美術評論家・相馬俊樹氏インタビュー 日本のエロティック・アートのある種の傾向

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美術評論家・相馬俊樹氏インタビュー

日本のエロティック・アートのある種の傾向

「近年、エロティックなものに対する信用が下がってきている」


 取材・構成/辻陽介

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先々月(2012年1月)、最新書『魔淫の迷宮 -日本のエロティック・アート作家たち』を上梓し、エロティック・アートの稀有な紹介者として比類なき筆致をふるう美術評論家・相馬俊樹氏に聞く、日本のエロティック・アートの特性、そして現在。




?現実を超えた神秘的世界、超越的世界のようなものにアプローチするためのゲートとしてのエロティシズム


?本日は「日本のエロティック・アート」をテーマに、その世界に深く通暁されている評論家・相馬俊樹さんに、その魅力、背景、シーンの前線などについてお話をお聞きしたいと思っております。まず最初に、エロティック・アートという言葉が指し示すアート作品が、一体どのような性質の作品なのか、言葉の定義も含めてお伺いします。

相馬 エロティック・アートと言っても、それほど明確な定義があるわけではないんです。評論家ごとによって考え方は違うでしょうし、定義、境界線は非常に曖昧でしょう。僕個人の考え、ということであれば、単にヌードであったり、女性の淫らな姿が描かれている作品と、僕がエロティック・アートと呼んでいる作品というのは、もちろん重なる部分はありつつも、ちょっと異なってくると思います。

―では相馬さんの考えるエロティック・アートについて、その条件、峻別の基準などがあれば、お聞かせ下さい。

相馬 まずお断りしておきたいのですが、飽くまでも個人的な基準であるということを言っておかねばなりません。というのも、今の時代、性やエロティシズムというものを主題にしている作家というのが、それに特化しているいないを問わず、かなりの数いるわけです。それら全てを網羅するというの、まず不可能と思います。となると、思考のために何らかの枠組みを設定するしかないでしょう。自分に関して言えば、エロティシズムそのものを主題にしているような作品というのは、実は余り興味がない。僕の場合、エロティシズムというものを、向こう側への入り口、ゲートと考えてるような作品に魅かれます。たとえば現実を超えた神秘的世界、超越的世界のようなものにアプローチするためのゲートとしてエロティシズムがある、そういった意志の感じられる作家さんが好きですね。

―目的ではなく、一つの契機として、エロスが描かれているような作品ということでしょうか?

相馬 そうですね。例えば、昔、セックスマジックと呼ばれていたものがありました。インドのタントラなどが有名ですが、彼らはセックス、エロスを宗教的な修行の中に取り入れていたんです。これはエリアーデという宗教学者の言説ですが、僕たちが性的なエネルギーを快感として現実で使い果たす一方、彼らはその性的エネルギーを超越的世界へ向かうために利用する。性交中の射精の禁止などの戒律もその一例です。射精は現実の快楽(満足感)ですが、そうではなく、射精を断ずることによって、性のエネルギーを現実の世界で浪費するのでなく、天上の世界へアプローチするために利用するわけです。まったく同じではなくとも、アートにおいても似たようなことは可能なのではないかと思うのです。

―日本においては真言立川流などが、その系譜にあるといえますね。

相馬 そうですね。もちろん様々な作品があってよいというのが基本にはあります。エロティックな題材を取り扱って、そのままエロティシズムを表現しようとしている作家さんたちもいて、それを否定するつもりは毛頭ありません。ただ僕がより興味を魅かれるのは、エロティシズムをきっかけにして、異界的なもの、幻想的なもの、いわゆる現実外の世界へアプローチしていけるような作品ということです。僕が本で紹介している6、7割はそういう作品であり、またそういった意志のある作家さんですね。

―一方のエロティシズムそのものが描かれている作品というのは、つまり勃起的な作品、その鑑賞が直接的に性的興奮と結びつきやすいような作品をいうのですか? 

相馬 そこを言葉できちんと説明するのは非常に難しいですが、そもそも昔はアートとしてエロティックなモチーフを描く時には、理屈として逃げを用意しておかなければならなかったんですね。「俺は裸を描いてるけど、これはいやらしいものではなく、美なんだ」と。例えばそういう場合、エロティックな力よいうのは非常に弱められると思います。僕はそういう作品にはあまり興味が持てない。あるいは、行為としてのセックスであったり、性器であったりを過激に表現して、ポルノという、男性的妄想の枠組みすらも超えてしまうようなタイプの表現もあるでしょう。そちらは先程言ったようなものに比べれば関心を持てるのですが、しかし、今はそれほどでもないですね。やはり、エロスのエネルギーを使って、アナザー・ワールドへアプローチしようというのじゃないと、今はあまり興味がわかないんですね。

―では日本のアート史において、相馬さんが考えるエロティック・アートの系譜を辿っていくと、例えばどのような人物が挙げられるのでしょう?

相馬 そうですね…、そのご質問に答えるのは非常に難しいです。というのは、僕の場合、日本のエロティックアート、海外のエロティックアートといった風な区別には割と関心がなく、要するに、外国人でも日本人でも、僕なりの思考のフレームに入ってくるかどうかということが重要になんです。日本対外国といった対立的な視点は僕には余りないんですね。系譜ということについても、現在は昔のように、例えばシュルレアリスムであるとか、ダダであるとかいった芸術グループ的なものがほぼ皆無でしょう。

ただ、これも僕の嗜好にすぎませんが、僕が今まで本の中で取り上げてきた作家さんは、過去の芸術的遺産をなんらかの形で踏襲している人が多いですね。僕は才能神話というものをあまり信じていないんです。ほとんど吸収しないで凄い画が描けるというような人は、あまり信じられないんです。だから僕が作品を見る時も「この人にはバルテュスの影響が」「この人にはベルメールの影響が」といったような見方をしてしまいがちですね。否定的な見方をするなら「モノマネ」じゃないかというぐらい似ていても、僕はさほど気にしません。アートの歴史というのはそれこそ広大で、例えばルネッサンスから辿っただけでも数百年になるわけですから、その歴史を無視していきなり自分だけの才能で凄いものが作れるとは思えないんです。過去の芸術的遺産をしっかりと消化し、模倣を繰り返した上でこそすぐれたものが作れると思ってます。

―芸術作品はある意味では全てがマニエリスティックである、ということでしょうか?

相馬 そう言ってもよいかもしれません。マニエリスムというのは、ミケランジェロ後期の様式を模範にして始まったものですよね。日本語でいうとマンネリ、つまり否定的なイメージの用語だったわけです。だけど美術の歴史というのは、ずっと模倣という概念を大事にしてきたのではないでしょうか。今、一般の人が模倣と聞くと、おそらくマイナスイメージで受け止められてしまうかもしれませんが、僕にとって模倣はプラスイメージなんです。

―パスティーシュという言葉もあります。これも決してネガティブな意味とは限らないですね。

相馬 その点、僕の紹介してきた作家さんたちは、よい意味で先行する作家の影響を強く感じさせる人が多い。ものまねの誹りを受ける危険性も孕んでいますが、逆にそれは非常に真摯に過去から学び、才能という曖昧なものに逃げず、重厚な過去の堆積を引き受けている覚悟のあらわれなんだと捉えています。



?日本のエロティック・アートのある種の傾向


―先程、相馬さんご自身は日本と海外の区別はあまり設けていないと仰っていましたが、今回はテーマに「日本のエロティックアート」を掲げているということもあり、もう少し「日本」というキーワードにこだわらせて頂きたいのですが、例えば、日本と西洋でエロティック・アートを比較した時に、作品の傾向に差異などは見られますか?

相馬 西洋との対比で考えるなら、やはり、今なお法律的な違いは大きいのかもしれませんね。日本の作家は性器表現においては抑圧されていて、今でこそそれほど厳格ではないにせよ、西洋に比べれば、やはり性器に対してはナイーブでしょう。そのような特殊な環境を逆手に取った表現は、例えば荒木さんなんかの表現に一部見られますよね。西洋には性器の抑圧がないぶん、逆に荒木さんのような発想はでてこないのかもしれませんね。これもやはりどちらがよいという話ではないですが、差としては現実にあると思います。一方、僕が「禁断異系の美術館」シリーズの3で紹介したマッケロー二という海外のアーティストは一人の女性の性器のみを延々と撮り続けて、それを一冊の作品集に集成しているのですが、日本でそういう表現をしたくても難しいですよね。日本にも村田兼一さんのような性器の露出にこだわりをもつ作家さんもいますが、そうなると日本では写真集は出せないため、今のところ、村田さんはドイツで写真集を出されています。またそれとは逆の場合もあって、西洋では、いわゆる少女愛というか、ロリータの表現が徹底して抑圧されている。例えば、トレヴァー・ブラウンという画家はしばしば少女をモチーフにしていますが、地元イギリスでは発表が難しいため、日本へ移住して活動してるんですね。


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『エロス・エゾテリック~新・禁断異系の美術館』
(アトリエサード)
(著)相馬俊樹


―それぞれの国のレギュレーションや倫理観によって作品が影響を受ける部分はあるということですね。逆にそういった外的要素ではなく、国や地域ごとに見られる想像力の傾向であったり、エロス観の違いなどを感じられることはありますか?

相馬 ヨーロッパも広いですから一概には言えませんが、ベルメールや、ベルメールに影響をされたと思しき西洋の作家達の表現するエロティシズムというのは、悪い意味ではなく、ちょっと「濃い」というか、日本の環境では出てきづらいようなものかもしれませんね。また、ちょっと漠然とした印象で恐縮ですが、西洋は日本に比べるとエロスの表現のスケールが大きいという気もしますね。宗教やエゾテリズム(秘教)と大胆に絡んでいったり、思想を独自のやり方で強引に取り込んでいったり・・・あくまでも、僕の感想ですが。

一方、近年の日本のエロティック・アートにおける特徴は何かと考えると、オピニオンリーダーの影響が大きいということはいえるかもしれません。

例えば澁澤龍彦さんなんかが活躍されていた時代の作家さん達、四谷シモンさん、金子國義さんらの作品を見ると、澁澤龍彦さんの筆によって日本に紹介されたベルメールであったり、ポール・デルヴォーであったり、バルデュスであったり、そういった作家の影響は明確に認められますよね。要するに、作風にも特徴があるとは思いますが、その時代の指導者的存在の影響が大きいというところがあるんじゃないでしょうか。

例えばベルメールなんかにしても、日本では澁澤さんが、澁澤さんの嗜好・思考のフレームで切り取って紹介したから、ちょっと受容のされ方は特殊なのではないでしょうか。だから日本でベルメールが踏襲されていたりする場合、それは澁澤さんというフィルター越しのベルメールということが多い気がします。ベルメールはドイツのアーティストで、後にフランスのシュルレアリスムグループと関わっていったわけですが、そもそもドイツ本国ではさほどその存在を知られていないと、ドイツ人の知り合いに聞いたことがあります。

―特にエロティック・アートの領域では、今なお、澁澤さんの存在はかなり影響力を保持しているように思いますね。

相馬 大きいと思いますね。今に連なる流れを作ったのは、間違いなく澁澤さんでしょう。

―海外の文化を輸入し、それを独自の解釈のもと受容するというのは、日本においてはある意味で「よくあること」だとも思うんですが、さらに日本的な特徴としては、それら輸入したものを独自に作り替えていくところだとも思うんです。その点、澁澤龍彦によって持ち込まれ、また澁澤龍彦の視点とともに浸透していった西洋のエロティック・アートが、この国に持ち込まれたことでどのような変化を遂げたのかという点は非常に興味深いです。

相馬 ファッション化しているところはあるかもしれませんね。澁澤龍彦さんや種村季広さんらが運んできたものを、ファッションという形で取り入れていくっていう部分はあるかもしれません。澁澤さん以降では、90年代にフィクションインクというのがあり、大類信さんという方がジョン・ウィリーであったり、ピエール・モリニエといった、いわゆるフェティッシュ性の強い作家の写真集などを日本に持ち込んで、それがちょっとしたブームになったこともありました。そういう意味で、ちょっとファッション化されやすい環境というのはあるかもしれませんね。もちろん、それについては「いい」ということもできるし「わるい」ということもできる。

近年では、ゴシックロリータの人達もそれにあたるのかもしれません。僕は彼らについて余り詳しく知りませんが、ベルメールなど、澁澤さんが紹介してきたような文化を好んでいるのだとしたら、いいわるいは別として、ファッション化された形で受け入れてるのかなという風には思います。

―ヤン・シュヴァンクマイエルが日本における自身の受容され方を好んでないという話を聞いたことがあります。自分の作品が日本において「かわいい」と受容されていることに抵抗がある、と。これはベルメールや他の作家にも通じていますよね。これは海外のアートを受容する上での一つの傾向のようにも思います。

相馬 そうですね。ただ、作家レベルで言うならば、澁澤さんが海外から取り入れた文化を、きちんと消化している方たちもいるんですけどね。最近の若い作家に上田風子さんという方がいて、この方も非常に勉強家なんですが、まず家庭環境が非常に特殊で、コミューンのような環境で育ったようなんですね。子供の頃、例えば周りの女子達が『マーガレット』なんかを読んでいるなか、親から『ガロ』以外は与えられなかったらしい(笑)。もちろん、澁澤・種村などの本も読みあさったといいます。澁澤龍彦さんの時代にバルデュスの影響のもと、それを見事に消化し、自分の作品として提示した片山健さんという作家さんがいて、その人は今は絵本作家で知られる方ですが、風子さんは若いのに当時の画風の片山健をも知っていて、上京後、必死に画集を集めていたというような話を聞いたんです。そして、それはきちんと風子さんの作品内で消化されている。過去の遺産というものにしっかり対峙して今のアートを構築している稀有な存在と思います。

―上田風子さんの作品は相馬さんの著書『魔淫の迷宮』にも図版として掲載されていますね。澁澤文化の焼き直しではなく、見事に現代的な形で昇華されていると思います。



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上田風子作品集
『LUCID DREAM』




?エロスの力がその信用を失っている現在


―ところで、これは僕の個人的な感想なんですが、相馬さんが著書のなかで取り上げられている日本の作家さんたちの作品を見ていると、ある種、女性の描かれ方が標本的というか、ピュグマリオン的、人形愛的なイメージを強く感じさせるような作品が多い気がするんですね。躍動的な女性であったり、あるいは強い女性性みたいなものを感じさせる作品がほぼない気がするんです。もちろん、海外のエロティック・アートも、例えばフェティッシュフォトなどのようにオブジェとして女性にアプローチした作品は数多ありますが、それでもなお動的に感じられる。例えばベルメールによるウニカ・チュルンの緊縛写真、ああいったものでさえ、日本の静的な女性像に比べると、生々しさを感じるんです。

相馬 簡単に言ってしまえば少女愛的な傾向ですね。それは確かに一つの傾向としてあるでしょうね。特に日本においてはそれが強いことは強いと言えるでしょう。これに関して一番大きいのは、やはり澁澤龍彦さんの影響ですね。澁澤さんの影響下にある人は、作家さんにもやはり多いとは思いますから。良い悪いは抜きに、日本においてそういった部分が突出しているというのは、言えるのではないでしょうか。

―澁澤的感性が日本人には馴染みがいいんでしょうね。

相馬 そうかもしれません。澁澤さん自身、ご自分のを嗜好というものを明確に語っていましたよね。澁澤さんは西洋でいえば、少女のようなほっそりとした裸体を描くクラナッハやバルドゥンク・グリンのような北方ルネッサンスの系譜を好んでいましたよね。一方、ルーベンスなどの作品は余り好んでいなかった。もちろん澁澤さんがそれを皆に強制したためしなどないけど、彼の嗜好が日本に与えた影響は大きかったと思います。ルーベンス的な、大母的な女性像を描いている作家さんというのは日本では確かに余りいない。ぱっと思いつくところでは人形作家の土井典さんなんかはそういう傾向があるかもしれない。そこには彼女の女性性が関係してるのかもしれないですが。

―なるほど。エロティック・アートにおいて、作家のジェンダーが作品に表れていることを感じるケースというのは結構あるんですか?

相馬 気付きづらい面もあると思います。男性作家さんの影響を受けている女性作家さんであれば、作品もやや男性的な傾向を帯びてくるでしょうし。ただ、じっくりと見れば、やはり差異はあるといえるのではないでしょうか。例えば先程も名前をあげた上田風子さんの描く少女には、男性から見ると非常に謎めいた少女の欲望が表現されていたりします。それが彼女の作品の魅力的な部分を成している。そこで描かれている欲望を言語化するのは難しいと思うのですが、同じく少女を表現している男性作家の町野好昭さんの作品などと比べてみると明らかに異なると思います。町野さんは、あくまでも男性的な視点から少女性というのを追及しています。少女と言う存在を物凄く高い位置に、触れがたい存在として位置づけているいるんですね。ただ、作家さん達の意識の中でジェンダーは余り大きな問題とはなっていないと思いますね。

―非常に興味深いですね。では、最後にシーンの現在について、いくつかお伺いしたいと思います。相馬さんは著書でこのような優れた作家さんを多く紹介されていますが、全体で見た時にエロティックな表現は活発な状況にあるといえるんでしょうか?

相馬 それについては以前に飯沢耕太郎さんともお話ししたんですけど、やっぱりエロティックな表現そのものは弱体化していると言えるかもしれません。90年代に大類さんの周辺でフェティッシュ表現の世界が盛り上がって以来は、あまり大きな盛り上がりは見られないですね。なにより、エロティックなものに対する信用が下がってきている気がします。

―エロティックなものに対する信用とは?

相馬 例えばヨーロッパにおける19世紀末という時代はデカダンスの時代と呼ばれていますが、当時は非常に女性嫌悪の強い文化状況だったんですね。しかし、だからといって、エロス、性の力が弱っていたかというと、その逆で、強迫観念的にエロスが前景化していた時代だったんです。性やエロスの力が、たとえ負のイメージであるにせよ、強力であるという意識はあったと思うんです。

それに対し、1960年代頃、性解放の時代というのは、性やエロスの力がポジティブに評価された時代なんですね。当時の文化状況は性の力に希望を託していたと思うんです。その二つの時代を表層で捉えると全く違う時代のようにも見えるんですが、どちらも性やエロスには力があるという認識を持っていたという点で通低している。ただ、デカダンスの時代はそれを恐怖として、性解放の時代はそれを希望として捉えていたんだと思います。

じゃあ今はどうなのかと考えると、性、エロスの力自体が疑問視されているのかもしれません。エロスに対して、希望も、絶望も、もたれていない。

―現実の向こう側への突破点としてエロスが重視されていない、あるいは、向こう側への意志そのものに疑いがもたれている、ということでしょうか。

相馬 そうですね。信用されていない。エロティシズムを突破口にして向こう側にいこうという時にも、それは、エロスの力を信頼していなかったら、そもそもできない話でしょう。その部分が弱まっているから、そういう表現者が余り出てこないのかもしれないですね。それは知識においてもそうで、僕の世代でアートに関心のある人間であれば、例えば澁澤龍彦なり、ジョルジュ・バタイユなり、それらエロスの大家を知らないなんて人はまずいなかったわけです。

僕は現代のエロティック・アートを紹介するというのが仕事ではあるんですが、文章の中には、実はバタイユやサド、澁澤さん、種村さんの名前もしばしばでてきます。そういった人達を知る取っ掛かりにして欲しいという気持ちもあるんです。実際に今の若い方たちがどれほどそういう知識を持っているかは分かりませんが、少なくともかつてよりも知っている人は少なくなってると思うんです。それは若者が悪いとか、そういう話ではなく、ただ、それらを知る必然性がない環境になっているということだと思うんですね。ならば、現代のアートを扱う時に、それら過去の情報を同時に入れていけばいいと思うんです。それについてちょっとでも触れることで、再生させていきたいというか・・・

―もちろん誰しもが学ばなければならないようなものでもありませんが、エロティシズムという遠近法は歴史や社会、ひいては人間を捉える上で、非常に有用だと思います。

相馬 そうですね。エロティック・アートの世界は現時点では残念ながらほとんど享受されていない。ただ、だからこそ、今後、どのように享受されていくかが楽しみではあります。そのためにも、僕は書き続けているわけです。エロティシズムへの信用がこれだけ弱まった時代にこういう本ばかりを出し続けていて、それを評価してくれる人達もいるかもしれません。それを問いたいということはありますね。僕は少なくともエロスの力に希望はもっていますし、それは現実の向こう側への突破点になりうるとも思っています。もしかしたら、それは過信なのかもしれないし、いつか結局エロスに力なんてなかったとなるかもしれない。ただ可能性がある限りは書き続けていくしかないと思ってますね。




相馬俊樹WORKS






INFORMATION

相馬俊樹著
魔淫の迷宮?日本のエロティック・アート作家たち?
(ポット出版)刊行記念

魔淫の迷宮展

4月4日~21日 神保町画廊にて

【出品作家】

井桁裕子・上田風子・佳嶋・ 甲秀樹・空山基・谷神健二・たま・徳野雅仁 中村?・根橋洋一・長谷川友美・林良文・町野好昭・村田兼一・山本タカト


【開催場所】

神保町画廊
〒101-0051東京都千代田区神田神保町1-41-7安野ビル1階  
TEL,FAX03-3295-1160
http://jinbochogarou.com/index.html
 



相馬俊樹

1965年生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科美学美術史専攻卒。エロティック・アート研究家、美術ライター、美術評論家。著書に『禁断異系の美術館』シリーズなど、共著に『異界の論理?写真とカタストロフィー禁断異系の美術館EX』(飯沢耕太郎との共著)、編著に『秋吉巒・四条綾 エロスと幻想のユートピア~風俗資料館 秘蔵画選集1 』、『秘匿の残酷絵巻 臼井静洋・四馬孝・観世一則~風俗資料館 秘蔵画選集2』、『種村季弘と美術のラビリントス?イメージの迷宮へようこそ』など。(すべて発行・アトリエサード、発売・書苑新社)