樋口ヒロユキ ソドムの百二十冊 #36 工藤庸子『サロメ誕生 フローベール/ワイルド』

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第三十六回

工藤庸子『サロメ誕生 フローベール/ワイルド』



★生者の首を斬り取る少女、サロメ



 キリスト教文化圏における女性嫌い(ミソジニー)の傾向を、もっとも雄弁に示すキャラクターと言えば、まず思い浮かぶのはマグダラのマリア、次いで思い浮かぶのは、ここに紹介するサロメだろう。
 ただし一口にミソジニーといってもいろいろあって、単に「女性が嫌い、怖い」という感情ばかりではなく「嫌いだから好き、怖いからこそ魅了される」といったような、両義性を帯びた感情もある。サロメが表象しているのは、そうした両義性に満ちたミソジニーの感情なのだ。


 サロメはイエス・キリストの先駆者と言われる洗礼者ヨハネ、つまりヨカナンの首を刎ねさせた猛女として知られる。サロメの父はヘロデ王だが、彼女はこのヘロデ王に巧みな踊りを見せて魅了し「お前の願い事ならなんでも聞く」との言質を取り付ける。この言葉を聞いて彼女が所望したのが、ほかならぬヨハネの首だったのである。かくてヨハネは首を落とされ、サロメの捧げ持つ盆に首を載せられることになる。
 このようにサロメは首を狩る恐るべき女ではあるが、いっぽう彼女は異様なまでに人々に愛され、人々を魅了したキャラクターでもあった。実際、十九世紀末におけるサロメの流行ぶりはすさまじく、サロメを取り上げた文学作品は、二〇世紀の初頭でなんと二七八九本にも及んでいたという。工藤庸子の『サロメ誕生 フローベール/ワイルド』は、そんなサロメをめぐる文化史を、縦横に論じた書物なのである。


 本書は不思議な構成を持ち、まずは著者によるサロメ論、ついで著者自身の訳によるワイルドの戯曲、そしてフランスの文豪フローベールが書いた「サロメもの」の短編小説、さらに両篇についての詳細な注解(これ自体がもはや独立した読み物といっていいほどの分量)を収録した一冊となっている。著者の工藤は冒頭の論文で、サロメ伝説のそもそもの始まりであった、新約聖書に遡って彼女のキャラクターを論じている。



★ヘロデ王に聖者の首をねだるサロメ



 新訳によればサロメはキリストが生誕する直前の時期に生きた人物だが、父のヘロデ王とは実の親子ではない。もともと彼女はヘロデ王の妻、ヘロディアの連れ子だったのだ。それではサロメの実の父親は誰だったのか。彼女の父親はヘロデ王の異母兄弟にあたる、ヘロデ・フィリポという人物である。つまりヘロデ王とサロメとは、おじと姪の関係だったのである。
 サロメはどうして異母兄弟のフィリポの許から、ヘロデ王の許に引き取られたのか。実はサロメの母ヘロディアは、もともとフィリポの妻だった。つまり彼女は夫であるフィリポを捨てて、その異母兄弟であるヘロデ王に乗り換えて嫁いでしまったのだ。これは俗に言う「兄弟丼」であって、現代の日本であっても誉められた話ではない。


 で、当然これを批判する聖職者が現れた。この人物こそ洗礼者ヨハネ、つまりイエス・キリストに洗礼を与え「神の国が近づいた」と予言した人物である。ヨハネはイナゴと野蜜だけを食べて生きていたとされるほど厳格な清貧を貫いた人で、当然ながら倫理感は強い。ヘロディアの不品行な振る舞いを知り、火のついたように彼女を非難した。これをヘロディアは逆恨みしたのである。
 ヘロディアは自分に負い目があるものだから、ヨハネの小言が鬱陶しくて仕方がない。夫のヘロデ王に強引に迫って、ついにはヨハネを捕えて幽閉させてしまう。ところがいざ処刑する段になると、ヘロデ王は怖じ気づいて踏み切れない。なにせ相手は苛烈なまでに清貧を貫く人格者であり、しかももともとの非はヘロデ王夫妻にある。これでは躊躇するのが当たり前で、ヘロデ王は言を左右して処刑を引き延ばそうとする。


 ところが業を煮やしたヘロディアは、一計を案じて娘のサロメに、ヘロデ王の前で踊りを踊らせる。サロメの見事な踊りを見たヘロデ王は「お前の望むものなら何でもくれてやろう」と口を滑らせる。そこでヘロディアがサロメに吹き込んだのが「ヨハネの首が欲しい」という一言だった。酔った上での座興とは言え、仮にも一国の王が満座の客を前に約束した言葉であり、王自身と言えども反古にはできない。かくてヘロデ王はヨハネの首を刎ねてしまうのである。



★犠牲者から小悪魔へ、そして妖女への変遷



 ……と、以上が新約聖書に描かれた物語だ。つまりサロメは自分の意思でヨハネの首をねだったのではなく、母のヘロディアにそそのかされ、無邪気に母の言葉を繰り返しただけなのである。ヨハネの首を盆に載せて運んだのも、母に命じられての行為に過ぎない。むしろここから読み取れるのは、自らの虚栄のために年端も行かぬ実の娘さえ利用する、ヘロディアの残忍な性格である。サロメはその犠牲者に過ぎないのだ。
 フローベールの小説も、大筋は聖書の物語と変わらない。タイトルも「ヘロディア」となっていて、この物語の残虐性を担うのがヘロディアであるという前提は、いちおう踏襲されている。ところがフローベールの筆にかかると、本来犠牲者であるはずのサロメの踊りが、なんとも魔術的で蠱惑的なものとなる。しかもその容貌は若き日のヘロディアに生き写しだ。いわばサロメはヘロディアの分身であり、義理の父を籠絡する小悪魔的少女となっているのである。


 しかもこのフローベール版では、踊りのクライマックス部分でサロメが逆立ちを演じてみせる。台座の上に逆立ちで直立したまま、顔だけをこちらに向けて見せるサロメ。その姿はやがて首を切断される、ヨハネの運命を暗示するかのようだ。ここに描かれるサロメはもはや、生首を求める血まみれのロリータまで、あと一歩の距離しかない。
 さらにこれがワイルド版の戯曲「サロメ」になると、もはやサロメは聖者の首を求めてやまぬ、小悪魔どころか夜叉のような妖女へと変貌する。フローベール版があくまで無邪気にヘロディアの意思を代行させられてしまうのに対し、ワイルド版では自らの意思によってヨハネを籠絡しようとし、叶わぬと見るやその首を求めるのである。


 かくして男の首を斬り捕る妖女、サロメのイメージができあがる。今日ではもはやサロメのもとの姿、つまり実母ヘロディアに騙されて殺人に関与してしまった、可憐な少女の姿を知る人の方が少数派だろう。要するにマグダラのマリアと同様、サロメは「濡れ衣」を着せられたわけだ。



★読む者の欲望を呼込む空虚な身体



 ちなみに本書に所収の工藤論文は、フローベールとワイルドの作品を薮睨みにしつつ、それらが書かれた十九世紀末の時代背景や、両者が典拠とする聖書の世界を縦横に駆け巡りながら綴られている。複数のテクストがもつれあう彼方にサロメ幻想を垣間みるその筆致は、フローベールとワイルドの両者がインスピレーションを受けた、オリエントのアラベスク模様さながらの美しさだ。
 なかでも白眉はフローベールとワイルド両者の描く、サロメの踊りの場面の比較だ。フローベールが邦訳にして三頁近い分量を費やして描写するこの踊りの場面は、なんとワイルド版ではわずか一行のト書きのみ。「サロメ、七つのヴェールの踊りを踊る」と記されているばかりなのである。


 恥ずかしながら、私はワイルドの戯曲のなかに、あたかも流麗きわまる踊りの描写があったかのように錯誤して、この場面を記憶していた。工藤はこのワイルドの一行の描写を評して「ほとんどなにひとつ指示しないという意味で、天才的な思いつきだったのかもしれない」と記している。これには私もまったく同感である。
 ワイルドの書きつけた一行は、逆にわずか一行であればこそ、その行間を補完する無限の妄想を呼び込んでしまう。私の脳裏に生まれた記憶違いも、このワイルドの手練手管によるものと言える。つまりワイルドの翻案の凄みは、いかようにも読み手の想像を呼び込みうる、空虚な容れ物としてサロメの踊りを造形したことにあったのだ。


 ワイルドの描くサロメは、自分自身の意思で男の首を狩り取る妖女である一方、いかようにも読者の欲望を受け入れる、空虚な身体としても描かれている。「嫌いだけど好き、怖いけど魅了される」。そんな両義的な女性としてサロメを描く上で、これほど巧みなテクニックもまたとあるまい。
 女性への嫌悪と崇拝両面を兼ね備える両義的なミソジニーの表象として、ワイルドのサロメは文学史上に燦然と輝いている。ただし彼女が放つのは、この上もなく怪しい輝きである。彼女の輝きが照らし出すのは、実は読む者の欲望の姿なのだから。



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工藤庸子『サロメ誕生 フローベール/ワイルド』






樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

【HP】樋口ヒロユキ

【ブログ】少女の掟



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