樋口ヒロユキ ソドムの百二十冊 #23 ジークムント・フロイト『フロイト全集〈10〉』 妙木浩之『エディプス・コンプレックス論争』

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第二十三回

ジークムント・フロイト 『フロイト全集《10》』
妙木浩之  『エディプス・コンプレックス論争』


★オイディプス神話とフロイト



 父親を殺し、母を犯すオイディプス王の物語は、文化の実にさまざまな分野に、大きな影響をもたらした。精神分析医のジークムント・フロイトもまた、この物語から影響を受けた一人である。彼はこの物語を手がかりに、一つの重要な概念を導きだす。母親に対する近親相姦的な感情と、父親に対する敵愾心が入り交じった感情、すなわち「エディプス・コンプレックス」である。
 『フロイト全集《10》』所収の論文「ある五歳男児の恐怖症の分析(ハンス)」は、ハンスと名乗る一人の少年の症例分析である。ハンスは極度に馬を恐れるという「馬恐怖症」の症状を訴え、フロイトの許にやってくる。外に出ると馬に噛まれるとか、夜寝ていると馬が入ってくるなどと、ハンスは馬への恐怖をしきりに訴えるのである。


 フロイトは分析を重ねるうち、ハンスに妹が生まれていたこと、そして「おちんちんをいじると切ってしまうぞ」と、母親に脅かされていたことを知る。ハンスはベッドで母親を独占したいのに、妹が生まれてしまったためそうはいかない。母親は妹を介して父親との絆を強めているし、淋しいのでペニスをいじると、今度は母親に叱られる。こうしたことが重なって、馬すなわち父親の象徴に、ペニスを噛み切られるのではないかと怯えるようになっていったのだ。
 フロイトはここに「父を敵視し母と寝たいという欲望」、まるであのオイディプス王のような欲望を見いだす。これこそ「エディプス・コンプレックス」である。


 分析の過程でフロイトは、ハンスに正しい性教育を行い、ハンスの空想もそれに連れて、さまざまに変化していくが、最終的には妹への嫉妬や母への欲望、そして父への不満や批判の言葉を自由に語れるようになる。それと同時に馬への恐怖も、ハンスのなかから消えていくのである。
 人は誰しも、父への敵意と母への愛慕というオイディプス的な欲望を秘めている。だがこうした欲望は心のなかで抑圧されて、無意識の奥で煮えたぎっている。この抑圧が堪え難いものになったとき、ハンスのような妄想が生まれるのである。
 フロイトはこの抑圧を解き放つと、人は妄想や神経症から自由になれるということを見つけ出した。精神分析とは無意識下に抑圧された欲望を他者に話すことによって、抑圧から逃れる方法だったのである。



★父殺しに遭ったフロイト



 面白いことにフロイトは自分の実人生のなかにあっても、オイディプス神話そっくりの状況を体験している。ただしフロイトが演じるのは、父を殺して母と寝るオイディプスの役ではない。彼が演じてしまったのは逆に、息子に妻を寝取られ殺されるライオス王の役回りである。
 フロイトには多くの弟子がいた。兄弟間の葛藤に注目し、個人心理学を確立したアルフレッド・アドラー。普遍的無意識を唱えたことで有名なC・G・ユング。父と子の関係に重きを置いたフロイトに対して、人生の本質は母と子であると考えたオットー・ランク。PTSDの概念よりはるか以前に、心的外傷の研究に取り組んだフェレンチィ・シャーンドル……。日本ふうに言えば、まさに「門弟千人」といった具合である。


 フロイトはこうした弟子たちに対して、その厳格な父であるかのように振る舞ったことで知られている。ところがのちにフロイトは、こうした弟子たちにことごとく離反され、孤立の道を歩まざるを得なくなるのだ。いわば彼は象徴的な「父殺し」の対象にされてしまったのである。
 精神分析学者の妙木浩之の手になる『エディプス・コンプレックス論争』は、そんなフロイトの悲劇を綴った書物だ。ここにはフロイトから離反した弟子たちのエピソードが数多く紹介されているが、先に挙げた弟子たちがいずれもフロイトと袂を分かち、象徴的な父殺しへと走ったエピソードが果てしなく続く。結局は破綻に至る繰り返しばかりで、どうして誰も彼も同じ行動を取るのか、読んでいて不思議になるほどだ。


 しかも離反した弟子たちの多くは、フロイトとの間で女性を巡る争いを演じている。たとえばユングは、フロイトの抱えていた女性患者と不倫の関係にあったという。ユングとフロイトは精神分析の理論面でも対立していたが、この女性をめぐっても激しく相争っていたのである。
 逆にオットー・ランクの場合、自分の妻が熱心なフロイトの信奉者であったため、最終的には妻を手放さざるを得なくなっている。あるいはフェレンチィ・シャーンドルの場合、フロイトの初恋の人と同じ名前の女性と結婚していて、私にはどう見ても「厳父フロイトの妻を奪いたい」という願望の現れとしか思えないのだが、どうだろう。
 要するに彼らフロイトの弟子たちは、いずれも象徴的な父であったフロイトを殺害したばかりか、フロイトの患者や信奉者、元恋人といった「フロイトの妻=象徴的な母」と交わろうとしたのである。



★フロイト父娘の黄泉路にも似た道行き



 こうして息子たちを失ったフロイトの許には、晩年には女性しか残らなかった。なかでも彼が溺愛したのは、実の娘のアンナ・フロイトであった。晩年のフロイトはがんを患うことになるが、アンナは病床の父を献身的に介護する。やがて彼女はその最期を看取るとともに生涯独身を貫きながら、フロイト学派を継承していくのである。
 ここで私が思い出すのは、オイディプス王の物語で、オイディプスとともに放浪の旅に出る娘、アンティゴネーのことである。自分の罪を知ったオイディプスは、我が目を潰して旅に出るが、彼がその際に伴ったのは、娘のアンティゴネーだった。人外として流浪の旅に出る、黄泉路にも似た父娘の道行き。その姿はどこか晩年のフロイトとアンナの姿を彷彿とさせないだろうか。


 フロイトから離反した弟子たちは、いずれも厳父フロイトを象徴的に殺害し、彼の象徴的な妻、すなわち「母」と寝てしまった。いわば彼らは皮肉なことに、フロイトの理論が正しいこと、人は誰でもオイディプスの悲劇を心の奥底に秘めていることを、身をもって証明してしまったのである。
 フロイトの弟子たちはいずれもオイディプス理論に批判的で、そこから彼ら独自の理論を打ち立てていった。だが彼らは一様に、実生活ではオイディプスの悲劇を演じてしまった。オイディプスは知らずに父殺しと母子相姦を演じ、その現実を見まいとして、自分の目を潰した。同様にフロイトとその周囲の弟子たちもまた、自らがオイディプスの悲劇を演じていることを、決して見ようとはしなかったのである。







フロイト10.jpg#41『フロイト全集<10>』(著)ジークムント・フロイト論争.jpg#42『エディプス・コンプレックス論争史』(著)妙木浩之







樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

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【ブログ】少女の掟