第四十二回
福田利子『吉原はこんなところでございました 廓の女たちの昭和史』
★エロスを包む文化装置、引手茶屋
ここに紹介する『吉原はこんなところでございました 廓の女たちの昭和史』は、吉原で「引手茶屋」という商売を営む家に育った、福田利子という女性の手になる本、つまりは経営者側から吉原を描いた書物である。それでは引手茶屋とは何かというと、いわば待合室である。このあたりが吉原の面白いところで、吉原に来た客はいったん引手茶屋という待合室に寄って、そこで芸者を上げて酒食や歌や踊りを楽しみながら、花魁が来るのを待ったらしい。そこで「今日はあの子を呼んできて」などと頼み、貸座敷=遊女屋から花魁が来るのを待つのである。
遊女屋に大中小の別があることは前節にも述べたが、なかでも大店で遊ぶには引手茶屋を経由するのが習わしで、いきなり大店に入ることはできなかったそうだ。しかも引手茶屋は京都の祇園と同じで一見さんお断り、つまり誰かの紹介でないと入れない仕組みである。おまけに大店では初顔合わせとなる花魁と客は寝所(しんじょ)まで入ることはできず、初会では花魁こそ同席してくれるものの、芸者や幇間をあげて遊ぶだけ。二回目も「裏を返す」といって同じことをしなくてはならない。お客が花魁の寝所に入れるのは三度目で「馴染み」になってから、というのが決まりだったそうだ。寝所に入るにはある程度のステイタスと人脈、幾度も通い続ける財力が不可欠だったのである。
また、さすがに昭和になる頃には廃れていたそうだが、初会では「引き付け」と呼ばれる儀式が行われていたという。これは花魁と客を新婚の夫婦に見立てた「嫁入りプレイ」なのだが、実にこと細かに手順が決まっている。花魁が登場すると口上があり、花魁が吸いつけた煙管をお客に吸ってもらう「吸いつけ煙草」という儀式がある。しかも煙管は花魁が直接手渡すのでなく「下新」と呼ばれる下働きの少女の手を通じて手渡す決まりである。これが終わると「お召しかえ」で、儀式用から座敷用の着物に着替えるという段取りがある。とにかく悠長というか、ゆったりした時代だなと感心する。
とはいえ、こうした悠長さにはもう一つ狙いがある。前節までに述べた通り、とかくエロスの売買の場には切った張ったのトラブルがつきまとう。だが引手茶屋での初会から馴染みになるまでの間に暴れたり粗相をしたりすると、花魁の寝所には入れない。つまり大店の高級花魁には幾重ものリスクヘッジが設けられていたのである。引手茶屋はトラブルから高級遊女たちを守り、剥き出しのエロスを「遊び」というオブラートで包んで格式を持たせる文化装置だったわけだ。
★江戸情緒を残す吉原に立ちこめる暗雲
本書はそうした引手茶屋の家に育った書き手の手になるものだけに、遊里の文化面については充実した記述がある。実際、高級遊女になると歌舞音曲はもちろんのこと、琴や三味線、俳句や碁、なかには水墨画に通じた花魁もいたそうだ。彼女たちがしばしば浮世絵の題材となったのはよく知られる通りだし、吉原は歌舞伎とも密接な関係にあった。吉原を舞台に活躍する侠客の物語「助六」や、やはり吉原を舞台にした無理心中事件を描く「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」のように、歌舞伎はその多くが吉原を題材としていた。そもそも歌舞伎の小屋が建ち並んだ浅草の猿若町は吉原のすぐ近く、歌舞伎役者が吉原を訪れることも珍しくなく、襲名披露などの際には役者が引手茶屋に挨拶するしきたりもあったという。
著者の福田利子は大正十二(一九二三)年の生まれだが、その幼少期の吉原には、こうした江戸時代の情緒的な部分がまだ残っていたものらしい。町の中心部にあたる仲之町の植木柵には、春には桜が移し植えられ、夏になると七草を描いた掛け行灯が吊るされて絵師が腕を競い合い、菊の頃には菊人形が、冬には判じ物が展示されたという。客は吉原に来るとまずこの植木柵を眺めてから引手茶屋に、それから遊女屋へと向かったわけだ。このほか「仁輪加」と呼ばれる即興の風刺劇なども上演されていたらしく、吉原ならではの風物詩が四季折々にあったらしい。
さて、そんな百花繚乱の吉原に暗雲が垂れ込めだすのは、昭和十六年ごろのことだ。昭和十六年といえば日中戦争が泥沼の様相を呈し、いよいよ日米戦争へと日本が舵を切る頃である。この年、歌舞音曲の停止令が出され、吉原はなんとか例外として認めてもらったものの、やはり世間を覆う自粛ムードは、遊里への強い逆風となったようだ。そしてもう一つこの頃の吉原には大きな変化があった。花魁たちがいわゆる「従軍慰安婦(原文ママ)」として、前線に赴きだしたのである。
この問題についてはさまざまな見解があることは承知しているし「従軍慰安婦」という言葉にも異論を唱える論者がいるのは存じ上げてはいるが、ともあれ該当する箇所を本書から引用しておこう。
「吉原から従軍慰安婦を出すようにという軍命令が、貸座敷組合に来たのだそうでございます。(略)あのときは必ずしも強制ではなく、自分から希望して、兵隊さんについて行きたいといった花魁が多かったんですよ。(略)慰安婦を希望した花魁たちはみな、『兵隊さんと一緒に死ぬ』ということを本気で思っていたのだそうです。(略)戦場で亡くなった人たちも、相当な数になるのではないでしょうか。でも、一般の戦死者には軍人遺族年金が支給されているのに、従軍慰安婦は名簿もないのだそうです」
★焼け野原になった吉原に再興を命じた政府
どれも伝聞ばかりでいささか信頼性を欠く記述ではあるが、それはさておき右の引用文には一つ大きな矛盾がある。「従軍慰安婦を出すようにという軍命令が」来たのに「必ずしも強制ではなく、自分から希望して、兵隊さんについて行きたいといった」というのである。軍は関与していたのかそうでないのか、命令だったのかそうでなかったのか。真相は一体どうだったのだろう。ただ、著者が慰安婦の派遣を「軍命令」と受け止めたということは、一つの時代の証言として見逃せない事実と言えるかもしれない。
断っておくが本書の著者は、いわゆる左翼的な人物ではまったくないし、慰安婦は自発的に戦地に行ったと誇らしげに書く人ですらある。ましてこの証言は「軍命令が貸座敷組合に来た」ことについての、吉原関係者の間に伝わる伝聞の記録として綴られている。少なくとも吉原の多くの人々のあいだで軍の命令があった「かのように」思われていたことは間違いあるまい。
そしてもう一つ特筆しておきたいことは、戦場での慰安婦の生活は、死と背中合わせのものだったということだ。なにせ「お国のために死んで来い」が兵士を送り出す際の決まり文句であった時代、それでもなお彼女たちは死地に赴き、お国のために身体を張った。確かに慰安婦は兵士ではなかったかもしれないが、名簿すらなく戦史にすら正式に記されないというのでは、あまりにむごいと思うのだが、どうだろう。
その後、日本が敗色濃厚となるにつれ、内地に残った花魁たちの日本髪も禁止となり、最後はもんぺ姿で仕事に臨んだという。そして一九四五年三月十日の東京大空襲で、吉原は全滅することになる。だが、そんな焼け跡で呆然とする吉原の人々に、一九四五年の五月、当局は吉原復興を命じたらしい。理由は治安維持と国威発揚のためだったという。既に当時、日本の主要都市は空襲によって焦土と化しており、吉原の花魁たちも多くが空襲で命を落とし、生き残った者も散り散りバラバラだったにも関わらず、である。吉原どころの状況とはとうてい思えず、正直、当局の正気を疑わざるを得ない。
★江戸から続く文化を奪われた戦後
とはいえ命令は命令である。ベニヤでできた急ごしらえの吉原遊郭が、営業を再開したのは八月五日のことだったそうだ。そして八月十五日、敗戦。復興吉原はわずか十日で再び姿を消したのだが、驚くのはそのあとである。敗戦からわずか三日後の十八日、内務省から各府県に向けて「進駐軍特殊慰安施設について」という無電が打たれていたらしい。内容はまたしても吉原の復興を命じるもの、目的は「一般の女性の貞操を守るため」だったそうだ。当時の日本政府はセックスのことしか頭になかったのだろうか。
ともあれこうして進駐軍向け国営売春機関「特殊慰安婦保安協会(RAA)」の施設が吉原に次々とオープンすることになるのだが、その結果は悲惨だったようだ。遊興費に事欠いた米兵が娼婦を強姦する事件が相次ぎ、避妊具もつけずに事に及んだ結果、凄まじい勢いで性病が蔓延したのである。結局わずか一年で立ち入り禁止の立て札が立ち、三たび吉原は無人の野に帰ったという。戦時下、占領下の紛争地帯では、いくら性風俗を作っても、性犯罪の防止には役に立たないという見本のような事例と言えよう。
そして一九四六年、今度はGHQの命令によって、公娼制度は廃止されることになる。ところが警視庁は「特殊飲食店の経営なら認める」という方針を打ち出し、このGHQの命令を骨抜きにする。警視庁はそれまでの貸座敷=遊女屋を表向き「カフェー」に業態転換させることで、うやむやのうちに延命を図ったのである。これ以降、吉原の貸座敷は一斉に模様替えし、ボックス席とバーカウンターの設置が義務づけられ、和風の店は一掃されることになった。こうして誕生した特殊飲食店の一角こそが、いわゆる「赤線地帯」である。かつて曲がりなりにも江戸文化のゆりかごとなった貸座敷は、こうして姿を消してしまったわけだ。
吉原の歴史は一九五六年の売春防止法の成立によって、この赤線地帯が廃止されるところまでで終わる。だが売春防止法の施行ののちも、特殊飲食店は特殊浴場、すなわちソープランドとして業態を改め、実態的に現在も続いているのは広く知られる通りである。セックス産業の街としての役割はそのままに、そのうえに華開いたエロスの文化を根こそぎにされた街、吉原。読者諸氏はその歴史と現在を、どのようにお考えになるだろうか。
福田利子『吉原はこんなところでございました 廓の女たちの昭和史』
樋口ヒロユキ
サブカルチャー/美術評論家。専門学校、美大などで講師を務める傍ら、現代美術とサブカルチャーを幅広く紹介。1967年福岡県生まれ、関西学院大学文学部美学科卒。単著に『
死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学
』(冬弓舎)。共著に『
絵金
』(パルコ出版)、『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)など。
【HP】樋口ヒロユキ
【ブログ】少女の掟