第二十二回
ソポクレス 『オイディプス王』
寺山修司 『田園に死す』
★オイディプス神話の最高傑作
世界に神話は数あれど、ギリシャ神話くらいエロティックな神話体系もまたとあるまい。やってはいけない欲望が神話の形で語られて、これでもかとばかりに詰まっている。どれもこれも危険な物語ばかりだが、そんななかでもひときわ有名なものといえば、オイディプスの物語だろう。
実の父親を殺害し母親を犯すオイディプスの物語は、古くからギリシャで語り継がれたものだった。ギリシャではソポクレス、アイスキュロス、エウリピデスの三大劇詩人が、こぞってこの物語を書いているが、なかでも最高の作品とされたのが、ここに紹介するソポクレス版『オイディプス王』である。
舞台は太古のギリシャの都、テーバイ。町を治めるライオス王は、やがて生まれる息子によって、自分がいつか殺されるという予言を聞く。予言を恐れたライオス王は生まれた息子を山に捨てるが、それから十数年後、盗賊に襲われて殺されてしまう。
王を失ったテーバイは、さらに苦難に教われる。丘の上に出現した怪物スフィンクスが町行く人々に謎を投げかけ、答えられなかったら食べられるという災厄に見舞われるのである。この時出題された問題こそ「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物は何か」という有名な問いである。
だが、そこに一人の若者が現れる。放浪の旅を続けてきた青年、オイディプスである。いわずもがなだが、オイディプスはスフィンクスの問いにこう答える。朝は四つん這いで歩く赤ん坊、昼は二歩足で歩く大人、夜は杖をついて三本足で歩く老人。つまりその生き物とは人間だ、と。
謎を解き明かされたスフィンクスは崖から巳を投げて死んでしまい、テーバイの都には平和が戻る。オイディプスもまた未亡人となったライオス王の妻を娶って、テーバイの王となるのである。
……で、めでたしめでたし、というわけにはいかない。実はソポクレスの台本は、この事件のあとから始まるのだ。
★「負の自分探し」の悲劇性
既に冒頭に述べた通りオイディプス王の物語は、ギリシャではきわめて有名な話だ。王を襲った盗賊がオイディプスであり、彼が妻にした王女がオイディプスの母であることは、ギリシャ人の観客なら、すべて先刻ご承知のこと。つまり観客たちは「ネタバレ」の状態でこの芝居を見るわけだ。
日本の時代劇にたとえれば「ご隠居」と呼ばれる老人が実は水戸黄門であり、最期は印籠を出してくるのを、日本人なら誰もが知っている。オイディプスもこれと同じで、どういう悲劇が起こるかという筋立ては誰でも知っている。問題は悲劇そのものでなく、それがどうやって明らかになるのかという、悲劇の暴露のプロセスなのだ。
さて、物語はテーバイの都に暗雲が垂れ込めている描写から始まる。恐るべき怪物スフィンクスを倒し、新しい王が即位したというのに、作物は枯れ空気は澱み、人民は嘆き悲しんでいるのだ。この国のどこかで何か呪わしい出来事が起こっているに違いない。一体何が問題なのか? オイディプス王は思い悩んで原因を探ろうとする。
既に誰もが知る通り、都の衰退の原因を生んだ真犯人は、実はオイディプス自身である。彼は知らず知らずのうちに父を殺し、母を犯してしまっている。彼の犯した罪に対する神の厳しい懲罰によって、テーバイには衰退が起きているのだ。だが劇中のオイディプスは、その事実をまったく知らない。
しかも皮肉極まりないことに、衰退を引き起こした張本人であるオイディプス自身が、誰よりもっとも真剣に、真犯人を突き止めようとする。彼の罪を知る人物は、誰もがそれを知ってはならぬと、オイディプスの行動を制止する。だが一人オイディプスだけは周囲の制止を振り払い、暗黒の真実に向かって突き進むのである。
つまりソポクレス版『オイディプス王』の悲劇性は、父を殺し母を犯したという、その事実そのものにあるのではない。知らずに犯した禁断の罪、知ってはならぬ無意識下の罪を、自ら暴いて知ってしまう。そんな「負の自分探し」にこそ、この劇の持つ本当の悲劇性があるわけだ。
★エロスの暗がりに潜むもの
母親に対する思慕の念や父親に対するライバル心は、男性なら誰もが持つ心理だろう。だが、そんな世間並みの感情も、底の底の奥底まで突き詰めていけば、人は禍々しい欲望に直面せざるを得なくなる。そこには父への殺意と母への性欲という、人外の欲望が潜んでいるからだ。
人間の抱えるエロスには決して覗いて見てはならない、深い闇の領域がある。ソポクレス版『オイディプス王』とは、そんな禁断の領域、暗黒の無意識へ向かって突き進んでいく、一人の男の悲劇である。自らの無意識を覗き見てしまったオイディプスは「もうこの世など見たくない」と、自分自身の目を潰して放浪の旅へと出てしまう。ソポクレス版『オイディプス王』は、エロスを見つめることの禁忌を語る、いわば「まなざしの悲劇」なのだと言えるだろう。
この悲劇は現在に至るも世界中で上演され続けているばかりでなく、精神分析をはじめとするきわめて広範囲な文化の上に、大きな影響を与え続けている。たとえば六〇年代アメリカのロックバンド「The Doors」が歌った十分以上にも及ぶ大作「The End」は、まさにこのオイディプスの悲劇を題材にしたことで有名だ。
我が国の例を振り返るなら、前衛劇作家で映画監督、歌人、俳人でもあった寺山修司は、その歌集『田園に死す』のなかで、こんな歌を歌っている。
見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし(修司)
この歌がオイディプス王の悲劇を歌ったものかどうかはわからない。むしろルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの手になる映画「アンダルシアの犬」に出てくる、剃刀で眼球を切り裂くシーンを連想させる歌であり、寺山がここからヒントを得て詠んだ歌であることは間違いないだろう。
だがここで思い出しておきたいのは、作者の寺山修司がその母ハツとの間に近親相姦的とも近親憎悪的とも言える愛憎関係を持っていたこと、そして彼には覗き趣味があり、それがもとで晩年はスキャンダルに見舞われたことである。
こうしたことを思うなら「見るために」の歌にはあまりにもオイディプス的な「見ることの悲劇」が歌われているように思えてならないのだが、どうだろうか。エロスの世界の暗がりには、人が決して見てはならない、魔性の化身が潜んでいるのだ。
#39『オイディプス王』
(著)ソポクレス
#40『田園に死す』
(著)寺山修司
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟