第四十四回
辻中剛『遊郭の少年』
★遊郭生まれ、ナチス信奉者の軍国少年
さて、遊郭の章の締め括りとして、ここでは一冊の奇書をご紹介しておきたい。作家の辻中剛の手になる『遊郭の少年』という、現在ではほぼ忘れられた小説である。ここまでは基本的にノンフィクションをご紹介してきたが、この本だけはフィクションだ(と思う。ひょっとして作者の自伝的なモチーフが混入しているかもしれないが、実際のところは定かではない)。
この書物を取り上げる理由の一つは、本書で描かれるのが吉原のような官許の遊郭でなく、準公娼地帯であった内藤新宿、つまり現在でいう新宿二丁目のあたりを舞台にしているからである。主人公の少年、前園聖は、そんな遊女屋の一つ「万字屋」を経営してきた一族の末裔だ。この物語は少年の曾祖父の時代、つまり徳川幕府瓦解の時代に始まり、主人公の少年時代、つまり太平洋戦争の戦時下の頃までを主な舞台とする。つまり本書は遊郭に生まれた一少年の「ヰタ・セクスアリス」であると同時に、新宿という準公娼地帯の近代史を綴る物語なのである。
なにせ小説だからどこまで事実かは判然としないが、それでも本書は興味深い記述であふれている。内藤新宿が五十数件の遊女屋から成り立っていたこと。江戸時代でも人身売買は建前上では禁止されていたため、遊女たちは法的には遊女屋の「養女」となっていたこと。にも関わらず遊女たちは養父母に骨の髄までしゃぶられて、歯向かえば拷問にあったこと。徳川時代から明治の頃には遊女屋の土蔵は「拷問蔵」と呼ばれ、そこで遊女への拷問が行われたこと。とはいえ大正デモクラシーの時代を経て昭和に入ると、そんな遊女の待遇も改善され、「生理休暇」や自由な外出も認められたこと、などなど。
そんな新宿の遊女屋に育った主人公は、ヒトラーが政権を獲得したのと同じ年、すなわち昭和八年の生まれである。万字屋の家紋である「卍(まんじ)」がナチスの鍵十字と似ていたことから主人公はヒトラーの信奉者となり、ナチスの腕章を学童服の上から巻き、ナチス式の行進を真似て学校に毎日通う。しかも七五三のお祝いの日に、彼は新宿駅南口の大ブリッジの上から転落し、以来どういうわけか子どもながらに大人の男女の秘事をすべて理解したという、悪魔のようなファシスト少年になるのである。
★捩じれた少年の思想は国家的捻れの陰画
そんな主人公の思想や行動は、捻れに捩じれきったグロテスクなものとして描かれる。当時の少年の例に漏れず天皇陛下を奉じる軍国少年であるにも関わらず「アジアの総統」になることを密かに夢見る誇大妄想。教会の前を通るときには神を冒涜する言葉を吐くのを習慣にするが、彼の敬愛するヒトラー総統がキリスト教徒であることは、都合よく忘れ去っているご都合主義。さらには花園神社の社殿に向かってハイル・ヒトラーの敬礼をし、週番教師から張り倒されるという勘違いぶり。当人はアジアの盟主となるべき大天才のつもりだが、傍目から見れば道化そのものの捩じれた行状を繰り返すのである。
さらにこの少年は、日本神話における悲劇の英雄ヤマトタケルに関しても、彼一流の屈折した解釈を披露する。我らが主人公によればヤマトタケルはゲイボーイよろしく少女に化けて、酔った相手の隙を突いて暗殺した、卑劣きわまりない皇子だという。もっとも彼によれば、こうした卑怯な戦法こそが日本民族古来の偉大な戦術であって、真珠湾攻撃の奇襲もこれに基づくものだ。つまり彼にとっては卑怯さこそが日本の美徳であり「油断する敵が間抜け」なのである。
彼の思想や行動は矛盾だらけではあるが、よくよく考えれば彼の矛盾は、当時の日本が抱えていた矛盾と背中合わせのものばかりである。「現人神」を奉じているにも関わらず、アーリア民族の優越を説くナチスと平然として同盟関係を結ぶご都合主義。男らしさと日本精神を説きながら、その実は真珠湾に奇襲攻撃をかけて恥じない偽善ぶり。少年の抱える思想的矛盾は、実は皇国日本の抱えた思想的矛盾の陰画になっているのだ。そしてこうした矛盾の中でも最大のものが、セックスに対する態度である。時局を理由に遊里ならではの享楽や華美を禁ずる一方で、最前線への性的サービス、つまり従軍慰安婦の供給を行っていたからである。
ご多分に漏れず聖少年の家でも従軍慰安婦の供出を求められるが、その一方で酒は切符制、月に二回は「肉なし日」と定められ、花見の宴会は自粛、華美な服装やパーマ、日本髪も禁止される。つまり当局は一方で性的サービスの供出を求めながら、他方では内藤新宿をはじめとする遊里を、火の消えたような荒廃に追い込んでしまうのである。もっともこうした動向は日本だけでなくドイツでも同様で、ヒトラーは梅毒を忌み嫌い、売春制度を廃止せよと呼号していた。つまりは少年の家業そのものが反国家的なものとして糾弾された時代だったのである。
★禁苑の桜で娼婦の肌を彩る国賊少年
けだし人間というのは矛盾の塊のようなもので、それが二人になり三人になれば、矛盾の振れ幅もそれに応じて大きくなる。国家というのはそうした矛盾の最たるもので、そうした国家規模の矛盾が暴走するのが戦争という現象である。そしてしばしばエロスを売買する場である廓という場所には、そうした矛盾の皺寄せ寄せが集中する。主人公が体現してしまう思想的捻れは、こうした幾重もの矛盾が積み重なった結果なのだ。
もちろん我らが主人公も、そうした矛盾に対して無意識下の苛立ちを感じないはずがない。その苛立ちがぶつけられる先は、より弱い立場にある弱者への虐めである。猿回しの猿をパチンコで撃つ、近所を徘徊する精神病患者を糞尿入りの落とし穴に落とす。しかも偶然とはいえ、彼が虐めた猿や精神病者は、いずれもしばらくのちに死んでしまう。ここに描かれているのは社会的弱者がその苛立ちを更なる弱者に転嫁する、虐待の連鎖の縮図であると言えよう。
そんな聖少年をいっそう苦しめるのは、近所の廓の月夜見楼の娼妓、文枝への恋心だ。主人公は廓の子であり、いくら子どもだからといっても、よその見世の娼妓と情を通わせるのは御法度中の御法度である。しかも時局柄、街を娼妓と歩いているところなどを万一見られることがあれば、教師から血まみれになるほど殴られるのは必定。仕方なく偶然会うのを期待して、近所を徘徊するだけのせつない恋路。婉然と微笑んで喜ばせたと思えば伝法な口調でやりこめる運命の女、文枝との恋を描きながら物語は進む。
興味深いのは我らが主人公、つまり悪魔のようなファシスト少年である前園聖が、この内藤新宿のファム・ファタールの前では、ただの小僧になってしまう点である。文枝は風呂を桜の花びらでいっぱいにして浸かるのを好むが、聖少年はこの花湯に使うための花を求めて、新宿御苑の桜を折り盗ってくる。言うまでもなく当時の新宿御苑といえば、まごうかたなき皇室のご領地である。娼妓の風呂の湯を彩るために御苑の花を折り盗るなど、当時の価値観に照らせば国賊に他ならないはずだが、この皇国少年は禁苑の桜湯に浸かる娼妓に酔い痴れるのである。
★バロック的妄想が炸裂する戦時下のカタストロフ
さらに主人公は文枝の過去の事情を断片的に知るにつけ、複雑な思いを深めていく。主人公の育った見世に、かつて文枝が在籍していたこと。とうに年季も明けているのに娼妓を続けていること。主人公の父曰く文枝は「性質(たち)のいい女じゃなかった」こと……。美しい顔だちの下に、いつも暗い沼のような孤独を秘めた文枝。その過去をきれぎれに知った聖は、やがて文枝の過去についての奇想天外な妄想を育んでいく。妄想はバロック的な捻れを見せながら膨れ上がり、やがて戦況の悪化とともに、怒濤のカタストロフへと突入していくのである。
エロスと経済、そして戦争が三つ巴となって炎上する戦時下の内藤新宿。この暗黒の三角形の中心を突き抜けて疾走する人物こそ、我らが主人公、前園聖少年である。そんな本書の骨格は、ドイツの作家ギュンター・グラス原作、オスカー・シュレンドルフ監督の映画「ブリキの太鼓」を思わせる。また、聖少年が夢想する不毛のエロスと自らの死、そして国家そのものの滅亡という三重のカタストロフは、三島由紀夫の『金閣寺』を連想させるものと言えよう。
とはいえ、本書は単なる先行作品のエピゴーネンではない。本書に用いられる文体はきわめて豊かできらびやかだ。なかでも本土空襲の紅蓮の地獄を描くあたりは、入念なリサーチと相まって圧巻である。凶暴化した野犬の害を恐れた当局が野犬狩りを打ち出したところ、飢えた人々が野犬狩りの駄賃欲しさに犬を乱獲し、都心部から犬が消え失せてしまうくだりなども驚き。後半に描かれる空襲の光景などは、一種の崇高ささえ感じさせるものとなっている。いっぽう構成も極めて緻密であり、中盤に登場する美しい蛍の描写が、クライマックスの大空襲の見事な伏線になる構成には唸らされる。
本書に記されたプロフィールによると、作者の辻中剛は意外なことに戦後生まれで、生年は一九五〇年とあるから、いわゆる七〇年安保世代である。写真家の東松照明の作品「学園の荒廃」にモデルとして登場したこともあるらしく、著者近影にはその一枚が使われているのも興味深い。本書のほかには『恐水病の年』(本名の辻中信介名義で刊行、パロル舎、一九九八)や『エリコ』(Cat books、二〇〇三)といった小説のほか、『敗北書簡』(パロル舎、一九九二)や『偽キリスト論―ドストエフスキー・カザンザキス・永井荷風・荒木経惟をめぐって』(パロル舎、二〇〇一)といった評論集の著作もあるようだ。
★野坂昭如、今村昌平を唸らせた異端文学
本書の帯には「野坂昭如先生、おもしろさ保證(週刊文春)のマイナー文學!!」の帯文とともに「初刷奇蹟的完賣!!」の文字が並んでおり、かなり幅広く読まれたものらしい。映画監督の今村昌平の助監督やプロデューサーを数多く務めた日本映画学校の相談役、武重邦夫によれば、本書は今村昌平監督、石堂淑朗脚色によって映画化される構想もあったという。映画版の予定タイトルは『新宿桜幻想』。残念ながらこの構想は実現しなかったそうだが、もし実際に完成していたら、どれほどの大傑作が生まれたかと惜しまれる。
なお本稿ではラストは伏せるが、最後の最後には見事などんでん返しが用意され、内藤新宿の近代史を語り尽くした物語として本書は完結している。野坂昭如や今村昌平といった大向こうを唸らせた本書だが、残念ながら既に絶版になって久しく、その後復刊されたようすもなさそうだ。どこかの版元によって再版され、再び多くの読者の目に触れることを、私は強く望んでいる。
……さて、というわけで長きに渡ったこの連載だが、今回を持っていちおうの区切りを迎え、終結することと相成った。コアマガジン『ニャン2倶楽部Z』2009年5月号から連載が開始され、2010年12月号でいったん打ち切り。その後はやはりコアマガジンのwebサイト『VOBO』にところを移して2012年1月から連載を再開、2013年11月の今回まで継続してきた。振り返れば足掛け5年に渡って続けてきたわけで、ここまでご愛読してくださった読者の皆さんには、心から感謝申し上げたい。また、当方の無理を聞いてこんな連載を続けてくださったコアマガジンの皆さん、なかんずく編集の辻陽介氏には、どう感謝の言葉を述べて良いかわからない。
惜しむらくは120冊全てをご紹介する前に連載が終わってしまうことだが、どっこい、これで終わるつもりは毛頭ない。いずれ形を改めて皆さんの前に再度登場するつもりでいるので、そのときは是非またご一読をお願いしたい。何を隠そう、実は従前とはひと味違う、新たに生まれ変わった「ソドムの百二十冊」を密かに仕込んでいる最中なので、どうか何卒ご期待のほどを。そんなわけでしばしのお別れではあるが、会うは別れのはじめなり、別れは再開のはじめなり。またどこかで皆さんとお会いできれば幸いである。それではそのときまで、ごきげんよう。
辻中剛『遊郭の少年』
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟