樋口ヒロユキ ソドムの百二十冊 #30 『新訳聖書』 岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』

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第三十回

『新訳聖書』
岡田温司 『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』



★わたしが聖書を読んだ理由



 今回からは少し聖書とキリスト教の世界を経巡りながら、エロス・バイブルの世界を漫遊してみたい。この項でまず取り上げたいのは『新約聖書』である。ただし新訳聖書そのものについてすべてを論じていては日が暮れるので、ここでは一人の登場人物を取り上げたい。マリアである。
 とはいっても聖母マリアのことではない。新訳には有名なマリアという女性が二人出てくる。一人は聖母マリア、そしてもう一人はもともと売春婦をしていて、のちに悔い改めたエピソードで知られる「マグダラのマリア」という女性である。


 マグダラのマリアは古来いろんな画家によって描かれてきた女性で、西洋絵画ではお馴染みのモチーフである。ルーカス・クラナッハやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオやカラヴァッジョなどのほか、光と闇の画家として有名なフランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも彼女の像を描いている。
 世に広く知られるマグダラのマリアのイメージは、全身を覆うほど豊かな金髪と美貌を持ち、それゆえに富と快楽に溺れて娼婦となり、のちにイエスと出会って悔悛したという物語である。このため娼婦の守護聖人としてマグダラのマリアは広く崇められており、改悛した娼婦を収容する修道院は、その多くが彼女の名を冠している。


 マグダラは一説にはイエスの恋人であったとも言われるが、そのいっぽうで復活したイエスに近寄ろうとしたところ「我に触れるな」と一喝された場面も有名だ。このシーンは好んで絵画の主題に取り上げられており、その多くでは厳しい表情を浮かべてマグダラを拒むキリストが描かれる。
 聖母マリアと娼婦のマリア、二人は同じ名前でイエスのそばにおり、しかもいずれも現在では信仰の対象になっている。だが一方は無原罪のままキリストを宿した聖母であり、一方は金銭と引き換えに体を売り、最後はキリストに拒まれた娼婦である。聖と賎、処女と娼婦が隣り合うこの構図が、私は以前から気になっていた。
 実を言えば、私が初めて新約聖書を通読した理由というのが、このマグダラについて、もっと詳しく知りたかったからだった。正直な話マグダラのマリアをめぐる、ちょっとエッチなエピソードでも出て来ないかな、などという不届きな期待もあった。いま思うと少々罰当たりな動機である。



★マグダラのマリアは本当に娼婦だったのか?



 結果はなんとも不思議な話で、なんとマグダラのマリアが娼婦だったという記述は、聖書のどこにも出て来ない。娼婦であった記述がないので、改悛する場面もない。そもそも聖書におけるマグダラは非常に存在感が薄く、西洋絵画でよく見る劇的な改悛の描写などどこにもないのだ。
 「我に触れるな」のエピソードもそうで、私はてっきりこの場面は、売春を生業にしていたマグダラのマリアを、イエスが一喝した場面なのだとばかり思っていた。ところが聖書を実際に読んでみると、決してそういうわけでもない。確かにイエスはマグダラに「我に触れるな」と言ってはいるが、それは復活したイエスの姿をマグダラが目撃し、すがりつこうとしたからである。


 イエスの「我に触れるな」というセリフは「自分はこれから天に昇るので、いつまでも私にすがってはいけない」という、いわば慰めの言葉として語られている。いわんやマグダラの職業を卑しめる言葉など、この部分の前後のどこを読んでもまったく出て来ない。そもそも彼女が娼婦であったという記述そのものがないのだから当然だ。いやはや、とんだ勘違いである。
 このほかマグダラが金持ちであったとか美貌で金髪だったとかいうエピソードも出て来ないし、好色であったとか快楽に溺れたとかいう記述も出て来ない。そもそも外見の記述そのもののがほとんどないのだ。美貌を武器に体を売って巨万の富を築き、イエスに一喝されるというマグダラのマリア像は、一体何を根拠にしているのだろう。


 聖書は現在の形の「正典」のほかに、様々な理由で正典から除外された「外典」と呼ばれる文書がある。ひょっとしてこのエピソードは外典の方に出てくるのだろうか。なにぶん新訳だけでも結構な分量があるのに、外典まで読むのはさすがに面倒だ。自分が見落としているだけかもしれない。……などと思い悩むうちに雑事にかまけ、中途半端なまま放り出していた。
 そんな長年の疑問が氷解したのは西洋美術史の研究者、岡田温司の手になる新書『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』のおかげだった。同書によれば新訳には、やはりマグダラのマリアが娼婦だったというエピソードはないという。それどころか外典では、彼女はほかの弟子を上回る活躍を見せているというのである。




★マグダラのマリアが娼婦になるまで



 先に述べた通りマグダラは、復活したイエスを目撃している。そもそもイエスの復活を目撃したのは、マグダラのマリアただ一人なのである。だが、そんな彼女を弟子の一人のペテロが嘘つき呼ばわりする場面が外典には出てくる。マグダラは涙を流して抗議するが、その結果「復活は事実であった」と弟子一同が認めるのである。
 この一連の場面はきわめて生々しく描かれており、正典に出てくる影の薄いマグダラの像とはまったく異なる。つまり彼女がいなければイエス復活の物語は生まれえず、むしろ他の男性信徒によって否定された可能性さえあったのである。しかもこの外典の記述を読む限り、初期のキリスト教団は女人禁制でなく、女性信徒も認めていたことになる。ではなぜ、それほどまでに重要なポジションにいた女弟子が、娼婦ということにされてしまったのだろうか。

 のちのマグダラの凋落は、どうやらほかの男性信徒からの嫉妬心が、その原因の一つとなったようだ。岡田は聖書の正典と外典の記述を注意深く突き合わせ、女性信徒であるマグダラの風下に立つのを嫌ったペテロが、できうる限りマグダラの活躍を認めまいとしていたのではないかと推理していく。つまりは女性への蔑視そのものが、マグダラ失墜の原因になったというわけだ。
 実際、外典ではカリスマ的な活躍を見せるマグダラに対して、男性信徒が書いた新訳の記事は、いずれもマグダラの影は薄い。これは一足飛びにマグダラを否定は出来なくとも、出来うる限りその活躍を小さく見積もろうとする心理のなせるわざだと、岡田は推理を重ねていく。

 そしてイエスの死後から約五百年後、教皇グレゴリウス一世が、こうした動向を加速していく。グレゴリウス一世はグレゴリオ聖歌の名前のもととなったことで有名な人だが、彼はマグダラが罪深い女であるという公式見解を初めて唱えた人物なのだ。
 実はマリアという名前自体は当時からごくありふれた名前で、聖書にはほかにも幾人かのマリアという女性が登場する。ところがグレゴリウス一世は、こうしたマリアをはじめとする登場人物を、すべてマグダラと同一人物であると見なしてしまったのである。強引過ぎて呆れるほかない。




★キリスト教の女性嫌悪(ミソジニー)的傾向



 なかでもグレゴリウス一世は、聖書に登場する「罪深い女」と呼ばれる匿名の女性と、マグダラのマリアとを同一視してしまった。「罪深い女」は「七つの悪霊」に取り憑かれており、これをイエスに追い出してもらったとされる女性だ。グレゴリウス一世はこの「七つの悪霊」を、いわゆる「七つの大罪」と同じものと読み替え、マグダラが七つの大罪を犯したと主張したのである。
 ご存知の通り七つの大罪とは「大食」、「強欲」、「怠惰」、「色欲」、「高慢」、「嫉妬」、「憤怒」を意味する。ここからマグダラのマリアは娼婦であったという俗説、美貌で金持ちだがそれ故に罪深いという彼女のイメージが生まれたわけだ。何の根拠もない無茶苦茶な解釈だが、ともあれこれが彼女にとって致命傷となったのである。


 マグダラのマリアが娼婦とされた経緯を辿ると、恣意的なこじつけや意図的な隠蔽が目にあまり、女性への嫌悪が透けて見えてがっかりする。かつて私はマグダラの娼婦伝説にロマンティックな感情を抱いていたが、本書を一読後はその感情も行き場を失い、宙を彷徨うばかりである。六〇年代後半以降、カソリック教会ではマグダラへの再評価が進んでいると聞く。その名誉の回復が、一刻も早く訪れることを祈るばかりだ。





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『新約聖書』



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岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』






樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

【HP】樋口ヒロユキ

【ブログ】少女の掟



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