第十五回
紫式部 『潤一郎訳 源氏物語』
今回ここでご紹介するのは、平安時代が生んだ我が国最高のエロスの聖典『源氏物語』全五四帖である。紫式部の手になる本書では、ご存じ主人公の光源氏が、あらゆる性的逸脱を繰り返す。エロスを軸にした貴種流離譚、それが源氏物語なのである。
たとえば冒頭の「空蝉」の帖では、出会ったばかりの人妻と、レイプ同然に寝てしまう。いっぽう光は、わずか十歳前後の少女、紫の上を、拉致同然に連れ帰り、自分好みの女性へと養育、妻として迎え入れる。光は万事この調子で、よくいえば純粋で欲得とは無縁だが、悪くいえば成り行き任せで、女と見れば突撃する。感情の赴くままのエロスの申し子、それが光源氏なのである。
こうした行き当たりばったりの行動の末、光は父帝の後妻、藤壷を妊娠させてしまう。藤壷は父帝の先妻、つまりは光の亡母に生き写しで、まさにマザー・ファッカーである。藤壷は男子を出産するが、生まれて来た赤子の顔は、父親の光に生き写し。光と藤壷は罪悪感に恐れ戦くのである。
そればかりか光は皇太子の許嫁、朧月夜とも寝てしまい、これが露見したために、京をはるか離れた海辺の町、須磨へと配流されることになる。だが時を同じくして都に変事が相次ぎ、これは光を島流しにした祟りに違いないという噂が立って、晴れて光は無罪放免、再び都へ戻るのである。
いっぽう光と藤壷との間の子どもは、成人して帝の位に就くが、実の父親が帝でなく、光であったことを知って衝撃を受ける。以降、光は帝の父であることからトントン拍子に出世を遂げ、ついには天皇の地位をも凌ぐ、准大上天皇の位に就くのだ。
この物語が書かれた摂関時代は、藤原氏を中心とする貴族が天皇家に娘を嫁がせ、天皇の親戚という権威を笠に着て、摂政、関白として権勢を振るった時代であった。つまり貴族たちが姻戚関係というエロスを、権力奪取の手段として縦横に駆使したのが、摂関時代だったのである。
こうした摂関期の緻密な計算に基づく「政治的エロス」に真っ向から対立するのが、光源氏の無軌道なエロスだ。光は政治的意味合いには頓着せず、欲望の赴くままに行動するが、その結果、政治の道具と化したエロスを打ち負かすのである。
しかもこの物語は、光の栄華でメデタシメデタシ、では終わらない。晩年になって光は正妻に女三宮を迎えるが、かつてのライバルの息子に寝取られ、女三宮は不義の子を出産してしまう。かつて何の考えなしにエロスを暴走させた前半生の報いが、同じく無思慮な若者の暴走するエロスとなって、光の晩年をかき乱すのである。
エロスを政治的手段に用いようとする人々は、決まって無軌道な光のエロスの前に敗れ去る。だが、その光でさえも、若々しいエロスの暴発の前に、なすすべもなく屈辱を味わう。本書に登場する一群の男女は、押し寄せるエロスの濁流によって、哀れな小舟のように弄ばれるのである。
エロスは人が何かの道具として使いこなせるほど、単純な存在ではない。どれだけ計算し尽くしても、計算通りには動かないのが、エロスという存在だからだ。この物語を一貫して流れるのは、こうした制御の効かないエロスの激流なのである。
実際、源氏物語が書き上げられて約半世紀のち、藤原氏が皇室に入内させた娘からは、男子が一人も生まれないという事態が起こり、藤原氏は権勢を失っていく。本来は制御不能であるエロスで権力を築いた藤原氏は、エロスの制御不能性によって、再び権力を失っていったのである。
源氏物語を読んでいると、こうした摂関政治の政治的エロスが没落していく時代を、紫式部が予期していたかのように思える。ちなみに紫式部という人は、藤原氏一族の歌人の家に生まれ、父の出世や没落とともに、一時の栄華や落剥を味わっている。のちには二十歳も年上の官僚と結婚したり、時の権力者である藤原道長に言い寄られたりと、波瀾万丈の生涯を送ったようだ。
たとえひととき栄華を得ても、儚く潰え去るエロスの無常を、彼女は知っていたのだろう。摂関政治の終わりとともに、世はエロスと愛憎が波乱を生む、平安末期の動乱時代に突入する。源氏物語はそんな平安末期を、既に先取りしていたのである。
……などとエラそうに書いてきたが、実は私は昔から源氏が苦手で、原文で読もうとしては幾度も挫折した経験を繰り返している。初巻だけ読んでは挫折する、いわゆる「桐壺源氏」である。今回私が読みおおせたのも谷崎潤一郎による、通称『谷崎源氏』のおかげだ。谷崎源氏は名訳の誉れ高い現代語訳で、現代の我々にも読みやすい。読者諸氏にもご一読をお薦めしておく。
#30【潤一郎訳 源氏物語】
紫式部
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
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【ブログ】少女の掟