ヒロイン手帖 × 内山亜紀

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ヒロイン手帖 その7

内山亜紀

1つの時代を創り上げた作家が語る少女性愛観

文/荒玉みちお 構成/うぶモード特ロリ班



ロリコン漫画界の大御所、巨匠、大家、御大……。などなど、称える言葉はきりがない。自身では、自分の作品を「オムツマンガ」と称したこともある。まだ「ロリコン漫画」という言葉すら定着していなかった時代、内山亜紀作品は男たちのモヤモヤ感を明確に方向づけた。


まずは聞いてみた。ロリコン漫画の巨匠と呼ばれることをどう思うか。


「よくわからないですよ(笑)。そんな(ロリコン漫画を描いている)意識もなかったし。そもそも“ロリコン”という言葉すら知らなかったんです」


漫画家・内山亜紀がデビューしたのは今から約30年前のことだった。


「出発点は劇画でした」


その頃、出版界はエロ劇画誌のブームだった。中小出版社から20誌を超える月刊誌が出ていたという。まだ“ロリ系”は存在していない時代だ。


「少年漫画志望と言っても、実はそのジャンルの作品を最後まで仕上げたことは一度もなかったんです。情けないですよね。敷居が高いなと(笑)。そんな頃に劇画ブームがきて」


それでターゲットを劇画誌に方向転換する。


「その頃は会社勤めしていました。今はなくなっちゃたんですけど、キングトロフィーという、優勝カップやトロフィーを作る会社で。あの当時はボーリング大会とかコンペなんか盛んで需要が多かったんです。そこのデザイン部門に潜り込んでいました」


会社勤めをしながら、夜に漫画を描くという生活。


「会社のコピーを使って作品を何枚も縮小コピーして、あちこちの出版社に送りつけたんですよ。もし興味がおありでしたらお電話くださいと。まあ、会社には後でバレましたけどね。なんか最近コピー枚数が多いな。犯人は誰だと(笑)。でもそれで、本当に出版社から電話がかかってきたんです」


それが『劇画ハンター』(久保書店)だった。


「それで久保書店さんと知り合ったから、最初は劇画を描いてみたんです。けど少年漫画向けの絵柄だから合わないんですよね。劇画ですから、当然のことながら大人の女性の裸が前面に押し出されるわけです。そういう絵を頑張って描いてみたんですけど、自分のタッチにそぐわない。とてもぎこちない漫画になって(笑)。だから、せっかく出版社と知り合ったのにうまく描けないというのが続いて困っちゃったんですけど、そのうち編集さんが“好きなように描いていいですよ”と言ってくれて。それで、極めて浮いた感じの漫画が劇画誌の中に入ることになったんです」


実験的に掲載された内山作品だったが、市場は歓迎した。


「やってみたらウケてしまった。じゃこれでいいやとなったんです。絵柄は少年漫画に出てくるような女の子なんだけど、中身は劇画そのものという」


連載が1年ほど続いた頃、他誌からも声がかかるようになった。同時に、久保書店から連載を一冊にまとめてみようかという話も来た。


「こんなん売れるかなと不安はあったんですけどねー」


期待と不安のなか、処女単行本が発売された。


「編集さんから“もう本屋に並んでるはずですよ”と言われて、すぐ見に行ったんですよ、漫画専門書店に。そこには劇画コーナーがあったんで、そこに行ったけど、ないんです。おかしいなあと思いながらも、あきらめて帰ろうとしたら、出入り口の近くにあった少年漫画誌のところに平積みになっていたんです。それで、平積みされた単行本の中で私の部分だけ少なくなっているんで、ああこれはもしかして売れてるのかなと期待したんです(笑)。だから念のために他の書店にも行ってみたんです。今度は最初から少年漫画コーナーに行った。けど、ないんですよ。劇画コーナーに行ってみたんだけど、やっぱりない。それで性懲りもなく店員さんに“内山亜紀さんの単行本は出てませんか?”と聞いたら“いま売り切れてます”と。笑っちゃいました。自分的には感動モノでしたけど」


以降は売れっ子漫画家として多忙を極める日々を送ることになる。


「売れっ子かどうかはわからないんですけど、とりあえず単行本の数は増えていきましたね」


最盛期には一ヶ月に連載14~15本を抱えていたという。単純計算で、2日に1本の締切ペース。ネタに困ることはなかったのか?


「それは困らなかったんですけど、14~15本あったんで、原稿がごちゃごちゃになって、どれがどれかわからなくなったことはありましたね」


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