第六回
三島由紀夫 『豊饒の海』全4巻
ジョルジュ・バタイユ 『眼球譚』
「あの子まぁまぁ可愛いな」と思っていた女の子から、ある日「今度、ほかの人と結婚するんです」と打ち明けられたとたん、突然、綺麗に見えることがある。ものの本によるとヘーゲルは「欲望とは常に他人の欲望である」といったらしい。エロスもほかの欲望同様、自分だけの感情に見えながら、実は「他人が持っているものが欲しい」という、他人の欲望に支えられた存在なのだろう。
たとえば夏目漱石の『こころ』の場合。主人公の「私」は下宿先のお嬢さんを悪からず思っているが、ものにしたいとまでは思っていない。ところが友人のKがお嬢さんに恋しているのを知ったとたん、突如お嬢さんへの恋心が湧き、こっそり結婚を申し込む。結婚を知ったKは自死を遂げ、数十年後には「私」もまた、結局は自死を選ぶのである。
手を出してはいけないからこそ燃え上がる。この「シテハイケナイ」からこそ「シタイ」というパラドックスを、死ぬまで突き詰めることこそエロスの本質だ……。フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは、そんなふうにエロスを論じた。漱石の『こころ』にはまさに、こうしたエロスの秘儀が描かれているのである。
「私」がお嬢さんに求婚するのは、相手がKの思い人であり「シテハイケナイ」人だったからだ。他人の恋人というだけで欲情するのだから、これが「妻」ならなお燃える。単に他人の妻を奪うだけでなく、その親兄弟や仲人や、友人知人や職場の同僚、周囲のすべてから祝福されて結ばれた二人の間に、こっそり割って入るからだ。人目を盗んでの交情は、戦慄が走るほどのスリルだろう。
だが、しかし。単に人妻というだけなら、どこにでもいる平凡な存在だ。一体誰に手を出せば、一番ゾクゾクするだろう? たとえば、職場の上司が仲人をした夫婦に手を出すとする。これはなかなかスリルがある。だが、直属の上司よりも、課長や部長、いや社長が取り持った夫婦のあいだに割って入る方が、もっとスリリングになるだろう。しかし、それでも会社のなかの、狭い人間関係を壊すに過ぎない。では、どうすれば?
「犯したい!」と思う人間に「汝犯すなかれ」と禁じるのは神である。「シテハイケナイ」という禁を破ることは、西洋では神への叛逆を意味するのだ。だからバタイユの書いたポルノ小説『眼球譚』では、神父を犯して殺害する場面がクライマックスになっている。バタイユにとってエロスの本質とは、まさに神を犯すことだったのである。
西洋では「犯すなかれ」という神の命令に背く、究極のエロスをバタイユが描いた。だったら日本ではどうすればいい? 天皇が命じた婚約を犯して、姦通する小説を書けば良い。三島由紀夫は、そう考えた。実際、三島という人は、戦前からバタイユを愛読していたらしい。バタイユの説いたエロスの理論を、忠実に日本に応用した小説、それが三島の『春の雪』なのである。
『春の雪』の主人公、松枝清顕は、幼なじみの伯爵令嬢、朝倉聡子を悪からず思っており、聡子から再三告白を受けるが、まったくこれを相手にしない。ところが聡子が結婚を決めたとたん、突如、松枝は聡子に迫る。だが、この小説の舞台は大正時代。人の女房に手を出すだけでも、姦通罪に問われる時代だ。バレたら六カ月以上二年以下の、重禁錮に処せられるのである。
しかも、ここで犯そうとしている聡子は華族なので、庶民でいう仲人にあたるのは、畏れ多くも天皇陛下だ。バレたら旦那や親兄弟はおろか、天皇陛下の顔にも泥を塗る。清顕はそれを承知の上で、聡子を犯そうとするのである。まさに究極の姦通だ。
やがて清顕は聡子との思いを遂げるが、聡子は髪を下ろして尼寺に出家し、清顕はその門前で死に至る。二人は姦通の報いを受けて、出家と死とに辿り着くのだ。「シテハイケナイ」からこそ「シタイ」という矛盾を、二人は死の極限まで突き詰めたのである。
『春の雪』は四部作「豊饒の海」の第一部で、その後『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』へと続き、日本のエロスの変遷を、七〇年代まで辿っていく。だがラストの『天人五衰』では、戦後社会に対する幻滅を、三島はこれでもかと綴ってみせる。天皇が人間宣言をしてしまった戦後の社会には、厳密な意味でのエロスは存在しないと、三島は考えていたのだろう。
そしてこの四部作を書き終えたあと、三島は憲法改正を訴えて自衛隊に乱入、割腹自殺を遂げるに至る。通常は思想的な動機から解釈されがちなこの事件だが、実は三島が事件を起こした動機は、戦後日本では厳密なエロスが不可能であることへの絶望にあったのではないか、と思う。三島は自分の腹から噴き出す鮮血で、戦後の象徴天皇制を汚し、究極のエロスを血で描いたのである。
#11【眼球譚】
(著)ジョルジュ・バタイユ
#12?15【豊饒の海】全四巻
(著)三島由紀夫
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟