樋口ヒロユキ ソドムの百二十冊 #24 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』

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第二十四回

ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』



★俗流化していくフロイト理論



 母を犯し父を殺すオイディプス王の物語。この物語を手がかりに、フロイトはエディプス・コンプレックスの概念を導き出した。母親に対する近親相姦的な愛情と、父親に対する憎しみが入り交じった感情。このもつれあった感情の抑圧こそが神経症の原因だと、フロイトは考えたのである。
 事実、彼の診察した患者たちは、こうしたコンプレックスを自由に話せるようになるに連れ、症状が快癒していった。かくてオイディプスの物語は、あらゆる人の心に潜む、普遍的な神話とみなされるようになった。誰のどんな行為であれ、その背後には必ずオイディプスの神話が隠されていると、フロイトの後継者たちは主張したのだ。


 こうしたフロイト一派の主張は幅広い人々に受容されると同時に、粗雑化していくことになる。子どもが遊ぶ機関車はパパの男根、機関車が入る駅舎はママの母胎、子どもの機関車遊びはオイディプス神話の上演といった具合である。
 フランスの哲学者のジル・ドゥルーズと、精神分析医のフェリックス・ガタリが「ドゥルーズ=ガタリ」の連名で書いた『アンチ・オイディプス』は、こうした俗流化したフロイトのオイディプス理論を、真っ向から批判した大著である。彼らはこう批判する。フロイトたちは人間の精神を「パパ、ママ、私」の三人が演じる、三角形のホームドラマのなかに封じ込めたのだ、と。


 実際には子どもが機関車遊びをするのは、機関車で象徴的なホームドラマを演じたいからではない。少なくとも、ホームドラマを演じたいという願望「だけ」が、機関車遊びに打ち興じる理由ではない。子どもが機関車遊びをするのは機関車そのものと戯れる快楽を、目や手を通じて味わいたいからだ。俗流化したフロイト理論は、この至極当たり前の事実を隠蔽してしまうのである。
 いや、話は子どもに限らない。乳幼児であれ成人であれ、人は唇や肛門や性器ばかりでなく、手や目や肌などのあらゆる器官を通じて、多様な快楽を味わっている。俗流フロイト理論の性欲一元論は、こうした多種多様な器官によってもたらされる快楽から、なぜか目をそらそうとするのである。



★無限に接続を続ける欲望機会



 しかもこうした欲望の器官は、それ単体で完結するのではない。子どもの手が機関車のオモチャと結合して快楽を生むように、大人の性器は他人の性器と結合して快楽を生む。ドゥルーズ=ガタリはこうした多様な器官どうしの接続によって生産される、多数の快楽に目を向けよと迫る。そして事実ドゥルーズ=ガタリもまた、二人の連名による共同作業でこの書物を執筆している。個人の性欲の一元論で精神を語るフロイト主義では、こうした「接続の快楽」は語れないのだ。
 これは確かに頷ける話で、たとえばこの連載がスタートした当初の掲載誌は『投稿ニャン2倶楽部Z』(コアマガジン)という、かなりハードな投稿マニア向けエロ雑誌である。こうした雑誌の読者諸氏は、日々あらゆるヒトやモノに向けて、欲望の器官を接続して暴走し続けている。


 こうしたエロメディアのコアユーザーたちは、パートナーの性器はもちろんのこと、見ず知らずの異性の乳房、性的な玩具や撮影機材、そしてエロ雑誌やweb上のエロメディアまで、その欲望を果てしなく接続して分裂させていく。さらにその欲望は、他の読者の視線に曝されて再接続され、より微細に枝分かれして暴走する。こうした無軌道な欲望の姿を、とうてい家族の物語の枠内に収めて語ることなどできないだろう。
 いや、話はエロティックな欲望に限らない。こんにち私たちの身体に接続の喜びを与えてくれるのは、性的な接触ばかりではない。目は各種の視覚メディアと、耳はiPodなどの聴覚メディアと、手足はクルマや飛行機と接続し、時々刻々無数の器官で快楽を生産しているのが、私たちの日常だ。人間の身体のあらゆる器官が、日々外部のテクノロジーと果てしなく連結し、快楽を生み出し続けているのが現代社会なのである。


 かくて欲望は個人の体をはみ出し、街の境界や国境をも越えて、グローバルな欲望のネットワークを生みだしていく。機械とも人間ともつかぬ欲望の接続体と成り果てたこうした姿を、ドゥルーズ=ガタリは「欲望機械」と呼ぶのである。
 こうして膨れ上がった欲望を分裂病スレスレの状態で暴走させているのが、我々の生きる資本主義社会だ。もちろん全面肯定すべき状態ではないが、もはや全否定はできないほどに、資本主義は我々の肉体の奥深くまで、しっかりと根を下ろしている。そんな我々の心理状態を「パパ、ママ、私」の三人が演じるホームドラマの構図だけで、どうして説明することができようか。ドゥルーズ=ガタリはそう論じたのである。




★神話はすべてを知っている



 我々の抱える欲望は、無限に接続を繰り返して、多様な快楽を生み出している。だがフロイトという人は、そうした多様なエロスの姿を、なぜか見ようとしなかった。彼は常にオイディプスの神話を通じて、エロスを、心を理解しようとしたのである。
 オイディプスの物語は古くからギリシャ悲劇の傑作とされた、名作中の名作である。フロイトがこの物語に魅入られ、人間のエロスの秘密を見たように思ったのは、無理からぬ話だったと私は思う。だがいっぽうでギリシャ神話の大系にはオイディプス神話以外にも、無数のエロティックな神話が存在する。


 そこではあらゆるエロスのかたちが、これでもかとばかりに語られる。白鳥の姿となって王女を犯し、獣姦を強要した神、ゼウスがその筆頭だ。他者を見失うほどの自己愛に耽ったナルキッソス。人形愛に溺れたピュグマリオン……。ギリシャ神話の登場人物たちは、その器官を獣に、神に、人に、人形に接続して、縦横無尽にエロスを生産してみせる。その姿はまるでドゥルーズ=ガタリの説く欲望機械のようではないか。
 ギリシャ神話のうちでオイディプスの物語だけを特権化して考え、人間のエロスの秘密を暴く唯一の鍵のように考えたフロイトを、ドゥルーズ=ガタリは批判した。彼らは分裂病的に無限に広がる多型倒錯的なエロスの姿を描いたが、そうした多様なエロスの姿は、そもそもギリシャ神話のなかに最初から存在していた。二人の指摘を待つまでもなく、ギリシャ神話は人間の中に潜む分裂病的な欲望の姿を知っていたのである。


 法律どころか道徳や倫理すら整わない古代から語り伝えられた神話は、人間の無意識の大海から生まれた物語だ。神話は人間の抑圧されない無意識を、もっともよく反映する物語なのである。我々は日々多様な文化を生み出しているように錯覚しているが、その実は単に神話の掌の上で、踊っているだけなのかもしれないのだ。






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#43『アンチ・オイディプス』
(著)ドゥルーズ=ガタリ







樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

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【ブログ】少女の掟