選好度調査、つまり満足度調査を意味します。「市場や行政が自分たちのニーズを満たしているか」を調査します。「便利で快適か」の調査です。歴代の内閣はこれと大差ないものを「幸福度調査」と呼んで繰り返してきました。ことほどさように「幸せ」を「便利や快適」から区別できない国民も珍しい。「幸福と尊厳」には「便利と快適」と違う超越的な響きがあります。そのことは「便利で快適だけど幸せじゃない」という言葉遣いができることからも伺えるはず。数学的比喩を使えば「便利と快適」は実数(リアルナンバー)で、「幸福と尊厳」は虚数(イマジナリーナンバー)。人生は実数空間と虚数空間によって張られる複素数空間です。

そして恋愛こそは複素数空間的なものの典型です。平穏無事で快適な関係は濃密な恋愛を意味しません。18世紀末以降のフランス恋愛文学は、ラクロの『危険な関係』がそうですが、関係が地獄の煩悶や葛藤を抱えるからこそ愛が証(あかし)されるというビジョンを反復します。そこには、不可能だから断念するのでなく、「不可能だからこそ前に進め」という奨励があります。「不可能だからこそ前に進め」という奨励。それがロマン主義です。だからロマンチック・ラブとは「不可能だからこそ前に進む」「不条理ゆえに我信ず」的なもの。「幸せ」を「便利と快適」から区別できない輩は「幸せ」になれないし、区別できない輩が日本人に溢れるから国際的な幸福度調査での順位が80位台とか90位台と低いのでしょう。同じく「幸せ」を「便利と快適」から区別できない輩には、相手を〈世界〉に唯一の特異点として認めて永久に寄り添おうというロマンチック・ラブは無理であり、従って近代社会における絆のある性愛的パートナーシップの構築は無理です。

「非性愛規範が性愛規範を飲み込む」若い世代。「見栄と沽券が性愛的退却を動機づける」草食系男子。論理的に彼らは「幸せ」概念を「便利や快適」から区別してないことになる。「現実はしょぼいから人生もしょぼい」のなら生きる甲斐はありません。不可能な夢によって現実を「見立て」て生きる。それが人生です。見立ては見立てに過ぎぬと分かっていても、否、分かっていればこそ、現実を「見立て」る。それが人生。ロマンチック・ラブの意味論は12世紀来の伝統しかないけど、当初から超越と崇高をめぐる宗教的意味論の、紀元前5世紀以降の流れを前提にします。それを踏まえれば、性愛に限らず、不可能な夢で現実を「見立て」て生きるのが、エデンの園で知恵の木の実を食べた人間の、〈虫のような生き方〉と区別された〈人のような生き方〉。この現実を生きる上での伝統的なやり方なのです。現実に期待可能なことしか期待せずに生きる作法は合理的に見えて、人を幸福にしないことが予め分かっているという意味で実は合理的じゃない。そうした理解は、エデンの園を引き合いに出したようにユダヤ・キリスト教的な唯一絶対神があるところでは、自動的に学べます。日本にはそうした伝統がないかわりに、ムラ的共同性や体育会的ホモソーシャリティが、複素数空間を述べ伝える伝承の場になってきた。そうした場が失われたことが、期待できることしか期待しないという「不幸」な生き方の背景です。


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