絶対漫画宣言/駕籠真太郎

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絶対漫画宣言
(草稿)

駕籠真太郎



 漫画を漫画たらしめている最大の特徴は、「それがコマの連続体である」という、端的な事実である。それこそが、漫画表現と、その他の視覚表現とを隔てている当のものであり、また、それゆえにコマの連続の「仕方」は、マンガ表現の主脳と言って差し支えない。筆者が絶対漫画と呼ぶものは、「コマの連続体である漫画」が、それがそうであるように、描かれた漫画のことをいう。いわばそれは、漫画の超純粋化であり、コマとフキダシの切断と配置における恣意性の有意識化である。同時にそれは、描き手と読み手の透明だと信じられている関係性への懐疑、すなわち、漫画を括弧でくくる試みである。



 我々がまず行うべきことは、漫画表現が複雑性の追求を忘れ、交換可能な容器に停滞している昨今の漫画状況を批判的に検討することにある。ここで肝要となるのは、先人の蓄積と研鑽の上に成り立つ漫画構成記号という財を目減りさせることなく、適正なストック/フロー関係を形成することであるが、これについては実践的に構想されていく必要がある。その上で、記号的刺激だけを与え、また与えられ続け、動物的に鈍磨した描き手と読み手双方は、痛烈に批判されねばならない。



 ところで、本質主義は、そのものがもつ無限の可能性を阻むものであってはならない。絶対漫画主義は、その本性において本質主義的思弁を背景にもつが、それはキャラクターとストーリーへの敬虔な信仰によって収縮する漫画表現を、かつて一度も存在しなかった本性へと復古させるための便法であり、言うなれば方法論的本質主義であって、それは漫画と漫画家、そして漫画の読み手に、ある種の倫理を要請することになるだろう。



 絶対漫画主義が提示する「漫画の倫理」とは、メディアに対しメッセージが遅延するという事実に関わる。封筒もまたメッセージの主要な一部であるとマクルーハンが論じているように、「それが漫画である」というメッセージは、つねにキャラクターとストーリーに先行する形で作品を規定している。先述の通り、「それが漫画である」とは、取りも直さず「それがコマの連続体である」という事実を意味する。よって「コマの連続する仕方」は、あらかじめ作品を構成するストーリーあるいはキャラクターを拘束し、それらと不即不離の関係を結ぶ。



 当世、隆盛を極めているメディアミックスは、この地点でいちど否定されるだろう。しかし、筆者は漫画的文法を映画的文法、あるいはアニメ的文法に翻訳していく作業がもつ創造性を否定するものではない。筆者が本稿で批判するのは、異なる形式間における文法の翻訳ではなく、文法の不在、あるいは文法への志向の不在である。



 「漫画の倫理」とは、ようするに、今述べた「文法の不在」「文法への志向の不在」という状況を忌避すること、より素朴に言えば「漫画に対して誠実である」ことである。短絡的な「面白さ」への信仰が帰結するところは、コンテンツの画一化と飽和化、そして緩やかな低調化に他ならない。よって、目下なされるべきことは、いまやドミナントであるキャラクター消費及び供給を決然と中断し、「コマの連続体」へと回帰すること、その切断と配置の恣意性を意識の俎上に乗せることである。漫画家とは、脚本家であると同時に絵師であることではないし、漫画とは、精密な絵コンテではない。漫画家とは漫画家であり、漫画とは漫画である。かくして、筆者は絶対漫画主義を標榜する。



 本稿は、絶対漫画という概念について、その骨法を記述したものであり、また、既に描かれ、やがて描かれるであろう絶対漫画の、さしあたっての草稿である。





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絶対漫画凡例1


絶対漫画凡例2






駕籠真太郎

漫画家。エロ、グロテスク、猟奇、スカトロといったサブジャンルに留まらず、人間という存在を弄り倒す人体改造や人体破壊をネタに狂気的な世界を描いている。2010年「フラクション」で第三回世界☆バカミスアワード受賞

webサイト 印度の乱数/ツイッター@shintarokago










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