樋口ヒロユキ ソドムの百二十冊 #27 P・K・ディック『ヴァリス』 藤野一友=中川彩子『天使の緊縛』

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第二十七回

P・K・ディック『ヴァリス』
藤野一友=中川彩子『天使の緊縛』



★『ヴァリス』と《抽象的な籠》のハーモニー



 ここに一枚の不思議な絵がある。夜明けの空を背景に、全裸の女性がベッドに横たわっている絵だ。だが女性のからだには無数の虫食いのような穴が空き、がらんどうの内部が見える。しかも空洞の身体の内部には、小人のような人間がいる。いや、むしろ中の人間の方が普通サイズの人間で、横たわる空洞の女性の方こそ、巨大な人間なのかもしれないのだが……。
 体内にいる人間たちは、所在なげに立ったり座ったり、性交したり踊ったりしている。一体何に絶望したのか、首を吊って死んでいる者もある。その様子は十六世紀ベルギーの画家、ピーテル・ブリューゲルの描く奇怪な農民画を彷彿とさせる。これら巨大な女性に寄生した人間たちは、彼女のからだの内部を食べ尽くして、滅亡の時をぼんやりと待ってでもいるかのようだ。


 いっぽう空洞化した女性の方は、内部に住まう人間たちの蠢きに、言い知れぬ愉悦を感じてでもいるのだろうか、静かにその目を閉じたままじっとしている。彼女の性的な昂りを暗示するかのように、空洞化した女性器の彼方には、いままさに朝日が昇ろうとしている。体内に虚無を飼うことで、この女性はエロスを感じているのである。
 この奇妙な絵画作品、題名を《抽象的な籠》という。藤野一友という画家の作品で、一九六四年に描かれたものだ。藤野は一九八〇年に亡くなったが、その二年後の一九八二年、この作品は一冊の本の表紙に採用される。アメリカのSF作家、P・K・ディックの『ヴァリス』の邦訳である。


 『ヴァリス』の舞台はSF作品の通例に似ず、宇宙空間でも未来でもない一九七〇年代のアメリカ西海岸に設定されている。「宇宙からのピンク色の光線」を浴びた男が、人工衛星の姿をした巨大情報システム「VALIS」に出会うという物語だ。「VALIS」は全宇宙を司る全知全能の存在だが、ふだんは「ゼブラ」と呼ばれる路上のゴミに擬態している。ほとんど精神病による妄想か、ドラッグによる幻覚としか思えない設定だが、やがて主人公たちの周囲には「VALIS」の実在を信じざるを得ない出来事が次々に起こり、奇怪な運命に巻き込まれていく。
 舞台が現代アメリカであることも手伝って、一時は作者の発狂説さえ出た『ヴァリス』だが、その異様な物語は、表紙の藤野作品とは直接の関係を持たないにもかかわらず、絶妙なハーモニーを奏でていた。そして本作の翻訳版の刊行と同じ年、福岡市美術館では大規模な藤野一友の回顧展が開かれた。おそらくは『ヴァリス』の刊行と歩調を合わせての開催だったのだろう。



★藤野一友のもう一つの顔、中川彩子



『ヴァリス』とこの展覧会と、どちらがきっかけで藤野を知ったか、いまとなっては思い出せない。当時この美術館のすぐ近くに住んでいた私は、数回に渡ってこの展覧会を見に行った。大林宣彦との共同監督で藤野が撮ったモノクロ映画「喰べた人」(一九六三)も上映されていた記憶があるが、いまでは資料が手許になく確認できない。
 藤野はシュルレアリスティックな裸婦像を数多く描いたが、彼の描く裸婦像には、どれも大理石のような肌触りがあった。フランスのシュルレアリスト、ルネ・マグリットの作風に少し似ているが、曖昧な靄に包まれたマグリットの裸体とは違って、藤野の描く裸婦たちはいつも緻密な輪郭のなかに、標本のように凝固していた。卵のように滑らかな肌、だがその内部には常に空虚を抱え、永遠に絶頂を迎えたままで、静止しているかのようだった。


 現在では知る人ぞ知る存在となってしまった藤野だが、往時は三島由紀夫や澁澤龍彦の挿絵の仕事を数多く手がけ、三島演出の舞台では舞台美術も担当した。藤野の硬質のエロティシズムは、七〇年代の文学的風景になくてはならない存在だったのだ。
 そんな藤野一友が「中川彩子」という筆名を持ち、SM雑誌などの挿絵画家としても活動していたと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。おそらく世間的にも両者の関係を知る人は、さほど多くはなかったのではないか。藤野は美術評論家の滝口修造から高い評価を受けていたほか二科会の会員でもあって、画壇から高く評価された「正統な」画家だった。このためSM雑誌の挿絵画家である中川彩子と同一人物であると知れては、少々マズかったのかもしれない。


 二〇〇二年に出版された『天使の緊縛』という作品集は、藤野一友と中川彩子の作品を併置した、おそらく初めての書物だそうだ。表紙にははっきりと「藤野一友=中川彩子」の名が、等号で結んで記されている。中川彩子という名もその画業も、私は本書で初めて知った。澁澤龍彦のマニアとしても知られるコラムニスト、唐沢俊一の序文によると、当時は中川彩子の方が、藤野よりも知名度は高かったという。藤野一友から入った自分としては意外な事実だ。
 中川彩子名義の作品は、鉛筆やペンで描かれたモノクロのドローイングだ。その多くに描かれるのは、藤野名義の作品でもお馴染みの、美しい卵形の頭部を持つ裸婦たちである。生まれたままの姿を曝し、奇妙に静謐な印象を漂わせる硬質のエロティシズムは、藤野名義の作品と変わらない。




★超現実の拷問と現実の拷問



 ただし藤野名義の「本画」に比べると、なぜか幾分寸足らずのからだつきをした女性が描かれているのが特徴で、いずれも縛られたり吊るされたり逆さ磔になったりして、苦悶の表情を浮かべている。この表情は藤野名義の油彩作品には見られない。
 とはいえ藤野は油彩の「本画」でも、裸婦たちをありとあらゆる責め苦にあわせている。たとえば原子爆弾の業火に炙られ、裸婦たちが目や口など、あらゆる肉体の部位から火を噴き出している《火》(一九五六)。あるいはまるで機械のように、女性が分解・組み立てされ、ガスバーナーで炙られている光景を描く《町工場のバラード》(一九五五)。冒頭に紹介した《抽象的な籠》もまた、空虚に蝕まれる女性像という意味で、やはりある種の拷問画だと言えるかもしれない。


 このように藤野=中川作品を振り返ってみると、超現実的な拷問に遊ぶ官能を描いたのが油彩画、現実界においても可能な責め苦の苦悶を描いたのが鉛筆画のドローイングということになるだろう。やはり両者は二つで一つ、同じ美意識から生まれた双生児のような作品群なのである。
 かつてフランス文学には、文豪が匿名でポルノ文学を書き、その真の筆力を試す伝統があったと聞く。昼の世界と夜の世界、その双方に生きるのが人間であり、両者を往還しつつ描くのが、芸術家たる者の使命だろう。藤野一友と中川彩子はその両面を生きた、双面の画家だったのである。





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P・K・ディック『ヴァリス』


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藤野一友=中川彩子『天使の緊縛』






樋口ヒロユキ

サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『 死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 』(冬弓舎)。共著に『 絵金 』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。

【HP】樋口ヒロユキ

【ブログ】少女の掟



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