吉本隆明、性を語る。 ?コイトゥス再考? 2

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?僕の青年期の頃においては、玄人の女の人、つまり性愛を職業としている人達との交渉もありました


吉本 振り返ってみますと…、僕は工業学校の出身なんですが、中学部に入る頃になると、なんとなく性的な実感が表立ってくるようになってきた記憶があります。これは男女の性愛の特徴の一つですけど、離れたいっていう気持ちと親しくなりたいっていう気持ちが両価的に出てくる。はじめは僕もそうでした。なんとなく、女性に惹かれるんだけど、「惹かれている」ことが他人から見えたら変な風に見えるんじゃないかという反発も一方で起こっていました。

その後、少年期から青年期に差し掛かるころ、やはり性愛のことを友人などとの間でまともに話し合うようになっていきました。また実際問題としても、生理としてのあらわれが出てくる。感情面でも「あの子が好きだ」とか「好きじゃない」とかが生じてきますし。一挙にそういうことが物凄く発展していきましたね。

―順当に成長されていったわけですね。

吉本 極めて平凡かつ正常だったと自分で思ってます。性に対する反発する感情と、一緒にいたいという思いが両価的に大きくなっていって、その内に、自慰や自?を覚え、自分の性器を自分でいじって快感を感ずるようになる。やがて、それが嵩じていくと、自分で自分の性器をいじることも本格的になるし、それでもって精液が出尽くすまで、そういう行為を自分でやってく。そういった行為を行う中で、家族、親族、血縁集団といったものと、社会集団との区別が自覚的になっていったように思います。




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―血縁集団と社会集団の区別、と言いますと?

吉本 エロスとかそういう問題というのは、大雑把に言いますと、二つに分けられるんです。この二つというのが何かと言いますと、家内的、家庭的要素、そしてもう一つが家庭の外側にある社会的な要素です。それは同視できるものでもないし、重ね合わせるものでもない、と僕はそう考えているわけです。自慰行為にはある種の不健全さというものがあると思うんですが、不健全であると考えるからこそ、好きな女性を見つけ、実際に性的結合を行い、子を産み、家庭を築くという経路を辿る。僕も大体はそうだったと思いますね。

―吉本さんの少年期、青年期においては、性に関するイメージや情報というのは、どういったものから得られていたんですか?

吉本 はっきりしたことは覚えていませんし、これは個々の人によっても違うんでしょうが、やはり本であったように思います。性的なことに関する本ですね。そういった本を読み、また自慰行為を行うことで、異性との交渉に対する反発的要素が徐々に解消されていったように思います。もっと詳しく言いますと、性についてはなんとなく気恥ずかしさが付きまといますし、家庭的な禁止や戒めなどとも相まり、非常に複雑な形を成しているわけです。快楽としては、赤ん坊や幼児の時代になんらかのきっかけで性器をいじりそれが気持ちよかったとなったかもしれない。それを一つの大きな経験としつつ、やがて男女の性的な親愛感を覚えていく。

―童貞を喪失されたのはいつ頃でしたか?

吉本 異性との肉体的な経験は、僕はかなり遅かったと思います。正確な時期というのは覚えていませんが、僕の青年期の頃においては、玄人の女の人、つまり性愛を職業としている人達との交渉もありました。これは人によって相当違うんじゃないかなとは思うんですけど、それこそ表通りの日向道だけを通ってきたように、規則正しい正常な状態を保ち、結婚まで性愛的なものを心理的要素のみにとどめていたような人もいるでしょう。僕個人の話をしますと、玄人の人との交渉が先だったか後だったかは非常に曖昧なところですが、そういう遊びもやってきました。

―当時ですといわゆる赤線の時代ですね。

吉本 その頃…、ちょうど僕らが青年期から成人期に移る頃でしたが、加藤シヅエ(※1)などの女性代議士を中心に、性風俗を禁止する法律が議会で提案(※2)されたんです。性愛を商売にする女性、また、それに関わる男性を取り締まるべきだって、公に言い出した初めですね。

※1 加藤シヅエ…婦人解放運動家・政治家。48年の優生保護法成立に深く関わる。婦人代義士第一号。01年没。

※2 売春等処罰法案…1948年の第2回国会において提出された法案。売春防止法の元祖と言われる。その後、処罰が厳格すぎるとして、審議未了、廃案。

これは大賛成する人と、大反対する人、両方あって、しばらく新聞などにも陰をとどめるほどの大きな論争となったんです。それが僕らの性的な関心が非常に深い時期にあったもんですから、我が身を考えても、これは一体どちらが妥当なのか、と考えたわけですよ。本当にこれを禁制にすべきなのだろうか、と。属性でいえば家族制を重要だと考えている家庭の男女は、それは禁止すべきだと傾いて、逆に奔放に育ち、家庭的な制約をあまり受けずに育ったような人達は禁制に反対していました。

―吉本さんはどのようにお考えだったんですか?

吉本 僕はこの法律はおかしいと考えました。なるほど、いかにも規則性で言えば、これは禁止すべきかもしれません。こういう遊びは良くない、良くない傾向に人間を導く、と。それが加藤シヅエらの考えだったわけです。そこから僕の人生最初の実在問題、性に関する考察が始まっていったと思います。

僕は禁止すべきじゃない、と考えました。それは良い悪いの問題で区別するのは非常に難しい問題なんです。倫理的には、商売として性行為をやるという女性も良くないですし、お金を払う男性も良くない。しかし、それを禁止するのはなおさら良くない、という考え方ですね。結婚までそういう行為をせずに、結婚してはじめて性的な卑猥感を太らしていくというほうが良いというのは分かってるんです。しかし「お前もそうしろ」と言われてしまうと困る、返答のしようがなくなってしまう。これを悪いことだとか、これは堕落なんだと考えられたり、言われたりすると、「それは待ってくれ」「それは困る、自分はそれを犯してるから」、と(笑)

―(笑)

吉本 一面では堕落しつつあるんだ、と思いましたし、新しい意味での性の考え方が善悪を含め、自分の中で複雑になっていった。ただし、一概に善悪をもってこの問題を捉えるというのは非常におかしいと感じました。これらの遊びは、いわゆる悪所通いと言われてましたけど、堕落していると言われることが、悪所通いという傾向が自分の中でも結婚するまでに増大していった原因だと思います。考えれば考えるほど、これは自己矛盾だなぁとは思うんですが、その自己矛盾を解消するために禁止する、罰するという行為は肯定できない。女性尊重論者から言えば、男がそういう遊びを節するようにすれば、純潔な婚姻の風習が出来上がるはずだから、悪いことは悪いと決めるべきであって、それでも悪所通いを平気でするって言うんだったら罰せられるべきだとなる。しかし、誰がどういう風に論じてたりしても、これは禁止にすべきではないし、制約にもならないし、これを制約とする法律が当たり前とも思えない。これは人間のもつ本質的な問題で、また本質的な欠陥に由来するものなので、これを法律で決めることはできないと思います。



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―昨今の性表現に対する規制にも通じる話のように思います。

吉本 善悪で決めることもできないし、正義で決めるもできない。少なくとも善悪の問題からは外すべきだという風に考えていましたし、それが堕落だというなれば、堕落だと思ってください、と。善悪や堕落というところから外れたところで考えるべきだし、これは生存の全方向にとって自由の一点に関わる問題です。自由であるか、自由でないか、という問題。それは良い、悪い、よりも先にあるべきで、どういう矛盾であれ、悪であれ、これは禁止すべき問題とは質が違うように思います。悪所通いというのも、天然自然と同じように人間の自然性の範囲である限り、これは禁止すべきではないし、「俺はこんなのしねぇよ」って言う人がいても、それは嘘だ、と。嘘じゃないとしても、その考え自体が虚偽だ、と思います。

―なるほど。ところで、そういった「遊び」の中で、何か特別に記憶に残っている思い出などはありますか?

吉本 僕は自分より身分が上の知り合いの方に連れられ、何度か東京ではない土地の遊郭へ行ったことがあるのですが、非常に悔しい思いをしたことがあります。というのは、これは京都の遊郭に招待して頂いた時の話なんですが、招待してくれた知人の方は、遊郭の席においても堂々とされており、女性の方も非常に丁重に振る舞っているんですが、招待された僕がなぜか女性にむちゃくちゃに苛められたんです。遊郭に行った経験はありますか?

―いえ、ないです(笑)

吉本 では一度行ってご覧なさい。僕は京都の遊郭で、ほとんど聞くに耐えないような悪口雑言、しかも性が関与したような言葉を浴びせられたわけです。びっくりしましたよ。その嫌味たらしさ、言い方といい、もし紹介してくださった人がその場にいなかったら、ただじゃおかねぇぞって、横っ面引っぱたいてやりたくなるような思いでしたね。招待した主人も「お前、出過ぎだ、そういうことを言うな」とでも言ってくれればいいんだけど、言わない。お腹の中で怒りが爆発しそうになる。多分そうさせるのが目的だとは思うんだけど「ひでぇもんじゃねぇか」と。それを我慢して、後は酒を飲んでも上手くないし、口聞きもしねぇやっていうような体験はありました。

―それは解せない話ですね。なぜむこうはそんな態度を取ったんです?

吉本 僕にもよくは分かりませんが、僕の態度にも問題があるのかもしれません。しかし、「お前の態度は癪に触る」と客に対して感じても、本来ならば言うべきではないんです。しかし、そういうものもある種の儀式化をしていくと、ああいう態度も生じるんだろうなぁと。それが僕のざっとした解釈です。そうじゃないかもしれません(笑)

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