第五回
ジャック・ケルアック 『路上』
コリン・ウィルソン 『性と文化の革命家 ライヒの悲劇』
ジャック・ケルアックの小説『路上』には、奇人変人が続々と登場する。なかでも断トツの変人は「ブル・リー」である。世界を放浪して職を転々とし、麻薬を常習しつつ銃を蒐集。無意識下には七つの人格を併せ持つ……。作家のウイリアム・バロウズをモデルとするこの人物、自宅の庭に置いた「ある装置」に、毎日入り浸っていた。装置の名は「オルゴン・ボックス」。オルガスムを起こす原子「オルゴン」を、大気中から集める装置だ。
オルゴンはオルガスムを引き起こし、万病に効く性的エネルギーだという。要はトンデモ科学の産物なのだが、実はこの奇妙な装置、ウィルヘルム・ライヒなる、実在の人物による発明品である。コリン・ウィルソンの『性と文化の革命家 ライヒの悲劇』は、このライヒの生涯を綴った伝記。本誌前々号(ニャン2倶楽部Z)でもケロッピー前田氏が同書を紹介していたので、お読みになった方は多いはずだ。
さて、常軌を逸したこの人物、もとはウイーンの精神分析医で、しかもフロイトの直弟子だった。フロイトといえばエロスを中心にした精神分析で有名だが、ライヒはフロイト派の有能な若手だったのだ。ただし、やや高慢な人物だったらしく、保守的な古都ウイーンでは、周囲とのトラブルが増えていったらしい。やがてライヒはウイーンを出て、ドイツの大都市ベルリンへと移住する。
そこで彼が目にしたのは、労働者たちの悲惨な性の実態だった。あまりに狭い住宅のため、幼時に両親の性交渉を目撃するのはあたりまえ、子どもが周囲の大人から性的暴行を受けることもしばしばだった。きわめて劣悪な住環境が、子どもたちの性的トラウマを引き起こしていたのだ。
精神分析はトラウマの解消ならできるが、その根本にある経済状況は変えられない。そう考えたライヒは、政治的革命と性的革命の両立を掲げ、共産党に入党。性解放の理論的リーダーに就任して、労働者の性解放を提唱する。「もっと良い住環境で、誰とでもヤれる社会を!」。結果、ベルリンの共産党員は、倍増するに至るのである。
だが、ライヒは性解放に熱中した挙げ句、党の集会を現代の「ヤリコン」のような、巨大な出会い系パーティーにしてしまう。当然ながら、共産党の目的は革命であってヤリコンではない。ライヒは党をクビとなり、失意のうちにウイーンへ戻ることになる。
順風満帆だった人生に、暗雲が垂れ込めだすのはここからだ。帰郷した彼を待っていたのは、フロイト
からの絶縁状だった。そのころ、フロイトはエロスの理論を卒業し、より高度な理論へと進んでいた。声高に性解放ばかりを叫ぶライヒの姿は、かつての未熟なフロイト理論の、パロディーのように見えたのだろう。フロイトはライヒを破門して、精神分析の世界から追放してしまう。
追放後の彼の主張は、次第に妄想の色を強めていく。この世の問題はなんでもかんでも、性エネルギー「オルゴン」で解決するとライヒは断言。オルゴンを人体に照射すればガンが治り、空に発射すれば気象も操れると言い出して、実験がうまくいかなければ「UFOの妨害工作だ」と逆ギレしたのである。「性解放のリーダー」という前半生の輝きに比べて、嘘のような転落ぶりだった。
なぜ、ライヒは悲劇に見舞われたのか。それは彼がエロスの片面しか、理解しようとしなかったからだ。エロスは「シタイ」という本能の面と「シテハイケナイ」という禁止の面、両面を兼ね備えた存在だ。「シテハイケナイ」からこそ「シタイ」という矛盾した心理こそ、エロスの秘める法則である。ライヒはこの「シテハイケナイ」側面から目を反らし、無限の性解放を夢見たのである。
「シタイ」と訴える本能に「シテハイケナイ」とタガをはめる無意識の存在を、晩年のフロイトは「超自我」と名付けた。超自我は本能を飼いならし、社会との交渉の前面に立つ、いわば無意識の外交官だ。ライヒはこの超自我を破壊して、性的エネルギーを解放しようとしたわけだ。ではなぜ、ライヒは超自我を憎んだのか。実はライヒは少年時代、母の浮気現場を目撃。これを父親に告げ口し、母を自殺に追い込んだのである。
母を自殺させたのは、母の性行為にタガをはめようとする、ライヒ自身の超自我だった。母を自殺させた自分の超自我を、彼は生涯許せなかったのだ。だが超自我を葬り去れば、社会生活も不可能になる。常に「シタイ」とばかり叫ぶライヒが、社会から「シテハイケナイ」とつまはじきにあうのは、いわば当然の帰結だったのである。
かくてライヒは晩年には、狂気のなかで完全に孤立。詐欺まがいの医療器具を売りつけた罪で、懲役刑に処せられる。妄想は治癒することがなく、最後まで「大統領が自分を守ってくれる」と言い続け、結局そのまま獄死する。享年六〇、一九五七年のことだった。
#09 【路上】
(著)ジャック・ケルアック
#10 【性と文化の革命家 ライヒの悲劇】
(著)コリン・ウィルソン
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟