ソドムの百二十冊 樋口ヒロユキ 003

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第三回

佐川一政 『霧の中』

川端康成 『眠れる美女』



 エロティシズムは禁止への侵犯であり、人間は死ぬまでこれを追求する動物だ、とバタイユは書いた。フロイトもまた、エロス(性の欲動)とタナトス(死の欲動)から人間の欲望はできている、と説いた。死とエロスというものは、いっけん真逆のようでいて、その実、きわめて近い存在なのである。


 小説『霧の中』の作者、佐川一政が描くのは、この両者が無限に漸近して、一つになってしまった世界である。本作に描かれる主人公の「私」は、留学先のパリで出会ったオランダ人女学生、ルネ・ハルテヴェルトを銃で撃ち殺して死姦し、その肉を調理して食べてしまうのだ。


 ご存知のとおり本作は、作者が実際に犯した犯罪に基づくものである。本誌の愛読者なら前々号に掲載された、佐川本人のインタビューも、おそらく読まれたことだろう。だが、あまりにも本書が有名すぎて、実際に読んだことがない人も少なくあるまい。実は私も未読だったが、実際に読んでみてわかったのは、佐川が意外なまでに真っ当な、比較文学の研究者だったということだ。


 本書では伏せてあるが、佐川は和光大学を卒業後、関西学院大の大学院で英文学を専攻。パリではソルボンヌ大学大学院の、比較文学科に留学している。ソルボンヌの優秀さは言わずもがなだが、関西学院の英文も、関西では名門の部類に入る。この関学という学校、戦前には同性愛の優位を説いた、作家の稲垣足穂を、戦後にはSMの大家の団鬼六と佐川を輩出している。ちなみに私も卒業生だ。一体なんという学統だろうか……。


 関学の「その方面」における優秀さについてはさておき、本書の冒頭部分では、彼が進んだソルボンヌの、コスモポリタンな空気が活写されている。学生には韓国人もオランダ人もおり、カフェで文学談義を交わし、カルチェ・ラタンでギリシャ料理をつつく。まぶしいほどの輝ける日々である。


 そんなパリの学生の中で、佐川は少々浮いた存在だったようだが、そこまでは青春の一時期に誰もが経験する、ホロ苦い思い出とさして変わらない。佐川は東洋人であることによる劣等感があったことを強調するが、級友の韓国人学生は現地に溶け込んでいるし、佐川も完全に無視されていたわけではない。特に被害者となったルネは、佐川にもっとも親身に接した学生だったようだ。


 だが、本書で次第に明らかになるのは、佐川の異性に対するコミュニケーション・スキルの、異様なまでの低さである。好意を寄せてくる女性もいないわけではないのに、その相手の部屋に突然、家財道具一式を持って現れたりする。当然、相手はドン引きする。手紙から住所を調べて家の周囲をうろついたり、下手をすると部屋に忍び込んだり。一度は強姦未遂で捕まってさえいる。


 そしてもう一つ驚くのは、幼少期に始まる人肉嗜好への強迫観念だ。人肉食への欲望を抱いたのは、なんと小学生の頃だという。その背景に伺えるのは、食べることで相手と同一化したいという、過激に変形した性欲である。この同一化願望と、前述した短絡的な行動が結びついたとき、「好意を抱く→即食べる」という、常人には理解しがたい結果をもたらすのである。


 さて、佐川のソルボンヌでの研究テーマは、川端康成の作品と、フランスのダダイズム文学の比較だった。川端文学の源流はダダイズムにあり、ダダの本場、パリで研究するには、もってこいのテーマだったろう。そんな佐川の川端研究と食人行為は、往々にして矛盾する性向として語られがちだ。かたやノーベル文学賞に輝く文学者の研究、かたや極悪非道の犯罪行為だからだ。


 だが川端作品の多くには、可憐で愛おしく壊れやすいものを、壊れやすいが故に愛し、愛するが故にあえて壊すという、倒錯した心理が描かれている。たとえば、あっけなく死んでしまう小鳥の生態を冷酷に描いた「禽獣」(『水晶幻想・禽獣』)は、そんな壊れやすさへの愛着を示す代表例だ。あるいは、睡眠薬で死んだように眠らせた若い女との添い寝の快楽、そしてオーバードーズによる女の死を描いた『眠れる美女』もまた、川端のそうした「破壊愛」が現れた作品だと言える。


 生死の境にある壊れやすい生命を、それ故に愛し、壊したくなる。そんな奇妙な欲望を、川端は執拗に描いていた。佐川はそうした川端の作品のなかに、自分と共通の資質を嗅ぎ当てたのではないか。佐川が無意識のうちに川端文学に探ろうとしたもの。それは彼が抱えていた食人欲を、文学的に昇華する方途だったのかもしれない。


 ちなみに、川端の弟子筋にあたる三島由紀夫の『仮面の告白』には、佐川同様の性的食人を夢見る場面がモロに出てくる。佐川がこれをどう読んだか、機会があれば聞いてみたい気がする。






霧の中.jpg#05『霧の中』 (著)佐川一政眠れる美女.jpg#06『眠れる美女』 (著)川端康成




樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

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