宮台真司 ?コイトゥス再考? 泥沼のマスキュリニティ 4

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■ 現 実 を 複 素 数 と し て 生 き ろ





―「男らしさ」を状況に応じて着脱するジェンダー「ごっこ」は、たとえ実現したとしても、それが反復され、ルーティン化することで、結果として白々しいものに、要は再び退屈になってしまう、あるいはたちまちベタに転化してしまうというのは、見逃すことのできない重要な点です。その上で濃密さを求めていくのであれば、ある種の決断主義というか、取り返しがつかない選択をしていかなければいけない、と。




宮台 そう。だから、知恵がないと勘違いします。今時の女子大学生が「敢えて専業主婦を選択」したとして、上手くいくかと言えば、いかないと思います。なぜなら「他の条件が昔と等しければ」の仮定が、現実には満足されないからです。つまり専業主婦にだけ再帰性が訪れるのではなく、全てのものに再帰性が訪れて可変的になってしまうからです。かつてであれば自明性の中に生きれば専業主婦でいられた。今は専業主婦として生きるということは、何もかもを再帰的に選択しながら生きなければならないということです。夫婦の分業然り、子供の教育然り、老親の介護然り。選択、選択、選択。一日中選択を迫られます。ならば選択をしないという道があるかと言えば、選択をしないのもまた選択ということになる。同じことで、今日のポストモダン社会で、再帰的に「男らしさ」を選択するとして、それが持続可能か。つまり選択、選択、選択の嵐に耐えられるか。楽天的なことは言えませんね。

冒頭に申し上げたように、今日も蔓延する多様な抑圧ゆえに、孤独感・疎外感などに苛まれる余裕のない人々が大勢います。でも、誤解を恐れずに敢えて言えば、そうした人にとっても、毎日がフラットでつまらないという退屈感こそ最も恐ろしいということがあり得る。それがハイデガーの問題設定でした。僕の言葉で敢えて言えば、「社会がどんなによくなっても、それだけでは人間は幸せになれない」という主意主義的=右翼的な問題設定です。それだけでは幸せになれないといして、人は何を付加するのか。多くは、反社会的な狂ったものです。これは人倫的に推奨できません。どうすれば良いのか。先程も申し上げたように「見立て」を通じた感情惹起しかないと思います。それを僕は長らく薬物に喩えて「アッパー系からエモーション系(多幸系)へ」と呼んできました。目標は濃密さの獲得ですから、ルーティン化に抗って巧妙に「見立て」なければいけません。例えば、着脱可能な衣服をしまうワードローブのようなものだと「見立て」てしまうと、軽過ぎてすぐにルーティン化しがちです。もっと真剣な、場合によっては命がけのコミットメントがある「かのように」お互いを「見立て」られる仕掛けを作らなければいけません。

他方、「見立て」に必要なロールプレイ(役割演技)は、疲れるものや無理があるものではダメです。絶えずハイテンションで演じ合うというようなものは持続可能性の点からNG。容易に着脱可能でなく、着たら簡単には脱げないような衣装でなければいけません。その衣装は、しかし絶えずハイテンションでいないと着用し続けられないようなものでも、ダメ。ワードローブに喩えれば、多分そうした生き方しかないです。

先にも述べたように、若い世代の似非ホモソーシャルな空間を見ていると、キャラを演じることやKYを気にし合うことを含めて、非常にハイテンションな演技空間になっています。それ自体が悪いと言うのではなく、問題はハイテンションな演技をしないということが選べないことなのです。演技がオブセッシブ(強迫的)になっていて、戯れている感じがしないのです。「見立て」がそのように追いつめられたものであっては、もはや「見立て」とは言えません。「お前もハブにされるのが怖いから、合わせて演技しないではいられないだけだろう」と互いに思い合う状態は、やはり良くないでしょう。




―全てが「敢えて」の砂漠状態の中では、その無根拠さを隠蔽するためにも極めてハイな演技を要求されてしまい、持続可能な関係性を築くのが困難である、という状況は我が身を振り返っても思い当たるところが多くあります。ただ、その困難さの一つの要因として、砂漠への認識が甘い、ということを指摘できないでしょうか。再び草食系の例で恐縮ですが、先程も述べたように彼らは半面において古典的な男性性を内面化しつつ、もう半面において社会に諦観しているといった感じがあります。また他方で「いつかきっと」といった淡い願望も抱いている。まだ「見立て」る手前にいるような気もするんです。まずは「いつかきっとなんてありえない」という絶望、フラットな砂漠への強烈な認識があって始めて、「再帰性」や「見立て」の領域に入っていけるんじゃないかとも思うのですが。




宮台 そう、僕的に言えば〈絶望が足りない〉。それに近いことを、かつて淀川長治さんがベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』を批評した際に仰っておられた。〈世界〉も〈社会〉もただの砂漠。だから「見立て」て生きるしかない。むろん「見立て」て生きたからといって結局はどうにもならない。演じることは不可避だけど、演じたとて所詮は何も得られないことが判っているという逆説。この逆説だけは日本の男にゃ分からないんだろうなと。慧眼という他ありません。そう。「見立て」なければ単なる退屈砂漠=希薄地獄だが、「見立て」たところで本質的なことはさして変わらない。ただの退屈と、「見立て」による若干のざわめきのある退屈と、どっちがいいのかって話です。自明な話です。

僕が教えている大学院にも高齢童貞は結構います。そういうのがいる一方、「ヤラせろ」って言えば簡単にヤラせてくれる女子も昨今は珍しくない。女子がナンパ馴れしているので、ナンパの敷居はかつてよりずっと低く、成功率もずっと高い。そんな状況だから、高齢童貞であることが、アンラッキーというより、単なる臆病な自意識の問題だと感じられてしまう。高齢童貞の人たちも、セックスしようと思えば幾らでもできる環境です。ならばセックスできないのは要するに本気じゃないからです。そんなことに本気になるまでもないと思っている。それが「甘い」ということなのです。まあ、本気にならずに済む程度なら、それはそれでいい、好きにして(笑)。ただ、やはりそれは「退屈」を---「終わりなき日常」を---ナメてるんじゃないか。退屈砂漠を見て見ぬ振りしてるんじゃないか。見ぬ振りをやめて直視してほしいのです。さもないと必ず〈世界〉によって復讐されます。退屈砂漠を---希薄地獄を---直視すれば、もはや「見立て」しかあり得ないことが、すぐ判る。ならば「見立て」る他ない。実数だけでなく、実数と虚数をジョイントした複素数として現実構成すべきです。「幸せ」が欲しいならそれ以外ありません。とはいえ現実を複素数として生きれば「幸せ」になれるというわけでもない。もしかしたらずっと「幸せ」になれないかもしれない。結果として「幸せ」になれなかったとして、それで自分の人生は失敗なのか。〈ここではないどこか〉があるのではと希求し、最終的には〈どこかに行けそうで、どこにも行けない〉ことを確認する人生。若松孝二監督が1965年から描き続けたように、それこそが濃密な人生というものじゃないでしょうか。

そうは言うものの、今は「社会に向けて」処方箋を出すのが難しい時代です。以前なら「ナンパできない自分から、ナンパをできる自分にシフトすると、いいことが沢山ある」と言えましたが、そうした時代は過去のものになりました。「ナンパできない自分から、ナンパできる自分にシフト」しても、〈世界〉はナイスにならないし、当人もナイスな男にならない(笑)。かつては「童貞くんが非童貞くんになると一皮剥ける」ということがありましたが、経験的に見て今はそうなりません。自分の身近にいる人にそれなりに「幸せ」になって欲しいというところから出発するべきだと思います。そうすると、アイツにはコレを言おう、コイツにはアレを言おう、という具合に、「人を見て法を説く」ような個別の実践しかなくなります。今の僕がそうです。だから一般的には「男らしくあれ」とも「男らしさなんて捨てろ」とも言えません。

何もかもが自己に帰属されて脱臼させられる〈自己〉の時代。そして、そうした〈自己〉が市場で売り買いされるシステム生成物に過ぎないことを誰もが知っているポストモダン社会。選択の前提もまた選択されたものに過ぎないという再帰性が至るところに蔓延するがゆえに、再帰性の泥沼が自意識をこじらせてしまいます。喜びにも既視感があり、悲しみにも既視感があり、それが本当に喜びなのか悲しみなのかも分かりません。それが自分の欲望なのか、他人の欲望なのかも分かりません。そんな中で全てがスバゲティ状態になり、ますます感受性が鈍麻します。それが「スーパーフラットになった」ということです。いろんなところで空回りが生じ、カラカラカラカラと音を立てています。過剰な社会運動家も、過剰なフェミも、過剰なカルスタも、過剰な右翼も、そして過剰な性愛野郎も、今はカラカラ廻ってる奴にしか見えません。それが「退屈砂漠であり、希薄地獄である」ということです。




―そのような状況の中で、マスキュリニティやジェンダー、あるいは性愛といったものをただ問うていく試みが一体何を意味するのか、宮台さんが冒頭で述べていたことが、最初とは異なる意味で重く感じられます。いまのところ「敢えて」問うとしか言えませんが、あるいは、これも一つの空回りなのかもしれません。そういった困難さへの気付きも含めて、本日は非常に勉強になりました。ありがとうございました。



宮台真司

1959年仙台市生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。近著に『中学生からの愛の授業』(コアマガジン)、『宮台教授の就活原論』(太田出版)、『愚民社会』(大塚英志との共著・太田出版)がある。

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