オタクの細道#03 実体のつかめぬ漫画家・浦嶋嶺至 ?運命の轍?

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伝説マンガ紀行『オタクの細道』#03

浦嶋嶺至

実体のつかめぬ漫画家・浦嶋嶺至 ?運命の轍?

取材・文/おおこしたかのぶ 構成/吉岡


80年代後半からエロマンガ家として活躍し、その後はトークイベントを仕切ったり、知る人ぞ知る存在だったイラスト投稿マニア・三峯徹をプロデュースし、彼を特集した『タモリ倶楽部』にも出演。最近では自ら脚本・監督を担当した映画も制作した。ネットでは猪瀬直樹との「雪かき騒動」の情報が駆けめぐる。そして、二度にわたる改名……。その全体像がいっこうに把握できないマンガ家・浦嶋嶺至、その破天荒な活動の軌跡をたどっていこう。 


?中学生の頃からマンガ家になろうと決めていた。大学で建築科を選んだのは、背景を描くのに役立つと思ったから。


「浦嶋嶺至」という名前を聞いてピンと来ない人も、昨年の始め、マンガ規制に関する都条例で、副都知事・猪瀬直樹の「夕張で雪かきして来い」というツイッター発言に対して「じゃ、俺が行ってやる!」と宣言して話題になったマンガ家だったり、もしくは、昨年10月に放映された「タモリ倶楽部」でイラスト投稿職人・三峯徹を特集されたときに、三峯の解説者として登場し、番組のキーマンになっていた人物といえば「あ?、あの!」と納得していただけるのではないだろうか?

本誌としても、猪瀬氏とのその後や、TV出演後の三峯氏のことが気になっていたので、直接ご本人に伺ってみることにした。


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─映画の編集でお忙しいときに申し訳ないのですが、本日はよろしくお願いします。


浦嶋 こちらこそ。僕がどんな人物なのか、その全体像を把握している人は少ないと思いますので、今回はそれを説明するいい機会だと思っています。


─さっそくですが、例の「夕張雪かき騒動」に関わることになった発端は?


浦嶋 昼間たかしというジャーナリストがマンガ規制に関する都条例について、猪瀬さんにインタビューを申し込んだのですが、それに対して猪瀬さんがツイッターで例の「ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い、それならインタビューうけてもよい」と発信したんです。(*注1)猪瀬さんとしては昼間氏個人に対しての発言かもしれないのですが、その言い方のあまりの横柄さに腹が立って、「じゃ、俺が行ってきたら会うのか?」ということで「雪かき発言」をしたんです。


○注1…ネットで大いに話題を呼んだ東京都猪瀬副知事のツイッターでの発言。このツイートが元で氏の雪かき騒動に発展する


─腹が立っただけで極寒の夕張で一円にもならない雪かきをしようなんて普通は思いませんよ。


浦嶋 実は条例の改正案はすでに議会を通過していたので、たとえ雪かきをしても改正案が見直される可能性はなかったんですけどね。ただ腹が立った……それだけですね。


─その後はどうなっているんでしょうか? ネットで検索しても情報が見当たらなかったのですが。


浦嶋 僕の雪かきは1月の21日に済んでいたんですが、肝心の昼間氏の雪かきがズルズルと伸びてしまい、2月28日になってしまったんです。その時ちょうど東京都は議会中だったので、とりあえず議会が終わったら段取り組んで討論しましょう、という話になったんです。で、議会の閉会日が3月11日。


─えっ、なんと11日!?


浦嶋 そう。11日の午前に議会が終わって、午後にあの大地震が起きたんですよ。それで全てが吹っ飛んでしまいました。


─そりゃ吹っ飛びますね。しかし、すごいタイミングだ。


浦嶋 そういう状況でしたので、一旦、全てを棚上げするしかありませんでした。でも、猪瀬さんからは「必ずやります」という言質はいただいていますので、カードはまだ有効です。ただ、今は世間の意識は原発の方に行ってますので、何かあれば、ということですね。7月から改正案は施行されているんですが、今のところ大きな動きもないし、表立って騒ぎ立てることもないだろう、と。

僕が雪かきをした後、1月31日に都庁で一度面会してくれるなど、誠実に対応してくれましたし、あおりばかりだったツイッターの発言がその後は無くなったので、夕張に行って良かったと思っています。もし、猪瀬さんとの討論会が実現したらネットで生中継するつもりですので、その時は是非ご覧ください。


─了解です。なんか運動家へのインタビューみたいになってきたんで、軌道修正します(笑)。マンガ家になったいきさつを教えてください。


浦嶋 中学生くらいのときから、マンガ家になりたい、という意志はかなり強く持っていました。親がどうしても大学には行け、というので、マンガを描くのに役立つのはどこだろうと考えて大学は工学部の建築科を選びました。


─あまりマンガとは関係がないように思えますが……。


浦嶋 建物の構造などを理解することで背景がうまく描けるようになるかもしれない、と思ったんです。


─なるほど。では、どちらかというと正統派指向だったんですね。


浦嶋 そうですね、『サンデー』『マガジン』など一般週刊誌を目指していたんですが、大学の4年間が終わるまでにプロにならないと、親に就職しろ、と言われてしまう。だから、なんとかして早くプロにならなくてはならなかったんです。当時はちょうど美少女コミックブームの先駆けの時期で、イベントでは隣で美少女系同人を売っているヤツらが出版社にスカウトされ、翌月にはデビューするという時代でした。それまで僕は少女マンガ系のサークルにいたんですが、こりゃエロマンガ仕様の絵に変えて、声をかけてもらってデビューするのが手っとり早くて確実だな、と思って美少女マンガを描くようになったんです。


─ありました、そういう時代が。ホント、あの時代はちょっと可愛い女のコが描ければ誰でもプロになるチャンスがありましたからね。


浦嶋 で、大学3年の夏に当時、美少女マンガ家として活躍していた森林林檎さんと知り合い、忙しいから手伝ってくれ、と頼まれてアシスタントに入ったんですね。出版社に完成した原稿を届けに行ったりしてたんですが、たまたま司書房の『コミックラム』の編集長から「君もマンガ描けるんだろう? 何か描いて持ってきなよ」と言われて描いたものが、翌月には雑誌に掲載されたんです。そういう時代だったんです。




?伝説のマンガ家・ふくしま政美先生から「俺の弟子にしてやる!」と言われて断れるわけがありませんよ。



─晴れて在学中にプロになって、この修羅道に入ってしまったんですね(笑)。その後のマンガ家生活は順調でしたか?


浦嶋 90年頃にコミック規制が始まって、エロマンガには「成年マーク」をつけて専用の棚で売ることになりました。僕はもともと少女マンガが好きで、エロマンガで男と女の微妙な心のやりとりを描きたかったんですが、この規制のおかげでエロが敬遠され、いよいよそういう作品が支持される時代が来るかもしれないと思っていたんですが、結果は逆で、成年マークをつけることで市場が狭くなり、よりエロ表現が過激になっていったんです。おかげで仕事はどんどん減っていきましたね。97、8年頃、「このまま行ったら俺は消えてなくなるな」……と思いはじめていた頃、僕の目の前にいきなり、ふくしま政美先生が現れるんです。


─ふくしま政美と言えば『聖マッスル』などの作品で一世を風靡したものの、その当時は「消えた幻のマンガ家」として『クイック・ジャパン』でも取り上げられていた作家ですよね。


浦嶋 はい。あれはマンガ家の山本夜羽音氏が主催していたエロマンガのトークイベントにゲストとして出演したときのことでした。たまたまステージ上でふくしま先生の話になったんです。「あの人、消えたままだよね」と僕が言ったら、いきなり客席から「俺はここにいるぞ!!」と声がしたんです。行方不明になっていたマンガ家が急に目の前に現れたんですから会場は騒然ですよ。


─それは驚きですね。なんでふくしまさんが会場にいたんですか?


浦嶋 『クイック・ジャパン』を見たふくしま先生が宝島社に連絡を取って、当時の編集長だった赤田さんと接触していたんです。最近の若いマンガ家連中を見てみたいと思っていた先生を、赤田さんがたまたまイベントに連れてきていたようですね。で、どうもそのときに先生が僕のことを気に入ってくれたようなんです。「ふくしま政美復活祭」も成功し、先生が『エロトピア』で連載することが決まったとき、仕事を手伝ってくれないかと言われました。そのとき、僕も『エロトピア』で描いていたし、他の雑誌で短期連載の話を進めていた最中だったのでかなり悩みましたね。


─絵柄的にも、作品の傾向もまったく違いますもんね。


浦嶋 で、殺し文句が「オレの弟子にしてやる!!」でした。この言葉にグッと来ましてね……。普通なら「弟子にしてください」とお願いするような伝説のマンガ家から、弟子にしてやる、と言われて断るわけにはいきませんよ。そのとき、10年以上つきあっていた彼女と結婚する準備を進めていたんですが、彼女にはもうちょっと待ってくれと。それに、ここでいい刺激を受けて、僕も変われたらいいかな、と思って弟子になることに決めたんです。


─弟子生活を始めてみてどうでしたか?


浦嶋 まず、苦労したのが、金がない!! ということ。実はその頃、僕には400万円くらいの借金があったんです。


─うわ?っ、かなりの金額じゃないですか!


浦嶋 サラ金4社を利用して、なんとかお金を回していた状態のところに、お小遣い程度の給料しかもらえませんでしたからね、どんどん借金が膨れ上がっていくんです。先生は先生で毎月のように何十万円も借りているのを見ていましたから何も言えないんですよ。2年間は我慢しようと思いましたが、結局お金が回らなくなってしまったことや、自分の仕事と先生の手伝いの兼ね合いが調整できずに5ヵ月でやめてしまいました。


─借金はどうなったんですか?


浦嶋 弁護士さんに相談したところ、過払い扱いになって260万円が帰ってきました。これはありがたかったですね。でも、ふくしま先生のところにいた精神的後遺症でまったく描けなくなってしまったんです。とにかく仕事場はものすごい緊張感でしたからね、プツンと糸が切れたみたいになっちゃって1年半くらいボンヤリしてました。そのうち戻ってきたお金も無くなっちゃうし、水道も電気も止められてしまったりで、これは何とかしなくちゃ、ということで日雇いの派遣に登録したり、イベント警備のバイトで何とかしのいでいました。イベント警備は一度研修を受けてしまえば後は楽ですよ。ただ立っていればいいし、人と話す必要もありませんからね。一人でいるのが好きな人にはうってつけの仕事ですよ。特に住宅展示場の深夜の一人警備はマンガ家志望の人にはお薦めです。


─え?っ、深夜、誰もいない家に一人だけというのは怖すぎじゃありませんか?


浦嶋 一人だけだから見回りの時間以外は何やってもいいんです。僕はずっとマンガのネームを考えてました。そのうちに自信が戻ってきたので、マンガ描いて持ち込みして、まぁ、今ではなんとかマンガ一本で食えるまでになりました。


─あ?、良かった(笑)。ところで、ハガキ職人の三峯徹を特集した『タモリ倶楽部』を見たときはビックリしました。あまりにマニアックな企画自体にも驚きましたが、浦嶋さんが何でこんなに三峯さんに詳しいのか不思議でした。そもそも彼との出会いは?


浦嶋 実はですね、先程お話に出てきた結婚した相手というのが白夜書房の『ホットミルク』でずっと読者欄を担当していた結城らんななんです。彼女も三峯君と同じくハガキ職人で、同人活動をしていたので、イベントで三峯徹君がよく挨拶に来てたんですよ。僕は彼女のサークルと合体で参加していたんで次第に顔なじみになったんです。


─えっ、ちょっと待ってくださいよ。『タモリ倶楽部』に出ていた女性は確か結城らんなさんと名乗ってましたよね。じゃ、夫婦であの番組に出ていたんですか?


浦嶋 そういうことですね。まぁ、適任だったのがたまたまウチの嫁さんだったわけで(笑)。ディープなエロマンガファンや業界人に三峯徹のことが話題になりはじめたのが、今からおよそ10年前。その頃、僕が一番最初に三峯徹君をイベントに引っ張りだしたんです。当時は知る人ぞ知る、あの三峯徹を生で見られるんだ! という、レアトラック的な感覚でしたね。2007年に三峯徹Tシャツを作ったときは大好評でしたし、2009年に「三峯徹20周年イベント」を企画したときはものすごい数のお客さんが来てくれました。よくネットに「浦嶋は三峯徹のブローカーだ」みたいなことを書かれますが、僕は彼から一円も搾取してませんよ。Tシャツのデザイン料だってちゃんと払ってますし、20周年記念イベントでは準備に10万円かかったけど、売り上げの8万円は全て三峯君に渡しました。僕は面白ければそれでいい、という人間なんです。


─TV出演以降、三峯徹さんに変化はあったんでしょうか?


浦嶋 実は彼の本業は会社員なので、本人は顔を出しませんでしたからね。親や周囲の人は彼が三峯徹であり、TVに出たことは知らないでしょうね。妹にはバレてるみたいですが。逆に僕は顔を出したんで、「TV見ましたよ!」と良く言われようになりました(笑)。


─最近、映画を制作したそうですね。(*注2)


○注2…浦嶋嶺至氏が初監督を務めた映画作品『憂恋の花(ゆうれんのはな)』の1シーン。現在鋭意製作中。なんと原作は15年ほど前に小社刊コミックホットミルクに掲載されたもの!


浦嶋 学生時代から、いつか映画を撮ってみたいとは思っていましたが、まさか現実化するとは自分でも思っていませんでした。これも奇跡的な人との繋がりがいろいろとあったおかげなんです。


─しかし、マンガ家がいきなり映画を作れるもんでしょうか?


浦嶋 実は大学のSF研究サークルで何本か制作してたんです。その頃ちょうど『ダイコンフィルム』の影響で、各大学のSFサークルで自主映画制作ブームみたいなのが起こったんです。


─懐かしいですね。『ダイコンフィルム』は庵野監督や岡田斗司夫などを輩出し、ガイナックスの母体になった団体ですよね。


浦嶋 映画制作はそれっきりだったんですが、最近、あれよあれよという間に映画人脈が出来てきたんですよ。高校時代は映画研究会に名前だけ連ねていたんですが、一つ下に岩崎友彦という後輩がいまして、彼が早稲田大学で頭角をあらわし、アマチュア映像作家の発掘番組『えび天』で優勝したんです。その岩崎と街で偶然再会して関係が復活したり、以前『銭形金太郎』というTV番組でキング・オブ・ビンボーになったホームレス映画監督・ギー藤田さんと、ひょんなきっかけで知り合いになったんです。彼はホームレスになる前はやり手のイベントプロデューサーだったんですが、バブルの頃は何億も動かしていたというスゴイ人で、映画業界の関係者とも知り合いがいっぱいいたんです。で、彼がいろいろな人を紹介してくれたんですよ。


─なんか、すごい運命ですね。


浦嶋 僕は95年にペンネームの「島」を「嶋」に変えたのですが、かえって運が悪くなってしまった。名前は10年たたないと身につかないそうなんです。そこで10年後の2005年に「礼仁」を字画的にすごく強い「嶺至」に変えました。これが良かったのかもしれない。


─へ?、そうなんですか。ボクも改名しようかな(笑)。


浦嶋 そんなこんなで機は熟したかな、と思って念願だった映画制作に乗り出したというわけです。


─予告編を拝見しましたが、かなり本格的ですね。大手配給の映画と言われても違和感ないです。


浦嶋 撮影や照明を日芸出身の腕の立つ連中がやってくれたおかげですよ。カメラはキャノンのデジタルカメラEOS7Dを使ったのですが、なかなか深みのある映像が撮れるんです。編集はウィンドウズ版PremiereProを使って自分でやっています。編集を10月内に終えて、なんとか2012年には公開したいですね。


─どのような作品なんですか?


浦嶋 原作は僕の短編漫画なんですが、手本にしたのが、あがた森魚さんが20代に自主制作した『僕は天使ぢゃないよ』という作品です。レトロでポップな感じがいいんです。昔からこういう映画を作ってみたいな、と思ってました。それと矢崎仁司監督の『三月のライオン』。ああいうミニマムな世界を描きたいと思いました。


─好きな監督とかいますか?


浦嶋 野村芳太郎監督の見逃されそうな市井の人達を丁寧に描いた映画が好きですね。『砂の器』は日本映画の最高傑作だと思います。


─今後は映画監督として活動していくんでしょうか?


浦嶋 映画はとりあえず体を動かしていれば何とかなるんで、僕にとってはけっこう楽ですね。ただ、マンガと違ってお金がかかるし、いろいろとクリアしなけりゃならないハードルがたくさんあるんです。とりあえず、今回の作品である程度の利益を出すこと。後はそれからですね。


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(画・浦嶋嶺至)



マンガ家で成功するには、ひたすら才能を磨けばいいのかもしれないが、イベントや映画をプロデュースし、成功させるには「運」や「人」を呼びよせる力が必要だろう。どうやら浦嶋嶺至氏にはとんでもない資質があるようだ。今後、我々にどんなネタを提供してくれるのか…期待しています!


浦嶋嶺至(うらしまれいじ)
漫画家。主に男性向け成人向け漫画を手がける。1988年11月、東京電機大学工学部在学中に「STAIR-GOBLIN」(『コミックラム』(司書房)vol.8)で商業誌デビュー。2005年1月25日より、旧ペンネームを現ペンネームに改名。最新単行本は「ぬきまん。」