吉本隆明、性を語る。 ?コイトゥス再考? 3

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?ちょっとやそっとで片付けることができないと感じたのは、バタイユです 


―吉本さんには何か個人的なフェチのようなものはありますか?

吉本 それは自分では意識したことはないですね。ないわけではないと思いますが、強く意識したということはありません。

―なるほど。では質問を変えます。吉本さんにとってエロティシズムとはどういうものでしょう?

吉本 エロティシズム…。僕には考察の主題にしているものが幾つかあるんですが、正直に言いまして、エロティシズムはその中には入ってこないんですね。これはエロティシズムが重要ではない、ということではないんです。しかし、エロティシズムと聞かれても、自分がこれまでに演じたエロティシズムと、それから先程お話したような、そういう座に招いてくれた人との思い出が蘇ってくるだけで、それ以上のエロティシズムというのは僕の中にはないと思います。

これは自分で自分に対して考えていることなんですが、僕はそういう関心がわりあい薄い方じゃないかなぁと思うんです。良い悪いとかの問題ではなく、性格の問題だと思うんですが。友人なんかにもやっぱり、僕のエロティシズムに対する関心の薄さを指摘する人もいます。自分でもそう思います。

ーそれは一個人としてだけではなく、思想家としても、ということですか?

吉本 そうだと思います。共に薄いんじゃないかな、と。「吉本さんに近寄ってくる女の人が性的感情が入るように近付いている気がしてしょうがない」って言う風に友人に言われることがありますけど、僕自身は全くそういうのに気付かないんです。少しそういうところが抜けてるんじゃないか、って思います。だからエロティシズムの問題は自分の中でうまく決着がつかないところではあるんです。


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ー女性やセックスに対する執着が余り強くないということでしょうか?

吉本 こういうこともしたし、ああいうこともしたし、悪所通いも随分した、と自分の中ではそれなりにしてきたつもりではいるんですが、他人に言わせれば、僕は全然薄いとなるんですね。

―なるほど。例えば文学の世界にはエロティックな主題の文学作品というのも多くあると思うんですが、そういった表現としてのエロティシズムについてはいかがですか? この作品の官能性に惹かれたなど、そういう作品はあります?

吉本 それは滅多にありませんでしたね。しかし、性について書かれた文学で、やはりこれは名実共に大変立派で、ちょっとやそっとで片付けることはできないと感じたのはバタイユ(※)です。バタイユはやはり、性っていうものを本源としながら、そこを飛び抜けて、思想全般のところまで近付けたんじゃないかと思うんです。バタイユには僕も関心がありましたが、これも快か不快かということで言えば、快ではないんですね。バタイユの作品は、言ってみれば、エロスと人間、自己の洞察といったもの、それらを混ぜ合わせて水で薄めて、文学にしたという印象です。そこに、僕は深くは入っていけなかった。

それに、先程、僕は自分の中にエロスが薄いということを言いましたが、そもそも僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思ってます。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く関心が薄いんじゃないかと思います。日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。みんな何かにすり替わっている。エロスをエロスとしてそのまま、サドのような作品を書けるのか。書けば書けるのかもしれない。しかし文学だけで言いましても、数えるほどもそういう作家はいない気がします。

※ジョルジュ・バタイユ…フランスの思想家(1897-1962)。エロティシズムの大家。大著『エロティシズム』の冒頭を飾った「エロティシズムとは死に至る生の称揚である」という言葉は余りにも有名。

―それは宗教的なものも関係しているんでしょうか? サドもバタイユも、そのベースにキリスト教的な土壌があるという点において、日本とは環境が異なると思えるんですが。

吉本 本当にそう思いますか? 僕はそこに疑いをもちます。日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、反らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。

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