第十九回
フリードリヒ・ニーチェ 『悲劇の誕生』
マルセル・ドゥティエンヌ 『ディオニュソス 大空の下を行く神』
遠い神代の時代には、神々や権力者は自由自在に、エロスと権力を楽しんでいた。我が国の古事記の神々同様、ギリシャ神話の神々もまた、エロスに遊ぶ神々だったのだ。強姦、獣姦、スカトロ趣味。近親相姦、人肉食。自己愛、不倫、人形愛と、ヤってはいけない欲望を、縦横無尽に語った神話。それがギリシャ神話なのである。
だがヨーロッパの人々は、ギリシャ神話のこのような、人倫にもとるほどの過激なエロスを、長らく認めようとしなかった。彼らにとってギリシャ文化は、優れた詩や演劇、哲学、そして美術と建築を生んだ、このうえなく理知的な文明であり、ヨーロッパ文化の源流であったのだ。
ルネサンス以来のこのような、伝統的なギリシャ観に、おそらく初めて異を唱えたのは、フリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』だっただろう。彼の描くギリシャ文化は、二つの顔を持っている。一つは太陽神アポロンのように、明るく澄んだ理知的な顔。そしてもう一つは酩酊と狂乱の神、ディオニュソスのように、感情を暴発させて荒れ狂う顔。ギリシャ文化にはこの二つの顔があったと、ニーチェは同書で説いたのである。
ディオニュソスはローマ風の呼び名でバッカスとも呼ばれる神だ。かつてギリシャの女性たちは、この荒ぶる神を信奉し、ひねもす酒に酔って暴れたのだという。ディオニュソスの秘儀のある日には、女たちは犠牲の羊を引き裂いて血にまみれ、相手が男女のいずれを問わず、乱交に明け暮れていたらしい。まさにニーチェが説くがごとき、理性へのアンチテーゼのような神である。
ベルギー生まれのフランスの人類学者、マルセル・ドゥティエンヌの著書『ディオニュソス 大空の下を行く神』によれば、ディオニュソスは「放浪する神」として知られていたそうだ。酔っぱらいの千鳥足よろしく、あちらの町からこちらの町へ、ふらりふらりと渡り歩く。辿り着いた街ではまるで熱病のように、ディオニュソス信仰が広まって、日夜酒宴が繰り広げられたそうだ。
ディオニュソスは酒の神であると同時に「愛されない神」でもあった。彼はゼウスの不倫によって生まれた不義の子で、継母であるヘラから憎まれ、その祟りから逃れるため、世界各地を放浪したのである。エジプト、シリア、トルコ、そして遥かインドまで。ヘラの追跡の魔手を逃れて、ディオニュソスは放浪の旅を続け、行く先々に葡萄の種と、ワインの酩酊をもたらしたのである。
しかし、それにしても、なぜ酒の神がこのような「愛されない神」として設定されたのだろう? けだし、ワインはもともと葡萄から生まれた、不義の子のようなものである。しかも飲めば歩調は乱れ、しばしば性的逸脱を犯し、結果として不義の子が生まれることになった。こうした酒の持つ性質から「愛されない不義の子」として、酒の神が設定されたのではあるまいか。
実際、古代ギリシャにおける酒というのは、薬であると同時に毒でもあったようで、この世にディオニュソスが生まれる以前は、酒は人の気を狂わせ、アルコール中毒で死に追いやる、魔性の飲み物とされたらしい。毒杯と紙一重の酒を広め、市民の倫理を平然と踏みにじる酒の神は、町から町へと放浪するほかなかったのだろう。
そしてディオニュソスの祭儀からは、詩や音楽、演劇といった文化が生まれた。古代ギリシャの演劇は、ディオニュソスに捧げる祭の一部として、発達を遂げたのである。こうして酒と音楽、芝居に酔い痴れたあとは、おそらく多くの男女たちが、夜の帳にまぎれながら、禁断のエロスに興じたに違いない。古代ギリシャの昔でも、酒とエロスと文化とは、密接不可分だったのだ。
だがやがて、こうして生まれた詩や演劇を、小賢しい理屈で分析し、市民的な倫理観で断罪する、融通の利かない連中が登場する。ギリシャ哲学の登場である。アリストテレスはすべて理詰めで芝居の台本を分析し、プラトンは詩人を国家から追放せよと叫んだ。かくてギリシャの輝かしい文化は、衰退へと向かったのである。
ニーチェはこうしたギリシャ文化を論じて、ディオニュソス的なものがアポロン的なものに塗りつぶされたのだと断じた。いまに至るもギリシャの詩や演劇は、高尚で理知的なものと思われ、酩酊とエロスの産物とは言われない。ギリシャを覆った哲学の後遺症は、いまだに尾を引いているのである。
堅苦しい学者の手には負えないような、とてつもないエロスの体系が、古代ギリシャには渦巻いていた。このへんで我々も良い加減、そうしたギリシャ文化の秘めた、エロスを直視しても良いのではないか。ニーチェの『悲劇の誕生』から、約百三十年を経た現在、私はそんなふうに考えている。
#35【悲劇の誕生】
(著)フリードリヒ・ニーチェ
#36【ディオニュソ 大空の下を行く神】
(著)マルセル・ドゥティエンヌ
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟