内なる辺境の人々 × 丸尾末広

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内なる辺境の人々

丸尾末広

まぁ、悪ふざけです。真面目なものではない

文/辻陽介 写真/藤森洋介


(2009年4月/都内某所にて)


「深層心理の表現であるとか、そういったものでは全くないんです」


 作品創作の動機について尋ねると、丸尾末広は無表情にそう語った。抑揚のない、淡々とした口調のせいか、丸尾の言葉からは、どことなくニヒリズムが漂う。


「僕の表現には特別な深い意味なんてないんですよ。まぁ、面白半分ってとこですかね。ただ、絵として面白い。それだけです」


 平たく言えば、冷めているということになるのだろうか。丸尾作品を読み、独り善がりな分析を試みていた読者の一人であった私は、想像を裏切る回答に少なからず動揺していた。どうにかして話に奥行きをもたせたい、私は半ば強引に質問を重ねる。


「では、作品を通じて社会に伝えたいことなんかはありますか?」


 しかし、そのような淡い期待も、直ぐさま鮮やかに裏切られてしまう。


「社会へのメッセージですか…、これといってないですね」




無 惨 絵 師 の 戦 略




 七十年代から九十年代に掛けて、日本の漫画界の地下世界を牽引し続けた雑誌『ガロ』。その非商業的な性格により、『ガロ』は多くの前衛的漫画家を輩出したことで知られているが、その中でも一際の異彩を放っていたのが丸尾末広であった。


 少女の処女を犯し哄笑する畸形者、牛の眼球が埋め込まれた女性器、夫の頭部を膣にうずめ恍惚する妻、糞尿の晩餐会に興ずる少年少女…、大正ロマンティシズム溢れる優美な描線で写し出された、さながら倒錯性愛の見本市のごとき空想世界は、従来の漫画ファンのみならず、荒俣宏やジョン・ゾーンなど、多くの文化人をも魅了し、また、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなど、海外でも多く翻訳され、カルト的な人気を博している。


「かように人々を蠱惑する作品の背景には、必ずや荘厳たる思想や哲学があるに違いあるまい」


 作品の深層に特別な思想を求めるなど青臭い営みであることぐらい百も承知だが、それでもなお深読みを試みたいとするのが読者の心情というもの。安直にも、私は取材前から或る種の決め込みをもって丸尾作品を読み、その倒錯した世界観に作者だけが知る特別な意味のようなものを求めてしまったのである。それゆえ、丸尾末広と実際に会い、その予想外の軽いスタンスに、なにか肩透かしを食らったような気持ちになってしまったのだ。


「当初は普通に少年漫画を描こうと思っていたんですが、自分には向いていないと気づき、それでポルノ漫画を書き始めたんです」


 丸尾末広は一九八十年に漫画家としてデビューしている。ポルノ漫画誌に掲載された処女作『リボンの騎士』は、裸で暮らす少女が催眠術で少年を惑わし食べてしまうという、なんとも荒唐無稽なお話だ。


「その当時、八十年頃はポルノ漫画誌が割と盛んな時代だったので、何よりそっちの方が手っ取り早かったんです。まぁ、半分は偶然ですね。たまたま、ポルノの舞台を選んだものですから、自然と過激な性描写の多い作風になったんですよ。意図ではなく、状況です」


 単純明快で、実に分かり易い。要は、ポルノが隆盛していた当時の時流に棹差したというわけだ。とはいえ、当代一の無惨絵師と称される丸尾末広である。残酷や頽廃といった要素になにか特別な思い入れがあるのではないか。


「残酷なものや頽廃的な芸術は、もちろん嫌いじゃないですよ。でも、特に執着しているというのではないですね。ただ、普通に正常位のセックスシーンを並べても漫画としては退屈になる、それでああいう描き方をしてるんです」


 個人的な嗜好嗜癖ではなく、漫画家としての配慮。丸尾の作品は、多くのSM描写に満ちているが、本人にSM的倒錯はないと言う。


「そういった性癖がまったくないわけではないと思いますが、そんなに熱烈なものではない。実践することもないですね。何て言うか、面倒くさいというのもあります。ですから、描いている時は結構冷静なんです」


 また、丸尾作品には代表作である『少女椿』を筆頭に、少女をモチーフとした作品が数多い。丸尾の描く少女は、どれも繊細で美しく、丸尾作品の耽美性は、この少女達の存在に負うところも大きいと言える。


「これもよく誤解されるんですが、少女への偏愛とかじゃないんですよ。純粋に絵として書きやすいんです。大人の女性に較べて綺麗に書ける。好みうんぬんというのとは、ちょっとズレてくるんです」


 やはり、ここにも趣味や性癖でなく、実際的な事情がある。大抵の場合、作品内において少女の無垢は徹底的に凌辱され、救いようのない受難を被ることとなるのだが、少女性をそのように描き出す理由とはなんだろうか。


「そういうのが似合うんじゃないかって思うんで。幸せなものより、不幸せなものの方がね。その方が読者も共感や同情をしやすいですから。そういう意味でわざと不幸せな少女を描いているんです」



少女には不幸の方が似合うというのは、もちろん絵として。その発想は、丸尾作品の要所要所に描かれ
る、小人やダルマ人間などの畸形の者達にも通じていく。


「普通の人間より絵として面白い。これも特に執着があるわけではありません。あと僕が漫画家デビューした当時、『フリークス』や『ピンクフラミンゴ』とか、畸形を描いた映画が公開されていて、そういったものの影響もあったと思います」



ところで、稀にではあるが、丸尾末広は極めて政治色の強い作品を描く。例えば、『新ナショナルキッド』所収の短編『さらば昭和』などがそうで、丸尾は象徴的な表現を用いて、昭和天皇を過激に揶揄して見せる。私は丸尾末広の政治意識について尋ねてみた。



「政治的なものには実はほとんど興味ないんです。ですから、ああいうのは殆ど面白半分でやっているだけ、真剣ではないですね。天皇を批判したりというのは、本当はアイデアとしても良いとは言えないんですが」


 苦笑交じりにそう語る丸尾末広から、露悪趣味や嘯きのようなものは感じられない。意外ではあったが、それが丸尾の本音なのだ。


「こう言ってはなんですが、まぁ、悪ふざけです。真面目なものではない」


 先にも述べた通り、私は丸尾末広という人物を独り善がりな妄想で捻じ曲げ、誤った理解に固執していた。私は、丸尾の表現する世界に、彼の精神の内奥に鬱積する情欲の昇華や、あるいはアカデミックに探求された哲学の表現といったものを見据えていたのだ。だが、事実は全く違っていた。創作の基底をなしているのは、体系だった思想でも、ましてやリビドーでもなく、「面白半分」や「悪ふざけ」といった丸尾の童心のごときものだったのだ。とはいえ、童心であるから即ち軽薄であるというのとも違う。


「せっかく漫画を描いているのですから、漫画だからこそできる表現をしたいんです」


 そこには丸尾末広の確かな矜持が感じられる。深層へ切り込もうと試みる私を、「ただ絵として面白いかどうか」という言葉で断ずる丸尾の透徹した姿勢は、さながら絵師の生理といったところか。丸尾は漫画という媒体の現状についてこう語っている。


「最近、漫画を原作にしたテレビドラマが結構多いじゃないですか。なんだか、漫画がテレビドラマや映画の絵コンテみたいな感じになっている。そういうのって面白くないんじゃないかと思うんです。漫画はあくまで完成された作品であって、絵コンテとは違う。映像では描けないような毒があった方が面白いでしょう」


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