宮台真司 ?コイトゥス再考? 泥沼のマスキュリニティ 3

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■ 「 楽 園 」 な ら ざ る 〈 楽 園 〉




―いわゆる昭和的な、古式ゆかしき男女観によって描かれた映画作品や文学作品というものも数ありますが、そういった作品の中で描かれているものがまさに「不合理だけど幸福」というものですよね。男はムダにえらそうで、女はムダに健気で、今の視点からはおかしなことばかりだけど、全体としては非常に幸福な世界に見えたりする。もちろん、それらは飽くまでもフィクションですから鵜呑みにすることはできませんし、そういったものに対して冷静な視点で抑圧や差別の構造を確認していく作業も重要だとは思います。「男だったら」「女だったら」といった、強固なジェンダーロールは一方で非常に抑圧的でもあるわけです。しかし、ジェンダーというものがある種の超越論的仮象、現代人にとって越え難き虚構である以上は、そこに対してなんらかの「見立て」もまた必要となってきます。そこで肝要となってくるのは、宮台さんの言葉をお借りするなら「必要な虚構と不要な虚構を見極め必要な虚構にコミットする」ことだと思うのですが、いかがでしょう?




宮台 ポイントはそこです。迂回しますが、かつて青木やよひさんが日本にイヴァン・イリイチ流のエコロジカル・フェミニズムを紹介した際、上野千鶴子さんが「ラディカル・フェミニズムから見てもマルクス主義フェミニズムから見ても、利敵行為だ」と批判しました。それに対し、僕の師匠の一人、見田宗介さんが「浅薄すぎる」として上野千鶴子さんを新聞で批判しました。ちなみにイリイチはこう言います。男女差別批判者は「男女は『同じ人間』なのに社会的扱いが異なるのは不公正だ」と告発する。だが『同じ人間』という範疇は人類史上、自明ではない。「男女といえど『同じ人間』」という発想をセクシズムと呼ぼう。セクシズムの蔓延で全てがフラットになり、フラットな空間上での優劣だけが問題になった。かくして男女間の社会的扱いの区別は「男は優位、女は劣位」と再コード化された。だが「男は優位、女は劣位」という観念の解除は「男女といえど『同じ人間』」というセクシズムを必要としない。何が必要なのか。ヴァナキュラー・ジェンダー(土俗的性別観念)である。何万年と続いた部族的段階の原初的社会に男女の優劣はなかった。かわりに男女を『同じ人間』として位置づけないコスモロジー(聖なる意味論)があり、かつ男には男の、女には女の、コスモロジーがあった。男のコスモロジーと女のそれは異なり、どちらかで社会が覆われることはなかった。近代は「男女といえど『同じ人間』」とフラット化=比較可能化した上、優劣をつけた。抗う側も「『同じ人間』だから等しく扱え」と主張し、「同じ人間」という言葉を使うことで「汎男性化というフラット化」を帰結した。そして我々は不幸になってしまった。

イリイチの見方は妥当です。でもそれが近代にもたらす処方箋は「価値の序列づけを排除した上、男女間の社会的扱いの区別を保存せよ」となります。これは問題です。なぜならば、価値序列の解除が困難である以上、「価値序列を排するためにこそ社会的扱いの区別をなくせ」とする戦略しかなく、ゆえに「男女間の社会的扱いの区別を保存せよ」というイリイチ的主張は、価値序列の解除を企図する運動にとって利敵行為になるからです。それが上野千鶴子の主張です。論争が起こったのは80年代半ば。僕は上野千鶴子さんの言うことをもっともだと思いつつ、「浅薄すぎる」と批判した見田宗介さんに共感しました。どちらが正しいかは本質的に難しいけど、ポストモダン化が進み、様々な事物の再帰性---着脱可能化---が進むほど、見田さんの方が「やはり」正しかったと思うようになりました。周知のように、ポストモダン化に伴ってフェミニズムが世界的に退潮してきました。フェミニズムが無効だったのではなく、逆に有効だったがゆえにポストモダン化(着脱可能化)を推進し、役割を終えた」ということです。かくして今はもっと別の課題があるんじゃないかと人々が思い始めた。そう。何もかもフラットで着脱可能になったとき、どうすれば幸せに生きられるか。終わりなき日常の問題です。

「終わりなき日常」の問題は僕が95年のオウム事件の際に提起し、「意味から強度へ」という処方箋を出します。概略はこうです。1950年代までは〈秩序〉の輝きがあり、60年代から70年代までは〈未来〉の輝きがありましたが、70年代後半に〈未来〉の輝きが消え、フラット化した意味空間における〈自己〉のホメオスタシス(恒常性維持)が課題になる。そうした時代は、どんな崇高な世界理念も、所詮宮台がポジションどりのために言ってるだけだろうと脱臼されてしまう、辛い時代です。その意味でフラット化は辛い。男女平等であれ、民族平等であれ、平等が単にフラットを意味するならば、単純につまらないんです。例えば戦間期。大正ロマンから昭和モダンへの流れを眺めると、エログロナンセンスにせよ、新宗教運動にせよ、江戸川乱歩にせよ、光と闇が織り成す眩暈に満ちていました。一方で、急速な近代化や都市化が進み、他方で、因習や規範がまだ色濃く残っていました。つまり光のクレシェンドと闇のデクレシェンドが交差する時代でした。そこでは、足元に江戸時代以来の色街が相変わらず栄えていたからこそ、凌雲閣(浅草十二階)が輝きました。因習的な考え方が色濃く残っていたからこそ、普通選挙運動や女性解放運動が輝きました。今思い起こせばこうした平等運動や解放運動は、クレシェンドとデクレシェンドの交差の一翼を担うことで、社会の輝きを増していました。フラット化が将来の必然として約束されていたとはいえ、遠い未来の話でした。

枢軸国にせよ連合国にせよ、同じ戦間期といっても、「混沌の時代」である前期の1920年代と、「統合の時代」である後期の30年代は、明瞭に区別されてきました。「光のクレシェンドと闇のデクレシェンドの交差がもたらす眩暈」と言いましたが、「混沌の時代」である1920年代にいっそう当てはまります。江戸川乱歩は『押絵と旅する男』などによって、川端康成は『浅草紅鯨団』などによって、「混沌の時代」から「統合の時代」への転換に抵抗しました。粋人を気取る川端は、銀座より浅草のほうがずっと良いと評価しましたが、銀座が浅草よりモダンではあってもフラットだったからです。日本文化史上の「モダニズム」とは、単にモダンを推奨する近代主義でなく、プレモダンとモダンの交差の織りなす光と闇の迷宮を愛でる構えだったのです。今となってはこうした構えは、過ぎ越してきた時代の記憶を想い返す感傷に過ぎないと言われれば、その通り。とりわけ1992年頃つまり冷戦体制終焉から、今日まで続くノスタルジー・ブームは、全てがフラットになってアウラが消えた時代を生きる者たちが、光と闇の迷宮の中でアウラが満ち満ちていた時代を回顧するものです。回顧はこれすなわち「いいとこどり」で、戦間期の諸混乱を想起すれば判るように、真に受けるに及びません。でも、今を生きる自分たちが、なぜこんなにもつまらないのかという「終わりなき日常」問題を理解するには役立ちます。

同じことを、性別役割規範による抑圧からの解放を唱える運動についても語れます。かつてマスキュリニティはフェミニティにさして劣らぬ広汎で逃れ難い抑圧でした。その時代には、解放=光のクレシェンドと、抑圧=闇のデクレシェンドの交差が織り成す、とてつもない濃密さがありました。解放運動は、たとえそれ自体がイリイチの言うセクシズム---「男も女も『同じ人間』だ」云々---に軛されていたにせよ、濃密の空間の一翼を担っていました。ところが、解放運動が成果を挙げたがゆえにこそ、性別役割規範による抑圧がもはやかつて程ではないと相対化されるようになります。そうなると、生まれたときからこうした相対的にフラットな空間を生きてきた若い世代にとっては、解放運動はもはやかつての意味での解放運動でなくなり、単に運動団体や運動コミュニケーションの中に立ち位置を見つけて〈自己〉のホメオスタシスに淫する類の承認運動に過ぎないものに近づいていくわけです。誤解を恐れず卑近な例を示すと、人形浄瑠璃の世話物の昔から「障害のある愛こそ最も盛り上がる」と言われてきました。何の障害もないフラットな愛は恋愛の体をなさないという認識です。先に触れたように、〈世界〉における唯一性を観念させるような恋愛は、実数と虚数の複合からなる複素数です。虚数の「虚」imagimaryとは「想像的」という意味です。障害に抑圧された恋愛は、抑圧されていればこそ「もし抑圧さえなければ」という反実仮想によって想像的imaginaryなもののテンコモリになります。抑圧がなければ、あるがままの、しょぼい現実(しょぼい男としょぼい女)しかありません。かくして、マスキュリニティ問題は、ジェンダー的抑圧問題一般と同様、非常に難しいところにきている気がします。




―はい。抑圧的ではあるけどドラマティックな社会が良いのか、あるいは抑圧や差別がなくフラットではあるけど退屈でしょぼい社会が良いのか、いずれかを選択するというのは非常に難しい問題です。ただ少なくとも現状の社会構造において後者を選択するとなると、様々な場面である種のシステム不全が生じてしまいます。このような状況に対し、『男らしさの快楽』においては一章を割いてホストの生態を分析し、ホストのジェンダーパフォーマンスに倣ってジェンダーを着脱すること、「男らしさ」を場や局域に応じて「衣装」のように着替えることが推奨されていました。




宮台 そうですね。着脱可能というのは両義的です。一方に、入れ替え可能な部分品でどうでもよいものという、ポストモダンな否定的意味があります。他方に、敢えて選んだ不自由によって想像的imaginaryなものを増幅させるという、ポストモダンなフラットさ---入れ替え可能性---を乗り越える作法という肯定的意味があります。まず、この両者が表裏一体で「いいとこどり」ができないことに注目する必要があります。また見田さんを引用します。男女雇用機会均等法が施行された1985年から十年経って、女子短大生と女子大生を中心に専業主婦願望の再上昇が観察されました。これを伝統回帰だと批判するフェミニストを退け、「専業主婦しか選べない時代に専業主婦になるのと、どちらの道も選べる時代に専業主婦を選ぶのとは、天と地の差がある」と見田さんは言いました。これはカール・マンハイムが「保守主義は、伝統主義ではなく、再帰的伝統主義(という意味での合理的近代主義)だ」と喝破したのを継承しています。でも再帰的な「敢えてする」意識は、時が経つとルーティン化によって風化します。実際、日本の思想史や文化史を振返ると「敢えて」が「ベタ」になる動きの繰返し。僕は「メタからベタへ」と呼びます。

再帰性を維持させる社会的装置があるか否かが、問題になります。現状を見る限り、まだ実現が難しいです。『男らしさの快楽』でホストや性風俗の界隈が参照されること自体が困難を示します。これらの界隈は性的なものをサービスとして売る場。演技の上手さに値段が付く演技空間で、演技をするのはプロだから、当然ながら演技は着脱可能で入替可能です。でも僕らの日常はそんな強い演技圧力がなく、着脱可能性は高くありません。ただ、可能性として言えば、先進国の中でそこまでいく可能性が最もある国が日本だと思います。強い宗教性に裏打ちされたジェンダー規範がないからです。同性愛差別が典型ですが、日本のジェンダー規範を支えている圧力は内容的な信念ではなく、空気による同調圧力です。ルース・ベネディクト流に言えば、罪ではなく恥。空気さえ変わればどうとでもなります。

ただし同調圧力は、地域でも、会社でも、家族でも、趣味サークルでも、カップル空間でも働きます。それぞれの空間内で同調圧力は多重、かつ場合によっては別方向に作動します。それゆえ「空気さえ変われば」…は「言うは易し、行うは難し」で、特定の場の空気の変更可能性は未知数です。例えば、ジェンダーロールを自在に着脱するホストが、逆にそれゆえに会社の場では「信用できない奴」という評価をされたりします。ロール・コンフリクトが起こりやすく、それゆえ、ホスト的な素質のある人間が、コンフリクト・リスクを恐れて演じられないことも起こり得ます。これらの困難を克服して、ホストみたいに着脱可能なジェンダーを実現したと思えても、飽くまで「ごっこ」ですから、やがてルーティーンになった暁には再び退屈が訪れます。さっき再帰性という言葉を使いましたが、再帰性のステージには「濃密さを目指して敢えて不自由なものを選ぶ」という契機が入らなければなりません。着脱可能性は単に何でも選べるという次元の話ですが、今僕が申し上げているのは、選べないものを敢えて選ぶという、先に述べた想像的imaginaryな次元の話です。可能性を意識しつつ選ぶのでなく、不可能性を意識しつつ選ぶこと。残念ながら社会学における差別論はこうした問題を意識しません。

90年代の初頭、AV男優だったバクシーシ山下が監督としてデビューし、「女犯」シリーズを撮り始めた頃、彼を取材しました。彼の意図は身障者のセックスを撮影した作品に典型的に現れます。取材にこう答えました。自分は岡山市郊外の平凡なサラリーマンの息子で、平穏無事に育ったが何もドラマがなかった。だが障害を抱えて生きる者や差別される者を見て、可愛そうだと思うと同時にマイノリティには濃密なドラマがあると感じ、カメラに収めたくなったと。同時期、オウム事件が起こった直後に僕は『終わりなき日常を生きろ』を上梓しましたが、その本の主題と通じる重要なモチーフを山下監督が先取りしています。選べなくて専業主婦であるのと専業主婦を敢えて選ぶのとは違うと言いました。似ています。全てフラットになった希薄な状態で、濃密さを求めて何かを再帰的に選択するとき、人はとんでもないもの---非再帰的段階では指弾の対象だったもの---を選択しがちであること。これは山下監督独特のモチーフですが、実はかねて反復されてきています。ニューウェイブSFと呼ばれる流派を代表するJ・G・バラードの小説などです。例えばクローネンバーグ監督が映画化した『クラッシュ』。全てフラットになった希薄地獄で、未来の人間たちは、敢えて自動車衝突事故を起こし、破壊された車内で血みどろになって性交します。希薄地獄の中、敢えて何でも選べるとしたら、狂った選択を再帰的に行うのが人間だということ。その意味で人は壊れているのです。

旧約聖書の創世記冒頭、エデンの園にいたアダムとイブが、蛇に唆されて知恵の木に実る果実を食べ、善悪判断の自由を獲得して、原罪を背負います。その意味は、神でもないのに人が行う善悪判断は必ず間違っているということですが、この間違いの中に『クラッシュ』的な錯乱も含まれるでしょう。知恵の木の実を食べるまで、人間は他の動物と同じく自足的に〈虫のように生きて〉いました。現実に期待できるものだけを期待し、想像的な不可能性を願望しませんでした。そこには人間が問題にするような幸せも不幸もありません。それが「楽園」の意味です。逆に言えば我々は「失楽園」により、「原罪=善かれと思って過ちを犯す自由」を手にしたことで、幸せと不幸の観念を手にしました。だから人が追求するのは、「楽園」ならざる〈楽園〉です。一度全てフラット化した後、希薄地獄に耐えかねた者が、再帰的に濃密さを求め、とんでもないものを選ぶことによって出来上がるのが〈楽園〉です。

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宮 台 真 司 氏 ・ 関 連 書 籍