須長史生 ?コイトゥス再考#26? ハゲ学のススメ・後編 「ハゲのゼロ年代」

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コイトゥス再考 #26

須長史生

ハゲ学のススメ・後編 「ハゲのゼロ年代 “からかい”から“いじり”へ

取材/辻陽介


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■ ハ ゲ を 笑 う の は 本 能 か



―先程、教科書的な回答として「ハゲを笑う人を笑うこと」というのを挙げられていました。もちろん「ハゲを笑う」ということが非常に幼稚であるということ、また笑っている人間が一番バカだということにはまったく同意致しますが、一方で、例えばエンターテイメントとしての「笑い」の世界においても、あえて取るに足らない幼稚なネタで笑いをとる文化というものがあり、我々は日常的にこれらを享受しています。ようするに「くだらない」を愛でる感覚ですね。それによって誰かが傷つくかもしれないというのも理解できる一方で、これは正邪を越えた問題であるようにも思うんです。

須長 分かります。「ハゲ」を笑うことをやめたところで、次は「アゴ」であったり、「エラ」であったり、笑うネタというのは尽きません。仮にひとつひとつ潰していっても、結局、構造は変わらないんです。ただの言葉狩りになってしまう。お笑いというのは、プロに限らず、劣っているとされているものや、単純に目立ったもの、あるいは豊かなものでもいいんですが、要するにちょっと変わったものを笑うことで楽しむという部分がある。「ハゲを笑う人を笑う」というのはその意味でちょっと不自然であるとは思います。

ただ一方でこうも思います。つまり、習慣によて変わっていくこともできるのではないか、と。「外見差別というのは私たちの本能であり、それを抑えつけることは不自然だし、人生の楽しさが損なわれてしまう」というのも論理としては分かるんですが、ただ、もしそれがなかったら私たちは人生を楽しめないかと言えば、そんなこともないのではないか。仮にそれがなかったとしても充分に楽しんで生きることはできるんじゃないか、とも思うんです。

例えば、僕の子供時代などにおいては、朝鮮人に対する差別というのがまだ強烈に存在していたんです。表立ってなされてはいなかったかもしれませんが、確かに存在していた。その後、かなり強力な形で「そういうことはいけないんだ」という形で抑えこまれたわけですが、ある程度の年齢になると自然と分かるんです。「それがいけないと言われるのも当然だな」と気付く。そのような価値観が内面化された上で、あらためて朝鮮人差別を見てみると、今度は嫌悪感が生じるんです。最近でも韓流スターをネタにしているお笑い芸人の方がいますが、素直にあまり笑えないんですね。これは道徳的な意味ではなく、単純に「つまらない」と思ってしまうんです。もちろん無邪気に笑っている人もいますし、その人達を道徳的に非難するつもりはありません。

重要なのは、「笑うのが自然で笑わないのが社会化された不自然な姿である」というのは本当なのか、ということです。逆にこうは言えないでしょうか。「ハゲ」を笑うというのが、今ここにある文化であって、コードである、と。その文化、コードから一度離れてしまうと、もはやそれは笑えないものになってしまうとも言えます。

―確かに時代や環境ごとに笑いのコードというのはあると思いますし、ある属性に対して笑ってしまう感覚は、いずれも普遍的なものではないと思います。では、もう一つの回答、「ハゲ男性がファッションのプロと組む」ということについてお聞きしたいのですが、たしかに、「ハゲ」が「からかい」の場における攻撃材料となるのは、「ハゲ」が一般に「カッコ悪い」という認識があり、それゆえに「ハゲ」と名指されれば傷付くだろうという想像力が共有されているためだと言えます。個々の「ハゲ」の人達がカッコ良くなることで、つまり「ハゲ」がカッコ悪いといったイメージが薄まってゆけば、攻撃材料としての「ハゲ」もまた魅力を失っていくと考えられるんでしょうか。

須長 ある意味、それは永遠のテーマなんです。また、それはあらゆるハゲ論が必ず帰着する点でもあります。「ハゲ」でもカッコいい人が増えれば、おのずと「ハゲ」差別なんてなくなるのにね、というのは分かりやすいんですが、同時に、それほど単純な問題でもないかもしれないという気持ちもあります。

例えば留学生が多めの大学で「ハゲ」についての講義をおこなうと、留学生達はみな違和感を示すんです。「そこまで日本人はハゲを気にしますか」と不思議がる。「私の国では違います」といったことを言うんですね。欧米系の留学生も反応は同様です。「ハゲ」を隠すためのカツラというのはアメリカから来ているんですが、しかし、それでも日本の「ハゲ」をめぐる状況には違和感を呈する。どうやら日本においては「ハゲ」に対する意識が変な形でこじれてるようなんです。

例えば日本では「カッコいい」とされていた俳優であっても、ハゲると同時にキャラクター変更まで迫られてしまうところがある。例えば西村雅彦さん。彼もキャリアの始まりにおいてはシリアスな演技が似合う俳優で、一般的にも「カッコいい」とされていたんですが、ドラマ「古畑任三郎」以来、ちょっと情けないハゲた中年男性というイメージに転換しました。温水洋一さんなど、他にも例はあります。では、そういったことに左右されない、つまり「ハゲ」て以降もキャラクターの変更を迫られていないモデルは誰か。かつては草彅剛さんなどを、毛髪量の多寡に左右されず、カッコいいイメージを貫いている人の例に挙げていました。ただ、彼は飽くまでSMAPのメンバーである、という前提も無視出来ず、あるいは、ちょっと水準の違う話なのかもしれないという気もする。こう考えていくとカッコいい「ハゲ」が現れて価値転換が行われるというのは難しいのではないかとも思えます。

それよりもむしろ、「ハゲ」なんてどうでもよい、となる方向性の方が有効性があるかもしれません。今から10年、20年前というのは「ハゲ」であることが決定的なスティグマで、本人の意志とは関わりなくキャラ転換を迫られるようなものでしたが、最近ではその圧力は低下してきている、あえてキャラを転換しなきゃいけないような状況から変化しつつある、とも思うんです。これは極端な例ですが、美容家のIKKOさんはテレビに出演する時にウィッグやカツラを付けてますよね。彼がセクシュアルマイノリティーであるということをひとまず棚上げした上で語ると、彼がカツラであれ、ウィッグであれを装着していても、タブーを犯しているという気がまったくしない。もしカツラを取った時に頭がハゲていたとしても、別にどうでもいいじゃないですか。彼はTPOでウィッグやカツラを使い分けているんだな、という認識で、何かを隠そうとしているなんて考えないでしょう。ユル・ブリンナーのようなカッコいい「ハゲ」が出て来て価値転換をするよりは、「ハゲ」だろうが「ハゲ」でなかろうがどっちでもよいという感覚、ある種の適当さが重要になってくる気がします。

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『ハゲを生きる-外見と男らしさの社会学』
(著)須長史生