ソドムの百二十冊 樋口ヒロユキ 007

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第七回

中上健次 『枯木灘』

クロード=レヴィ・ストロース 『親族の基本構造』



 下町のガラの悪い女とセックスをして、雄叫びのような喘ぎを聞くのと、深窓の令嬢が恥ずかしげに漏らすため息を聞くのと、読者はどちらが魅力的に感じるだろうか? かつて作家の三島由紀夫は、深窓の令嬢のため息の方が、絶対エロいと考えた。「シテハイケナイ」からこそ「シタイ」と思う、それがエロスの神髄だからだ。


 日本でもっとも犯してはならぬ、究極のタブー破りとして、三島は、華族の姦通を描いてみせた。だが戦後の社会では華族制度がなくなり、皇室のタブーも薄れていった。戦後の日本社会では、もうエロスは成り立たない。三島はそう考えて、絶望の末に命を絶ったのである。


 それにしても本当に、天皇や華族のような集団でなければ、日本のエロスは成り立たないのだろうか?


 この問いに応えてみせたのが、作家の中上健次だった。中上の代表作『枯木灘』の舞台は、和歌山県新宮市に実在した中上の出身地、「路地」と呼ばれる被差別部落だったのである。


 登場人物の家族構成は、凄まじいまで複雑だ。主人公の母親は、都合三人の夫とのあいだに、六人もの子どもをもうけており、これら腹違いの子のほかに、種違いの兄弟が四人もいる。腹違い、種違い、妾腹、養子が入り乱れるこの家族で、主人公の秋幸は、母親の姓を名乗って暮らしている。万世一系、男系男子で続く天皇家とはまったく真逆の、複雑に入り乱れた母系的家族である。


 男はみな土木作業員、女はみな工場へ奉公に出る。妹の婿は暴走族上がりの女たらし、遠縁にあたる叔父の手は、ひづめのように割れている。種違いの姉の一人は、夫を身内に刺殺されて発狂し、種違いの兄の一人は、アル中で刃物を振り回した挙げ句、幻聴で「指令」を聞いて自殺している。まるで凶事と不幸の曼荼羅である。


 きわめつけは主人公の実父、浜村龍造である。全身に入れ墨を背負ったこの男は、闇市で盗品を売りさばき、身内の住むバラックに放火して地上げを行い、商店を見れば乗っ取って潰し、最後はつまらない喧嘩で服役する。しかも服役の直前には、同時に三人の女を孕ませていた。主人公と種違いの兄弟は、いずれも龍造の子どもなのだ。


 浮気、駆け落ちは日常茶飯事、女が売春で暮らしを支えることすら珍しくない「路地」の性。「シテハイケナイ」と禁じるタブーなど、ほとんど存在しないこの場所で、エロスは存在できるのか。三島なら「無理だ」と考えただろう。だが中上は「できる」と考え、この物語を綴ったのである。


 主人公の秋幸は、自分と同じ浜村龍造の種から生まれた娘、売春婦のさと子を買う。自分の腹違いの妹であると知って、あえて秋幸はさと子を抱くのだ。性的なタブーがほとんど存在しないかのようなこの路地にも、厳然たるタブーは存在する。親子、兄弟は交わってはならないという、近親相姦へのタブーである。秋幸はそれを犯したのだ。


 文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースの名著『親族の基本構造』によれば、人類の社会はすべて近親婚の禁止というタブーを持ち、そこに例外はないのだという。この人類にとって普遍的なタブーを、秋幸はあえて犯してみせる。なぜか。三人の女を同時に孕ませ、自分を捨てて出て行った実父、浜村龍造への復讐のために、である。


 秋幸もさと子も、同じ浜村龍造の性器から生まれた子どもである。その腹違いの兄妹が、人類普遍のタブーを犯して交わることは、実父、浜村龍造の性器によって、龍造自身を犯すことだ。秋幸はそう考えたのだ。


 紀州、熊野のこの部落では「きょうだい心中」と呼ばれる歌で、盆踊りを舞うのが習わしだ。兄と妹が恋に落ち、その罪を悔いて心中を遂げるという歌である。路地に祖先の霊が行き交う盆踊りの日、「きょうだい心中」の歌声を聞きながら、秋幸は浜村龍造の息子である腹違いの弟、秀雄を殴り殺す。妹と契り、弟を殺すという二つのタブーを、秋幸は同時に犯したのである。


 この二つのタブー破りは、母を犯し、父を殺した、オイディプスの神話に重なって見える。天皇家とはおよそ真逆の、凶事と不幸の曼荼羅のような路地に、神話的なまでのエロスが花開くことを、中上はこの作品で示した。それは、部落出身の作家、中上健次による、三島由紀夫への批判でもあった。彼は被差別部落の悲惨と栄光を同時に書くことで、差別に対する怒りと闘争を書いたのである。


 ちなみに本作は三部作からなる大河小説「秋幸サーガ」の一編であり、この『枯木灘』のほかに短編の『岬』、大長編の『地の果て 至上の時』という二作がある。通読すると、死と性の絡み合うすさまじい世界観に圧倒されること間違いない。是非、併せてお読みいただきたい。






615BS6ZWG2L._SS500_.jpg#16【枯木灘】 (著)中上健次41AMQB0N57L._SS500_.jpg#17【親族の基本構造】 (著)クロード・レヴィ=ストロース



樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

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【ブログ】少女の掟